
和歌山県和歌山市片岡町にある「刺田比古神社」(さすたひこじんじゃ)が気になったので、訪ねてみました。
この境内入口の写真を撮影していると、ちょうど掃除を終えられたご年配の宮司さん、岡本さんに声をかけていただき、境内を案内していただきました。

当神社は江戸8代将軍「徳川吉宗」公と縁が深い神社で、本殿は紀州和歌山城の南側に鎮座し、参拝すると、同時に和歌山城を拝することになると岡本さんが話してくださいました。

吉宗(有徳公)は貞享元年(1684年)10月24日、紀州藩2代藩主の徳川光貞の第4男として、和歌山に生まれました。しかし誕生と同時に、和歌山城南西隅にある扇の芝に捨てられたといいます。その際、刺田比古神社の神主「岡本周防守長諄」が拾い親となったのでした。長諄(たけあつ?)は箕と箒で吉宗公を拾い、家老加納五郎左衛門に預けたということです。

これらの行為は厄払いの行事であり、もちろん、吉宗は本当に捨て子にされたわけではありません。
父親の厄年42歳の時2つの子がいると、その子は親を食い殺すという迷信があるそうですが、吉宗は光貞59歳の時に生まれていますので、これは母親「お由利の方」が厄年のときに生まれたためであろうと、考えられています。
ともあれ、厄年に生まれた子供は捨て子にすれば丈夫に育つという風習があったため、光貞公は、自身の産土神でもある岡の宮神主に子供を拾わせることで、神からの贈り物としたのだということです。

この吉宗の愛馬を象った神馬像は、左右の表情が微妙に違って見えて面白い。

刺田比古神社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていません。
また大戦による空襲を受け、社殿その他はほとんどが消失しています。

ただ、参道の石畳は古来のまま残っており、それを元に本来の姿を可能な限り再現しようと試みておられました。

刺田比古神社は「岡の宮」とも呼ばれ、当地名の片岡からも、丘陵地となっており、東側にある現在の和歌川はもっと大きな川になっていたそうです。

この岡の地には古来より人が住み、古墳もあるのだといいます。

岡の里古墳は境内南西側の山の斜面にあり、昭和7年(1932年)1月に発見されました。古墳は現在落砂によって埋没しています。

出土した土器の形状から6世紀頃のものと推測されており、まだ未発見の古墳が当地にある可能性もあるようです。

刺田比古神社の現在の祭神は、大伴氏祖で『古事記』に初代天皇の東征において先鋒を務めたという「道臣命」(みちおみのみこと)と、『新撰姓氏録』に道臣命十世孫とされ、『日本書紀』では「狭手彦」と表記される「大伴佐弖比古命」(おおとものさでひこのみこと)の二柱です。

祭神については先にも述べたように、当社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていません。
江戸時代の『紀伊続風土記』神社考定之部では「刺国大神」「大国主神」とされており、また社名は古くから「九頭明神」とも称されていました。

本居宣長は『古事記伝』において、紀伊国に大国主命を祀る神社が多いことを根拠に、「刺田」を「刺国」の誤りだとして、祭神を刺国彦命としています。
『古事記』によると、刺国大神は大国主神を産んだ刺国若比売の父神となっています。
また『紀伊続風土記』では、刺国若比売を「若浦」(和歌浦)の地名の由来であるとしています。

しかし刺田比古神社の岡本家では、神名を、『延喜式』神名帳のどの伝本をみても異同がなく、『紀伊国神名帳』にも「刺田比古神」とあり、神名を間違えて表記するというのは不自然に思われる、との立ち位置を示されます。
「刺田比古」を記す資料としては唯一、『甲斐国一之宮 浅間神社誌』に収録される「古屋家家譜」があり、道臣命の父を刺田比古命としています。
このことから社側としては、道臣命と大伴佐弖比古命以前の祖先神として、刺田比古命を祀ったものと考えているようです。

刺田比古神社の本殿横に末社群がありました。

奥の楠が、本殿を守るように幹枝を伸ばしています。

岡本さんは、手前の石灯籠と楠の前で立ち止まります。

大戦の戦火が迫る中、岡本さんのお父様がなんとか御神体を持ち出し、安置したのがこの楠の下だということです。
お父様がおっしゃるには、楠と銀杏の木は火が近づくと水を吐くのだそうで、おかげで御神体は守られたということです。

この石灯籠も、戦禍に境内で残った貴重なものだとのこと。

岡本家が当社の社家となったのは、祭神の佐弖比古命(狭手彦命)に始まるとされます。
佐弖比古は大伴金村の三男で、宣化天皇2年(537年)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救ったとされる人物です。
その武功により当地、岡の里の地を授かったと伝えられます。
また佐弖比古の10世祖である道臣命も岡の里の出身とのこと。

狭手彦といえば、この任那・百済救済の任の折、筑紫にとどまり、松浦の佐用姫との恋物語が伝えられていました。
狭手彦は物資補給と休息のため立ち寄った松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女乙姫・佐用と出逢います。
絶世の美女と噂された美しい佐用姫と狭手彦は恋に落ち、二人は夫婦の契りを結びます。
しかし狭手彦は高麗へ出兵せねばらなず、餞別として鏡を妻に贈りました。

やがて出航の日、佐用姫は鏡山に駆け登り、身につけていた領巾(ひれ)を必死に振りました。
当時、領巾を振れば邪を払い、願いが叶うと信じられていたからです。
しかし狭手彦の軍船は次第に遠ざかり、小さくなってしまいます。
狂気のようになった佐用姫は鏡山を駆け下り、松浦川を渡って海沿いまで走っていくのですが、ついに軍船が見えなくなってしまうと佐用姫はその場にうずくまって七日七晩泣き続け、とうとう石になってしまったのでした。

さて、僕は、この刺田比古神社の祭神が、長野の宮木諏訪神社の本来の祭神である刺国若比売、その父神である刺国大神を祀っていたらしい、というので訪ねてみました。
ところが、岡本家ではこれに否定的で、当社は大伴氏の発祥であるこの地に祖神・刺田比古を祀ったもので、『紀伊国神名帳』などに祭神名を誤って表記するなどあり得ないと主張します。
しかし、と僕は思います。

大伴の祖であり、当社現祭神の「道臣命」とは、かつて出雲王国と親交の深かった北陸の豪族「道ノ公家」と関わりある人ではなかったでしょうか。
北陸から越後にかけては、大和の皇子である大彦の子孫が豪族になっていました。
中でも越国の高志国造は「道ノ公家」と呼ばれ、出雲向家(富家)の親族でした。

タジカラオ・天津羽羽神系越智族のルートを辿ると、青いラインのような道筋が見えてきましたが、その途中に静岡から諏訪湖に遡る、天竜川ルートが交差します。
さらに長野の北は越国であり、越=越智である可能性を僕は考えています。
つまり道ノ公家は越智由来であり、道臣命も越智の系統である可能性はあると思われます。

刺田比古神社の鎮座地は、天津羽羽神を祀っていたであろう「朝椋神社」と近い位置にあり、一帯には大国主を祀る神社も多かったとされます。
この大国主とは、出雲の八千矛王のことではなく、土佐越智郷のタジカラオ・大国主(クズ)玉命のことと思われ、国主=クズ(国栖)=九頭龍信仰につながるものと考えられます。

つまり、当地にはタジカラオ系の刺国大神を祀る聖域が本来あり、長野、新潟の越国に移住した一族が里帰りをして、当地に刺田比古を祀った、などという妄想も浮かんでくるのです。


なるほど、刺田から案山子ですか、案外共通点があるかもしれませんね🤔
7月に思い切って箱根に行こうと考えています。
娘に話したら、とても乗り気なので、二人で出かけることになりそうです。宿は以前教えていただいた、玉簾の瀧のあるホテルにしようかと。
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白山姫(越智族)が前政権と物部政権の手打ちの事を示唆していると言うのは同意です。
越智族のルートは表記の通りなのですが、時代がいつなのか、その考証が難しいところです。
narisawaさんの言う、古代の人口動態も気になっています🤔
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narisawa110
出雲口伝としては、前2世紀の8代王朝の際にはすでに越智三島は豪族化しており、考古学的にも奈良はその100年ほど前から水稲が栽培
その2代前のオミツヌの時には全盛期の領域になっていますので、やっぱり大彦が紹介された北陸の豪族は越智三嶋であったと私も思います。九州宗像から水稲を持ち込み、北の越前からは翡翠の勾玉を手に入れ、奈良の越智族の発展をすでに目の当たりにしていたわけです。カネモッチーに近づいて色々付き合いを始めたんでしょうね。
四国においては、出雲の様な銅鐸の大量埋納が見られないことから、通常のスケジュールで、倭国大乱期に初期の銅鐸の埋納。その頃には四国の出雲領域は分断されて独自路線を考えなければ生き残れない状態になったと考えられ、それが忌部氏としての自覚というか独自性につながったと思われます。大彦を助ける余裕がないのであれば四国も助ける事が出来なかったと思われます。阿部勢は四国にも一部が撤退したと考えられます。
そして、後年の阿部の見る銅鐸も出ていること、矢野遺跡でしたっけ?地積は賀茂でありますので、銅鐸祭祀から見たら、二度にわたる銅鐸の埋納。組み合わせは出雲と尾張家。つまりどう考えても越智三島も四国に居たとしか思えません。
第一次物部東征時にヒボコ族は淡路島に逃げ込んでるので、すでにその頃には人口のそれなりに増えていた四国には行けなかったと思われ、同化して消滅しますが、第二次物部東征までは持ち込んだ鉄を鍛治で作り直していた様です(ごっさかいと遺跡)
どの一族が忌部氏に陰陽道を残せるのかと考えればやっぱり阿部尾張家ではないかと思います。
つまり、白山姫のゴニョゴニョで出雲神二柱が和解したのは、ヒバス姫の前政権と物部の崇神勢力の手打ちの事を示唆しているのかも知れません。食料を握ってた越智族を怒らせて土地に毒でも撒かれたり、水路を破壊されたりして焦土作戦取られたら、一発アウトで、食料を生産する人が居ませんので。
出雲口伝でも、出雲族は逃げ回ってたとありますので、その行為には大きな効果があった様に思えます。
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