沙田神社:常世ニ降ル花 刺国朧月篇 01

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「沙田神社には謎が多い」

narisawaさんがそんなことを言うもんだから、行ってみることにしました。

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長野県松本市島立三ノ宮に鎮座の「沙田神社」(いさごだじんじゃ)は、信濃国三ノ宮を謳う神社です。
“いさご”って言うんだ、読めねー。

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「沙田」は「さだ」と僕は最初に読んで、「佐太」じゃね?って思いました。
また「沙」とは砂のことで、「いさご」を漢字変換すると、「砂金」も出て来ます。

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祭神は「彦火火見尊」(ひこほほでみのみこと)、「豊玉姫命」(とよたまひめのみこと)、「沙土煮命」(すいじにのみこと)のお三方。

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ホホデミは記紀に則せば、ニニギとコノハナサクヤの子で、別名に「火遠理」(ほおり)とも、山幸彦とも呼ばれています。
富家伝承的に言えば、徐福と市杵島姫の間に生まれた子に、「穂屋出見」がおり、海部家のカゴヤマに嫁いだ穂屋姫の兄で、物部家始祖とされる人物になります。

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豊玉姫は記紀では綿津見神(豊玉彦)の娘で、龍宮の乙姫になります。
富家伝承的には宇佐の女王、親魏和国の姫巫女です。

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沙土煮(すいじに)と言う神はあまり聞き慣れませんが、神代七代の第一代の古い神で、女神であること以外に詳細は不明。この神を主殿で祀っているのは、全国でもここだけとの情報です。
ふむふむ、なるほど興味深い。

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三柱の中で、誰が中心なのかというと、神社の造りなどから見て、豊玉姫らしいとnarisawaさん。

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「な・の・に、沙田神社の例大祭は御柱なのだー」と。
確かに立派なモノが、そそり立っておりますな。

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イクメによる物部王朝期以降、信濃国への物部侵攻は繰り返しなされているので、物部系のホホデミが当地に祀られているのは、そう言うことなのだと思います。

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沙土煮神は泥土煮神の妻神として記紀に記されるのですが、当社では沙土煮を「しおつちのおじ」と読み、男神としていると言う説もあるようです。
泥土煮・沙土煮の神は「製塩の神」と考えられており、信州松本は古くから塩を運ぶ街道の宿場町として知られ、それゆえに祀られているのではないかとのことです。
沙田神社という社名は、沙土煮神から来ていると考えるのが、自然な気がします。

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しかし当社の社名についても、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「沙田神社」と記載されつつも、『日本三代実録』載る「梓水神」にあてる説もあるとのこと。
というのも、沙田神社はもともと鷺沢という場所に鎮座しており、その梓川の水霊を祀ることに始まったと見られているからなんだそうです。

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Googleマップで検索してみると、確かに沙田神社の元宮(奥社)という場所が西の山中にあります。
この辺りは波田と呼ばれています。

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しかしnarisawaさんによれば、「鷺沢嶽の地図上の位置はよく分からない」と、沙田神社の謎を挙げられます。

「鷺沢というのは、波田白山の西側、波田町と旧安曇村との町村境から入る黒川林道の入り口付近の沢の名前なのだが、本当にその沢付近にある頂のことなのか不明である。
というのも、沙田神社にある記載では沙田神社の西11.25kmに奥宮があるという。鷺沢やその付近にある小さな山までは13kmあるのだ。11.25kmにあるのは鷺沢ではなく、波田白山の東側にある中沢である。
実際に御柱の木として切り出しているのはその10km付近にあるわたわたの家のごく近所の巨木であった。奥宮は実は波田白山東側の中沢上流にあるのではないだろうか」

調べてみれば、確かに奥社の場所は13kmほど西にありました。

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「波田には諏訪神社がある。諏訪神社の例大祭は毎年秋分の日前後。舞殿(ぶでん)と呼ばれる飾り付けをした山車を引く祭りが行われている。地元の人たちは山車(だし)とは言わず、舞殿と呼ぶ。中波田・下波田に2つの舞殿があり、それぞれに異なるお囃子をしながら、両地区を出発し、引き歩きながら諏訪神社前に集結し、ぶつかるギリギリ数センチまでピタリと寄せて神社前に並ぶ姿が見所である。異なるお囃子が掛け合うように流れ、かなり幻想的な感じになる。っと、やや脱線したが、舞殿というのは、普通は神社内に固定されたものを指すようで、山車を舞殿と呼ぶのは何か引っかかる。そして波田の諏訪神社では御柱祭がない」

山車を舞殿と呼ぶのは、豊玉姫に関連するものでしょうか。麗しい姫巫女に捧げる祭りに、山車では無粋だと。

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神明造の本殿は、確かに諏訪神を祀ると言うよりは、豊玉姫を祀るに相応しい雰囲気です。

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だけど御柱は立っている。確かに不思議。

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豊系の神社に御柱祭があるのは確かに不思議ですが、諏訪社に堂々と豊玉姫が鎮座している場所が、そういえばありました。
山梨県南都留郡山中湖村山中、山中湖畔に鎮座する「山中諏訪神社」です。

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山中諏訪神社の本社から、山中湖の対岸にある明神山山頂には、豊玉姫を祀る山中諏訪神社の「奥宮」が鎮座しています。
その奥宮からの景色は、

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長野の高ボッチ高原から諏訪湖越しにみる富士の景色とそっくりでした。
山中湖も、冷え込みの強い時は、諏訪湖同様に神が通る道と伝えられる、御神渡り(おみわたり)が見られるとのことでした。

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豊玉姫と諏訪の祭り、そこに不思議な繋がりを感じます。

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沙田神社の境内奥に、ひっそりと石碑が立っていました。
これは「物臭太郎の碑」だそうで、古くよりここに大きな塚があり、物臭太郎の墓であると伝えられていたとのことでした。

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4件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110
    おお〜。信濃国三宮にようこそw
    実はあの近くの地積は、大庭と言います。
    まるで松江の旧王宮の地積の様です。
    ここから北東の青木村には子檀嶺岳があり、夫神岳、女神岳、大明神岳があり、麓には地積も大庭があります。
    祭神は下照姫です。
    当神社は元々は出雲系であったと思われますが、最近はミナカタのフリをした物部が色々やってないかと思う様になりました。
    物部の系統とすれば、トオチネ系統と、豊彦系統が信濃では考えられます。
    松本から旧四賀村が、東山道に当たりますので、四道将軍時代の後に、上家野系が統括になった様な伝承になっていたかと。
    タケル伝承は、関東で亡くなったタケルと、男系物部の上毛野系の投影が一緒になっている可能性があると考えています。

    同じ様にですね、最近調べたところ、信濃の安曇族なんですが、阿部氏、布施氏と混同する視点がどうもある様子で、安曇氏と、阿部家は同じ尾張家である事から、忌部氏を調べようとすると膳出の大彦系が出てくる様な事情と同じ現象が、信濃でもある様なのです。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      春なのに、写真は思い切り紅葉です😄
      実は昨年秋の紅葉姫旅の時に、訪ねておりました。

      信濃国は蝦夷国との国境だからでしょうか、二重にも三重にも覆い被さった感じがしますねヴェールを丁寧に剥がさないと、本物が見えにくい。
      豊彦は分かりますが、十千根系も信濃に来ていますかね。

      大庭はアツいですね!
      へえ、松本付近にも大庭があるのか🤔
      下照姫ってことは曳田・郷戸家も信濃に来ていたのでしょうか。やはり信濃は深いな。

      いいね: 1人

      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        narisawa110

        あ、イヤイヤ、トオチネ系とは物部守屋の系統の一族という意味です。諏訪族とも古くから習合してそうな気配がありますから。

        「阿曇」と「安曇」の表記について、田中卓は、本来は「阿曇氏」であったのが、天平3年(731年)以前に「安曇氏」と書かれるように変更されたと発表しているそうです。

        なんにせよ、当時の信濃はミチノクの境で、ここまで来ればどうとでもなる様な謎の地域であったんじゃないかとw

        いいね: 2人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          そういうことですね。
          たしかに、陸奥(みちのく)とはよく言ったもので、今でもそこから先は、深淵然としているように感じます。
          ガチ組もいたでしょうが、阿部や豊を討ちたくない物部もいたと思います。そんな彼らを匿う一族が、諏訪にはいたのではないでしょうか。

          なるほど、では僕も今後は、「阿曇」と表記するようにしましょう。しかしなかなか変換できないんですよね、この文字。

          いいね: 1人

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