
球珠郡、郷は三所、里は九、駅は一壹所なり。
昔、この村に大きなる樟の樹あり。
因りて球珠郡という
-『豊後国風土記』
かつて、玖珠盆地に聳えていたという樟の大樹、その木陰では作物が育たず里人が困っていた。
ある時、通りかかった大男が「そんじゃ、わいがその木を切り倒してしまおう」と言って、ついに大樹を切り倒してしまった。
その切り株の跡が、今は山となって、伐株山(きりかぶやま)と呼ばれている。

そんな伐株山のふもと、大分県玖珠郡玖珠町山浦には、玖珠のナイアガラ「三日月の滝」(みかづきのたき)があります。

三日月の滝は玖珠川にかかる落差約10m、幅約100-150mの滝で、その形が三日月のように弧を描いていることから名付けられました。

ナイアガラというには、もちろんはるかに規模は小さい目ですが、それでも近づくとなかなかの迫力。
魚がこの滝を遡ることができずに引き返したことから魚返の滝という別名もあります。
それにしても、綺麗な断面。

これは自然にできたものでしょうか。人の手により、造形されたものでは?
この三日月状の岩盤の上は歩くことができ、水路のような川に近づくことができます。

なんだか水遊びできそうな雰囲気もありますが、

流されたらデッドエンドでしょうな。
昭和の子供達なら、やったかもしれません。

神社の御神木に見られるクスノキは、自生することが難しく、人の手によって植樹されていったと、確かnarisawaさんが話してくれました。
その大元とも呼べる、玖珠郷のユグドラシル伝承(伐株山)と三日月の滝。

ここは豊だとか越智だとかの聖地なんじゃね、ってことで足を運んだ次第です。



それでまあ、三日月の滝の横に「嵐山瀧神社」ってのがあったので、当然気になりました。

思った以上に、立派な境内です。

参拝してみると、人影は見えないのに、何処からともなく威勢の良い声が聞こえて来ます。

実は当社境内の隣は、農村と都市圏との交流の場として整備された、三日月の滝温泉(三日月の滝公園)があり、露天風呂等の温泉施設、宿泊施設、キャンプ場、パークゴルフ場等が設けられていました。

威勢の良い声の主は、パークゴルフに勤しむ、紳士淑女の皆様のお声でした。

また当施設では、カヌーや釣りが体験できるようになっているそうです。

それで、嵐山瀧神社の祭神ですが、「宗像三女神」が祀られているようでした。
ほうほう、これはこれは。

宗像三女神、とりわけ末っ娘の市杵島姫は、豊玉姫のダミーとして祀られていることが多いです。
また、謎の氏族・変若水(おちみず)の巫女を擁する水沼氏も、宗像三女神と関わりが深い。

これはやはり、月神祭祀の聖地なのではないか、と小躍りしてみましたが、当社創建の由来は、別にあるようでした。



嵐山瀧神社には、宗像三女神の他に「小松女院」(こまつにょいん)と十一人の侍女が祀られていました。

小松女院は醍醐天皇の孫であったと伝えられています。

今からおよそ千年ほど昔のこと。京の都に、清原正高(きよはらのまさたか)という横笛の名手がおりました。
正高の笛の音は、清くせつなく、多くの者の心を惹きつけました。
やがて正高の横笛の噂は帝の耳に届くこととなり、呼ばれて宮中の宴の席で笛を吹くことになりました。
そうして、正高が宮勤めをするようになったある日のこと、彼がいつものように笛を吹いていると、どこからともなく、その笛に合わせて美しい琴の音が聞こえて来るではありませんか。
正高が音の正体を探してみると、それは美しい姫、小松女院の奏でる琴の音だったのです。

その日から、宮中では、笛と琴の音あわせが毎日のように聞かれるようになりました。
そうしていつしか、二人は互に慕い合うようになっていったのです。
ところが、これに気づいた帝は、大変お怒りになりました。なぜなら、朝臣という位を得たとはいえ、所詮正高は笛吹き。帝と血のつながりのある姫とでは、身分が違い過ぎたのでした。
正高は豊後の国に流され、姫も因幡の国へと離されてしまいました。

それから数年が経ち、未だ正高の事が忘れられない姫は、十一人の侍女を連れて、密かに豊後国の玖珠を目指して旅にでました。
それは険しい山越え、海越えの旅で、命懸けのものでした。
正高の流されたという玖珠の郷にたどり着いたのは、因幡を出てから百日余りもたった頃でした。
姫と侍女らが疲れ果て、三日月の滝のほとりで休んでいたところ、一人の年老いた木こりが通りかかりました。
「あのう、もし、このあたりに、清原正高様というお方が住んでおられると聞いて参ったのですが…」
侍女の一人が木こりに尋ねました。すると、
「ああ、横笛の正高様なら、数年前からこん郷に住んじょらっさるが、今じゃ、里ん主・兼久様ん娘婿になっちょらさる。お子もおるでな」
これを聞いた姫と侍女たちは、言葉もなく、愕然としました。

やがて姫は傍にあった松の木に自分の笠や衣をかけ、
「笛竹の 一夜の節と 知るならば 吹くとも風に なびかざらまし」
辞世の句を読んだかと思うと、姫は都に向かい手を合わせて三日月の滝に身を沈めたのでした。
それを見た十二人の侍女達も、姫の後を追って次々と滝つぼに身を投げ出しました。

突然のあまりの出来事に、年老いた木こりは息を呑んで、ただそれを見つめることしかできませんでした。
この姫と侍女の身投げを知った正高は、深く悲しみ、滝のほとりに神社を建て、姫達の御霊を鎮め祀ったのでした。

また正高が建てた正高寺には、彼の横笛が保管されているといいます。

さて、嵐山瀧神社の対岸には、小松女院が身を投げる前に、衣や笠をかけたといわれる「笠懸の松」が残っています。

まことに儚く悲しい話ですが、果たしてこれは実話なのでしょうか。
清原正高は清原元輔の子とされ、清少納言の兄にあたる人物だそうです。

豊後介として天延元年(973年)に当地に赴き、郡領の矢野久兼の娘を娶ったのは史実とされます。
その子孫が豊後清原氏として戦国時代まで玖珠地方を治めていたとのこと。

一方、醍醐天皇の孫に「小松女院」と称する女性はいましたが、しかし彼女は、安和2年(969年)に伊勢斎王に就いた「隆子女王」のことで、任期中の天延2年(974年)に病で亡くなっています。
つまり三日月の滝の伝承とは無関係ということになります。

三日月の滝の悲恋の物語、信じるか信じないかはあなた次第、ということかもしれません。
似たような出来事があり、そこに清原正高の名前を被せただけかもしれませんが、あるいはここに、人柱の歴史があるのかもしれません。

嵐山瀧神社では今でも、小松女院の入水の日を祭日とし、厳粛に大祭が斎行されているのだそうです。

小松女院さんは因幡に移られたのですね。
因幡の地、今の鳥取県八頭郡八頭町にもこの「三日月の滝」と良く似た形状の「徳丸どんど」というものがあります。こちらは八東川に高低差4m程度の段差を生じており、50万年前に扇ノ山から流れてきた安山岩溶岩が、床の砂礫層を覆い冷え固まったものです。溶岩の直下が砂礫のため、河川に浸食されて上部の安山岩も崩れ、年々上流側に後退しています。
「どんど」という名称は、段差により川の流水が「ドドド」と音を立てる様子を「どんど」と称したようです。
高低差が小さいため、滝としての認識はないようですが・・・
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高低差では三日月の滝も同じ様なものです。ナイアガラと言うには、ほど遠いかと。しかしながら見事な造形と悠々と流れる玖珠川は、やはり美しいものです。
徳丸どんども気になります😊
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五条様ならお詳しいと思い、応神帝の子供の数お聞きしてしまいました。
記紀を正史とするならば、応神帝の子供の数は仁徳天皇含めたくさんいるので、2人(男女1人ずつ)ということにはならないと思った次第です。
お坊さんは「宇佐神宮の神様には2人の子供がいて、男の子と女の子が一人ずつ」とおっしゃっていましたので、六郷満山には古代宇佐の話が言い伝えられているお寺が残っているのではないかと思いました。
私自身、六郷満山を平日に有給休暇を取得し、巡ることが多かったのですが、「六郷満山は普通のお寺みたいに檀家さんがたくさんいて、やっていっている寺ではなく、先祖代々のお寺を絶やさんように平日は普通の仕事しているところが多いので、あんたみたいに平日に来ると寺の人には会えないことが多いよ。」と妙なアドバイスを頂きました。
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三日月の滝はかなり迫力ありますね。
日田出身の私は、筑後川のもう一方の上流の大山川の方で中学生の頃は夏は泳いでいました。
水がめちゃ冷たくて、10分くらい泳いでいると、唇が紫色になり体はガタガタ震えて、太陽に照らされて熱くなった岩に水中メガネで水をかけて日光浴したものです。
玖珠は山越えすると、耶馬渓・中津・宇佐へ近いので、古代は宇佐とのつながりもあったのではと思います。
私も宗像三女神は古くは月神を祀っていたのではないかと思いました。
ところで応神天皇の子供の数は何人いるかご存知でしょうか。
3月にようや国東半島の六郷満山31ケ寺を廻り終えたのですが、ある寺のお坊様に「両子寺の護摩堂には宇佐神宮の神様を祀っていて、宇佐神宮の神様には二人の子供(男の子と女の子)も一緒に祀られている。」とお話を聞かせていただきました。
両子寺の護摩堂には仁聞菩薩が祀られてることは覚えておりましたので、二人の子供は豊彦・豊姫ではと思った師団であります。
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なるほど、あの水はそんなに冷たいのですか。身を投げた小松女院は、さらに気の毒ですね。
玖珠というのが楠に由来するというのなら、宇佐王国の聖地だったのではないでしょうか。それこそ、水がご神体だったとか。命の水、変若水にも関係する場所なのかもしれません。
三日月の滝はあまりに綺麗な形なので、あえて造形されたものではないかと思えてしまいます。
菟道稚郎子はホムタワケの皇子ですが、オオサザキは平群臣都久系の星川建彦だとされますので、応神帝の子ではありません。が、彼の子供の数が実際に何人であったかは、僕には分かりかねます。
両子寺に祀られる宇佐神の子供とは、豊彦・豊姫なのでしょうね。
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💙
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師団→次第です。変な変換をしてしまい、すみません。
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