斎宮跡:斎王 11

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三重県多気郡明和町に「幻の宮」とされてきた斎宮跡が、昭和45年に発掘されました。
それは東西約2km、南北約0.7kmの広大な面積を占めていました。

「斎王」(さいおう)とは、「斎皇女」(いつきのみこ)とも呼ばれ、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)を言います。
ここでは伊勢神宮に仕えた「斎王」について考察していきます。

「斎宮」とは天照大神の御杖代として、代々の天皇ごとに伊勢に派遣されていた「斎王」の御所のことです。
斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれ、都から伊勢に派遣されました。

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斎王は、天皇が即位すると未婚の内親王(または女王)の中から「卜定」(ぼくじょう)という占いの儀式で選ばれました。
斎王に選ばれると、その女性は翌年の秋から都の郊外の「野宮」(ののみや)に移り、潔斎の日々を送ります。
そしてその翌年の秋、伊勢神宮の神嘗祭に合わせて輿に乗り、都を旅立ちました。
群行(ぐんこう)と呼ばれるこの旅は、斎王に仕える官人・官女・勅使などで500人に上る壮麗な大行列でした。
一行は途中、近江国の「勢多」(せた)・「甲賀」(こうか)・「垂水」(たるみ)、伊勢国の「鈴鹿」(すずか)・「一志」(いちし)の頓宮を経て、5泊6日の行程で伊勢に赴いたと云います。

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斎王は天皇一代に一人が原則でした。
その任を解かれるのは天皇の譲位・崩御の場合のほか、斎王の病、肉親の不幸などがある場合に限られました。
斎王に選ばれることは、もちろん誉れ高いことなのですが、神に仕える未婚の皇女という特殊な任は決して容易ではなく、そこには多くのドラマがあったと云われています。

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斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所があったとされています。
斎王は日々をここで過ごし、6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭の3回のみ、神宮へ赴きました。
これは三節祭と呼ばれますが、斎王は前月の晦日に禊を行い、15日に斎宮を出て離宮院に入ります。
翌16日には外宮、17日には内宮に赴き、祭祀を行い、18日に斎宮に戻ったと伝えられます。

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一般には伝説と歴史が伝える斎王の数は74名いたとされ、制度上認められる最初の斎王は、天武天皇の娘「大来皇女」(おおくのこうじょ)です。
そこから制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。
その伝説と歴史に見える斎王をざっくり並べてみます。

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・「豊鍬入姫命」(とよすきいりひめ)
崇神(イニエ)天皇の皇女とされていますが、富家の伝承ではイニエ王と豊玉姫の娘「豊姫」だと伝えています。
日本書紀では宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀ったことになっていますが、彼女が大和笠縫邑で祀ったのは月神「月読神」でした。
彼女は三重の椿大神社に移り住んでいますが、伊勢の斎王と呼ぶことはできないと思われます。

・「大和姫命」(やまとひめ):垂仁期
一般には倭姫と記されますが、倭の字は蔑称になるのでここでは基本的に大和の字を使っています。
垂仁天皇(物部イクメ王)と道主王の娘ヒバス姫との間に生まれました。
信心深く、出雲の太陽の女神を祀るには、東向きの海岸が良いと考え、旅に出ます。
実質的な最初の斎王と言えます。
記紀ではヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡したとされていますが、ヤマトタケルは架空の人物であると富家は伝えています。

・「五百野皇女」(いおの):景行期
景行天皇の皇女で、明和斎宮へ来た最初の斎王と云われています。
伊勢で死亡と伝えられ、三重県安芸郡美里村五百野に「景行天皇皇女久須姫命之古墳」の碑が残っています。

・「伊和志真皇女」(いわしま):仲哀期
『斎宮記』『二所太神宮例文』に名前のみ記されていて、実在した斎王かどうかは確認できないそうです。
仲哀天皇自体が、かなりあやふやな存在です。
富家では仲哀は后とされる神功皇后の部下である日向の中津彦であると伝えています。
物部王朝は先代の13代成務天皇(ワカタラシ)で途絶えていると云うことです。

・「稚足姫皇女」(わかたらしひめ):雄略期
雄略天皇の皇女で別名を栲幡皇女(たくはたのひめみこ)と呼ばれています。
湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺した悲劇の斎王です。
彼女は無罪だったとされています。

・清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代の斎王の記録はありません。

・「荳角皇女」(ささげ):継体期
近江の息長系の皇女です。

・安閑・宣化天皇の時代の斎王の記録はありません。
継体(オホド)天皇の後、欽明・安閑・宣化で後継争いがあったようです。

・「磐隅皇女」(いわくま):欽明期
別名を夢皇女と呼ばれ、用明天皇の妹で、推古天皇と同母姉妹とされます。
伊勢ではなく三輪山の麓(大和笠縫邑?)で日神を祀っていたと考えられていますが、異母兄弟茨木皇子に姦されて解任されたとあります。

·「莬道皇女」(うじ):敏達期
敏達天皇と息長系を母系とする皇女で菟道磯津貝皇女とも記されます。
池辺皇子に姦されて解任されたとあります。
池辺皇子とはどうやら用明天皇の事のようです。

・「酢香手姫皇女」(すかてひめ):用明期
用明天皇の皇女で、用明・崇峻・推古の3代の天皇の治世にわたって斎王を務めたとされています。
記紀では聖徳太子の異母姉妹となっています。
四社神社の由緒では、大和姫が手を洗ったと伝わる井戸で手を洗うと、酢のような香りがしたとのことで、自ら酢香手と名乗ったとあります。

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以上が伝説上の斎王とされている人達です。
以下は明確な斎王の制度の中で任命された方々になります。

・「大来皇女」(おおく):天武期
天武天皇第1皇女。
万葉集に6首の歌を残しています。

・持統天皇期の斎王の卜定はなかったそうです。

・「当耆皇女」(たき):文武期
天武天皇皇女。
続日本紀に「伊勢斎宮に侍らしむ」と明記される最初の斎王です。

・「泉内親王」(いずみ):文武期
天智天皇の第9皇女。

・「田形内親王」(たかた):文武~元明期
天武天皇の皇女。

・「多紀皇女」(たき):不明
天武天皇皇女

・「円方女王」(まどかた):元明期
長屋王皇女。
不比等の娘の子でもある。
長屋王は謀反の罪を着せられて自殺しますが、円方女王は、藤原氏の血筋であったため、死を免れたとあります。

・「智努女王」(ちぬ):元明期
長親王の皇女。

・「布勢内親王」(ふせ):桓武期
桓武天皇第5皇女。
「資性婉順。貞操殊励。」と記され、生涯独身であったと思われる。

・「大原内親王」(おおはら):平城期
平城天皇第3皇女。
卜定時はまだ、5~10歳であったと思われています。

・「仁子内親王」(よしこ):嵯峨期
嵯峨天皇第10皇女。
おそらく5歳以下で卜定されたと思われます。

・「氏子内王」(うじこ):淳和期
淳和天皇の第1皇女。
新しい斎宮(現在の小俣町の離宮院)に群行した最初の斎王と伝わります。

・「宣子女王」(よしこ):淳和期
仲野親王皇女。

・久子内親王(ひさこ):仁明期
仁明天皇皇女。
承和6年(839年)、斎宮寮が火事で焼失し、斎宮はもとの多気の地に戻されました。

・「晏子内親王」(やすこ):文徳期
文徳天皇の第1皇女。

・「恬子内親王」(やすこ):清和期
文徳天皇皇女で、清和天皇の異母姉。
『伊勢物語』の六十九段「狩の使」に登場する斎宮のモデルであると云われ、恬子と在原業平の一夜のロマンスを語っているとされています。

・「識子内親王」(さとこ):陽成期
清和天皇皇女。
4歳で卜定し、7歳で退下。

・「掲子内親王」(ながこ):陽成期
文徳天皇皇女。

・「繁子内親王」(しげこ):光孝期
光孝天皇皇女。

・「元子女王」(もとこ):宇多期

・「柔子内親王」(やすこ):醍醐期
宇多天皇第2皇女。
退下後は「六条斎宮」と呼ばれ、優雅な生活を送り、大和物語にいくつかのエピソードを伝えています。

・「雅子内親王」(まさこ):朱雀期
醍醐天皇の皇女。
左大臣藤原時平の子、敦忠と文を交わし、結婚寸前だった時に斎王に卜定されました。
この時の卜定は2度にわたって凶と出て、3度目の亀卜によって選ばれていたと云います。
雅子内親王が伊勢に赴く時、時平の弟の子、師輔も歌を彼女に送っていました。
6年後、母親の死によって28歳で退下しますが、その時、父が故人となっていた敦忠と、現役の摂政の息子であった師輔の差は明らかでした。
結局、雅子内親王は師輔と結ばれ、敦忠は天慶6年(943年)に、失意のうちに世を去ったと云うことです。
「いけころしみをまかせつつちぎりこし むかしを人はいかに忘るる」
敦忠は、『敦忠集』に切ない恋の歌を残しています。

・「斉子内親王」(きよこ):朱雀期

・「徽子女王」(よしこ):朱雀期
父である醍醐天皇皇子・重明親王の才芸を受け継ぎ、歌人として三十六歌仙の一人に数えられた女性です。
彼女は、斎王を退き帰京した後、叔父である村上天皇の後宮に入りました。
しかし夫の死後、娘の規子内親王が斎王に卜定されると、徽子は、時の天皇の命令に背き、慣例を破って娘とともに伊勢の斎宮へ赴いたと伝えられています。
『源氏物語』の六条御息所のモデルとされています。

・「英子内親王」(はなこ):村上期
醍醐天皇皇女。

・「悦子女王」(よしこ):村上期
徽子女王の同母姉妹。

・「楽子内親王」(やすこ):村上期
村上天皇皇女。
4歳で卜定。

・「輔子内親王」(すけこ):冷泉期
村上天皇皇女。

・「隆子女王」(たかこ):円融期
天延2年(974年)、疱瘡のために死去。

・「規子内親王」(のりこ):円融期
村上天皇の第4皇女。
徽子女王の娘で、源氏物語の秋好中宮のモデルと云われています。

・「済子女王」(なりこ):花山期
野々宮での密通により解任されています。

・「恭子女王」(たかこ):一条期
5歳で群行しましたが、その時9歳の一条天皇は別れの御櫛を刺したと云います。

・「当子内親王」(まさこ):三条期
三條天皇皇女。
当子内親王の発遣儀式の折に、愛娘との別れの悲しみのあまり、父三条天皇は禁忌を破って振り返ったとあります。
群行してわずか二年、天皇は時の権力者であった、藤原道長の圧力に屈して退位を余儀なくされます。
帰京した彼女は、藤原道雅と恋に落ちますが、道雅は道長との政権争いに敗れた伊周の子で、位は高いが、将来性は乏しいと、父上皇は激怒して二人を引き離し、その直後に世を去ります。
当子は世を儚み出家、道雅は無頼の余生を送り「荒三位」と称されました。

・「嫥子女王」(よしこ):後一条期
21年間の長きにわたって斎王をつとめました。
長元4年(1031年)、月次祭に出席の最中に神がかりし、斎宮寮頭夫妻やその家来らの悪事、政治の乱れなどを告発する託宣を下したと云います。

・「良子内親王」(ながこ):後朱雀期
後朱雀天皇皇女。
彼女が8才で斎王に選ばれたのは、前任の斎王が起こした託宣事件の余波もあってのことでした。
「斎王貝合日記」という歌合の記録が残っており、雅やかな貝合の様子や、斎宮の日々の一端を知ることができると云います。

・「嘉子内親王」(よしこ):後冷泉期

・「敬子女王」(たかこ):後冷泉期

・「俊子内親王」(としこ):後三条期
後三條天皇皇女。

・「淳子女王」(あつこ):白河期

・「媞子内親王」(やすこ):白河期
白河天皇皇女。
母の喪で帰京したのち、弟の堀河天皇の准母(母親格)となり、独身のままで皇后の位に就き、女院「郁芳門院」となりました。
専制君主の白河院はこの娘を溺愛し、天下はその掌の中にあるとさえ言われていたそうです。
しかし彼女は体が弱く、わずか20才で急死しました。

・「善子内親王」(よしこ):堀河期
白河天皇皇女。

·「姁子内親王」(あいこ):鳥羽期
白河天皇皇女。

・「守子女王」(もりこ):崇徳期
伏見斎宮と呼ばれました。

・「妍子内親王」(よしこ):近衛期
鳥羽天皇皇女。
吉田斎宮と呼ばれました。

・「喜子内親王」(よしこ):近衛期
堀河天皇皇女。

・「亮子内親王」(あきこ):後白河期
後白河天皇皇女。
寿永元年(1181年)、安徳天皇の母儀として立后し、のちに殷富門院と呼ばれました。

・「好子内親王」(よしこ):二条期
後白河天皇皇女。

・「休子内親王」(のぶこ):六条期
後白河天皇皇女。

・「惇子内親王」(あつこ):高倉期
後白河天皇皇女。
15歳の時、斎宮にて病死しました。

・「功子内親王」(いさこ):高倉期
高倉天皇皇女。

・「潔子内親王」(きよこ):後鳥羽期
高倉天皇皇女。

・「粛子内親王」(すみこ):土御門期
後鳥羽天皇皇女。

・「熈子内親王」(ひろこ):順徳期
後鳥羽天皇皇女。

・「利子内親王」(としこ):後堀河期

・「てる子内親王」:四条期
後堀河天皇皇女。

・「曦子内親王」(あきこ):後嵯峨期
土御門天皇皇女。

・「榿子内親王」(やすこ):亀山期
後嵯峨天皇皇女。
14歳で卜定され、16歳で斎宮へと群行。
『増鏡』には、榿子内親王が19歳の時、五月雨がやまず、神宮への参向も舟でおこなわれ、管弦を奏でて楽しんだことが記されているそうです。
後嵯峨上皇崩御により退下となりますが、伊勢の神が帰京を拒んだといわれる美貌の持ち主で、その後3年も帰京が遅れたと伝えられています
都に戻った彼女を射止めたのは、亀山の同母兄で、愷子の異母兄、後深草上皇だったと云います。
しかも二人の間を取り持ったのは、上皇の愛人、二条でした。
しかし多情な上皇との二人の関係は長く続かなかったそうです。
『我が身にたどる姫君』という中世小説に現れる「狂斎王」のモデルは彼女であるとも云われています。
また斎宮へ群行した最後の斎王と記されています。

・「弉子内親王」(まさこ):後二条期
後宇多天皇皇女。

・「懽子内親王」(よしこ):後醍醐期
後醍醐天皇皇女。
後醍醐天皇は倒幕を目論み、元弘の乱を起こすが失敗、天皇譲位のため野々宮より退下しました。

・「祥子内親王」(さちこ):後醍醐期
後醍醐天皇皇女。
建武元年(1334年)、兵乱のため野々宮より退下。
以後斎王は選ばれず、最後の斎王となりました。

以上、明和町の観光サイトをご参考にさせていただきました。

http://www.town.meiwa.mie.jp/kanko/index.html

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神に仕えるためがゆえ、様々な物語がそこにあったのでした。

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