「音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山」
万葉集に数首歌われる日本三大悲恋物語「松浦佐用姫」のお話です。
537年、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は新羅を討ち、任那・百済を救済するため軍を率いて松浦にやってきます。
物資補給と休息のため、しばらく松浦に留まっていると、佐用姫と出逢いました。
絶世の美女と噂された美しい佐用姫に狭手彦は恋に落ち、二人は夫婦の契りを結びます。
しかし狭手彦には朝廷の命を受けたやらなければならないことがありました。
やがて狭手彦出航の日、佐用姫は鏡山に駆け登り、身につけていた領巾(ひれ)を必死に振りました。
当時、領巾を振れば邪を払い、願いが叶うと信じられていたからです。
しかし狭手彦の軍船は次第に遠ざかり、小さくなってしまいます。
狂気のようになった佐用姫は鏡山を駆け下り、松浦川を渡って海沿いまで走っていきます。
ついに軍船が見えなくなってしまうと佐用姫はその場にうずくまり、
七日七晩泣き続けて、とうとう石になってしまいました。
松浦川の河口付近に「佐用姫岩」と伝わる大岩があります。
なるほど、うずくまったような形ですが、ちょっと大きいです。
鏡山登山口に「赤水観音」がありましたが、今は廃墟のようになってます。
雑木林になりつつある赤水観音は近づくのも大変です。
新羅を討つことに成功した狭手彦は再び松浦に戻ってきました。
しかしすでに佐用姫はこの世の人ではなくなっていると知ると、
その菩提を弔うため、船を繋いだ場所に寺を造りました。
それが赤水観音です。
そのまま「鏡山」に登ってみました。
登るといっても車で登れます。
山頂付近に「鏡山神社」があります。
創建は神功皇后とありますが、後に稲荷神(鏡山御食津大神・保食神)が合祀されています。
裏を覗くと、拝殿から高く上がったところに本殿があります。
拝殿横から赤い鳥居が続き、岩場に二つの稲荷社がありました。
稲荷信仰は秦氏が持ち込んだと云います。
秦氏とは秦の始皇帝時代、不老長寿の妙薬を求めて渡来した徐福が連れて来た童男童女らが帰化した一族と云うことです。
徐福を含めた彼らは、秦に亡ぼされた「斉」(せい)国人の子孫です。
斉の王族は、「イスラエルの消えた十支族」の一族だという言い伝えがあります。
なので道教にはユダヤ教の影響があるのだそうです。
徐福の連れて来た渡来人は帰化した後、物部氏として国内の重要な祭祀を行いました。
なので神社の所々に、イスラエルの六芒星が記されていたりと、その関係が伺えます。
鏡山山中をしばらく散策します。
途中にあった遥拝所のような場所。
ここが一番、神聖な感じを受けます。
鏡山神社からさらに上に登ったところに「佐用姫神社」がありました。
人知れず、ひっそりと建っています。
ハートの境内は、この神社を造った地元の人の、せめてもの気持ちなのでしょう。
佐用姫が見つめる先は、青い海。
眼下には日本三大松原のひとつ、「虹の松原」も広がります。
彼女は今も、恋い焦がれた帰り人を待っているのでしょう。