六甲山神社

投稿日:

b060917-2024-07-13-07-00.jpg

「六甲山にも白山比咩さんがいらっしゃいますよ~♪」
と、天女さんのお告げがあったのを思い出して、訪ねてみました。

b060918-2024-07-13-07-00.jpg

兵庫県南東部に君臨する山塊「六甲山」(ろっこうさん)。
その最高峰から東へ1km程隔たった、標高840mの見晴らしのよい峰に鎮座するのが「六甲山神社」(むこやまじんじゃ)です。

b060919-2024-07-13-07-00.jpg

六甲山の大部分は、約1億年前(中生代白亜紀)に地下深くで生まれた花崗岩でできていると言われています。
第四紀、百万年前以後の六甲変動と呼ばれる地殻変動によって、最高部が900m以上に至るまで隆起し、現在も変動を続けている生きた山です。

b060920-2024-07-13-07-00.jpg

昭和7年(1932年)に京都帝国大学助教授の上治寅治郎氏により丸山断層が発見され、地殻にかかる側方からの圧力により基盤が上向きに隆起し、六甲山を形成したと考えられるようになってきました。

b060922-2024-07-13-07-00.jpg

Wikipediaによると、江戸時代までの登山は山を神体山とする信仰登山(山岳信仰)がほとんどでしたが、六甲山にはそのような大きな信仰対象は無かったといいます。
しかし山の北側には有馬温泉があり、海岸の漁港から温泉街に新鮮な魚を運ぶための「魚屋道」(ととやみち)が山頂のすぐ横を通っていたので、人の往来は古くからあったようです。

b060923-2024-07-13-07-00.jpg

当社創祀の年代は不詳ですが、山頂にある「石の宝殿」には、石扉の刻銘に慶長18年(1613年)に南麓に鎮座する越木岩神社の氏子らが建立したことが記されており、建立年の刻まれた石祠としては県下では2番目に古いということが分かっています。
また、平安末期の文書に、六甲山が廣田神社の社領である旨が記載されており、当時すでに鎮座していたと考えられています。

b060924-2024-07-13-07-00.jpg

六甲山神社は廣田神社の奥宮ともいわれ、古来より雨乞いの聖地として崇められ、日照りが続くと山麓の村々の農民が般若心経と雨乞いの呪文を唱えたと伝えられます。
石の宝殿は船坂川、仁川、芦屋川、住吉川などの分水嶺上にあり、古文書には摂津国外からも雨乞いに来たとあるそうです。

b060925-2024-07-13-07-00.jpg

中には、東灘の小路村の村人が一晩こもって般若心経と雨乞いの呪文を唱えたが、夜が明けても雨が降らなかったために、沢蟹を捕まえて来て宝殿に投げつけて帰ったところ神の怒りで雨が降ったとか、隣の田辺村では参籠をしても降雨がないと雨蛙を2匹石祠に擦り潰して帰ったところ雨を得たなどと、祭神を怒らせることで験を得たと言わんばかりの話も伝わります。

b060928-2024-07-13-07-00.jpg

また六甲山神社は、「神功皇后が二韓征伐で持ち帰った神の石を納めた」「祠のそばのウツギの根元に神功皇后が黄金の鶏を埋めたので、元旦の黎明には鶏の鳴き声が六甲山に響き渡る」といった伝承もあり、廣田神社の境外末社・奥宮と呼ばれる由縁となっています。

b060930-2024-07-13-07-00.jpg

当然、祭神も廣田神社に倣って「撞賢木厳魂天疏向津媛命」(ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメノミコト)であるはずなのですが、

b060931-2024-07-13-07-00.jpg

何故か主祭神は白山の姫神「菊理比咩大神」(くくりひめのおおかみ)となっています。

b060926-2024-07-13-07-00.jpg

これはどういうことなのでしょうか。

b060934-2024-07-13-07-00.jpg

山頂部には玉垣によって囲われた聖域があり、

b060937-2024-07-13-07-00.jpg

白い拝殿の奥に、六甲山石宝殿、または「石の宝殿」と呼ばれる、やや大きめ石祠があります。

b060941-2024-07-13-07-00.jpg

六甲山は山伏や天狗に関する多くの伝説があり、昔は山中には88の社があって、それらの中心である石の宝殿から神々が四方の高山へ修行へ出たと伝えられています。
この山伏や天狗というのは白山系の修験者のことであろうと思われ、当社殿には白山の古文書が伝えられているとのことです。

b060940-2024-07-13-07-00.jpg

六甲山はその山容からして、おそらく古代に何らかの祭祀が営まれていたと思われます。
やがて神功皇后絡みの廣田神社が創建され、向津媛の奥宮としての性質を持つようになったのでしょう。

b060942-2024-07-13-07-00.jpg

そこへ、白山系の修験者が入り、祭神を書き換えていった。
しかし何故、白山系修験者が当地に白山比咩を見出したのかは、謎です。
向津媛の奥宮として当社が成立する以前に祀られていた神に、その理由があるのか。

b060943-2024-07-13-07-00.jpg

それはこの後、足を運ぶことになる「六甲比咩神社」も、関係しているのかもしれません。

b060946-2024-07-13-07-00.jpg

2件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    白山信仰は本当に不思議で、宇佐の奥社の近くにもあるんでしたっけ

    そして四国の土佐の遺跡でしたっけ。倭国大乱期に衰退の大きな遺跡。正に越智三島の焦土作戦としか思えません。

    ククリヒメの仲裁は、架空化された神武のどれかの時代に実際に起きた出来事と思います。

    物部氏は、徹底的に越智三島を怒らせたのではないでしょうか?

    四国の白山神社を見ると平地の耕作部と、水源の両方を抑えてる気がします

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      石長比売の話は、越智の姫を物部が蹴った話ではないかと考えています。

      いいね: 1人

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください