「今が好機よ」
物部肝咋連は得意の策謀を働かせていた。
忍熊王の軍は思いの外、手強い。
明石の海にさしかかった辺りで反撃を受けた皇后軍は、進退窮まり苦戦を強いられていた。
潮の流れもうまくない。
「こんなところで立ち止まっていられるか。
策ならある、がしかし…」
物部肝咋連が思い悩んでいると神功皇后からお呼びがかかった。
「神託がありました。
橿日の宮にて現れた神々が、武庫の浜に鎮座したいとの仰せです。
私は早急に浜へ上がり、祭祀を執り行わなくてはなりません。」
しめた、と物部肝咋連は思った。
「ぜひ、お急ぎ祭祀奉られませ、姫様。
大伴、お主らは武内殿が不在の今、姫様とともに浜へ行き、しかとお守りなされよ。
なに、海上の戦はこの物部にお任せくだされ。
戦にかけては儂の右に出るものはおりませぬ。
すぐに明石の海を治め、皇子様の元へ姫様をお連れいたしましょう。」
物部肝咋連は神功皇后と大伴武以連の一軍が武庫の浜に降りるのを見届けると、
すぐに兵に命じた。
「今すぐ喪の船を用意せよ。
敵方に皇子様が矢に打たれて亡くなられたと伝えるのだ。」
(空の船を囮にして敵を欺き、喪の船に我が軍を忍ばせ虚をつけば、
いともたやすく敵軍を打てよう。
さすがに皇子様を亡き者と偽るのは、皇后様の手前申し上げにくかったが、
なに勝ってしまえばどうとでもなる。
ここで戦勝し大役を果たせば、物部一族の繁栄は間違いなし。
筑紫で手に入れた鉱山もある。
これより我が世が訪れるわ。)
「我が軍よ今こそ勝機。
忍熊王の軍を、一気に攻め立てようぞ。」
海流渦巻く明石の海は、物部の大軍に支配されつつあった。
【廣田神社】
皇子を武内宿禰に託し、先に紀伊へ向かわせた神功皇后は、
自らもその地を目指して明石海峡に船を進ませます。
そこで皇后の船はぐるぐる回って前へ進めなくなったと言います。
これは明石海峡の渦潮のせいかもしれませんが、あるいは忍熊王の軍勢の反撃を受けたのかもしれません。
そこで皇后は神託を伺ってみます。
すると橿日宮で仲哀天皇を祟った、あの神々が次々に降りてきて、武庫の各地に留まりたいと言い始めました。
まず最初に降りてきた神は「向津姫・天照大神」です。
天照大神は
「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と言います。
「廣田神社」(ひろたじんじゃ)は兵庫の西宮市にあります。
「武庫」(むこ)とは兵庫のことです。
参道には凛とした空気が流れていました。
参道を突き当たると、御神水がありました。
とても清らかな水です。
元はは甲山山麓の高隈原に鎮座していたと言います。
そこに天照大神の荒魂 「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)を祀りました。
天照大神の荒魂と言えば、伊勢神宮内宮の第一別宮「荒祭宮」の祭神と同体ということになります。
皇后は、山背根子の娘の「葉山媛」にここをを祀らせました。
本殿の右に「住吉大神」を
左には「八幡大神」が祀られています。
「齋殿神社」(ときどのじんじゃ)は 神功皇后の命を受けて、天照大神荒魂を広田の地に祀った葉山媛命を祀ります。
境内はとても静かで、ピシッと引き締まった感じです。
しかし堅苦しいという感じではなく、自然と背筋が伸びるような、そんな感じでした。
【生田神社】
次に「稚日女尊」(わかひるめのみこと)のご神託が降ります。
「吾は活田の長峡(いくたのながお)の国にいよう。」と。
「生田神社」(いくたじんじゃ)は神戸の中心地にあります。
立派な楼門で、廣田神社に比べ、こちらはかなり華やかです。
かつては中央区一体がこの神社の領域であったことから、「神戸」という地名になったと伝わります。
神功皇后は神託の通りに、「海上五十狭茅」(うなかみのいそさち)に命じて活田の地に稚日女尊を祀らせました。
「稚日女尊」とは「稚く瑞々しい日の女神」という意味で、天照大神の和魂(にぎみたま)あるいは妹であると伝えられています。
ちなみにどこか見覚えのあるこの拝殿は、かつて、当時絶頂期だった芸人とモデルで女優の某タレントの結婚式を挙げた場所として有名になりました。
しかし生田神社は恋愛成就スポットではありますが、恋人同士で訪れると破局するというジンクスがあるそうです。
境内は街中でありながら、かなり広めです。
いろいろ散策するには、少々時間が必要です。
本殿裏にある小さな神社の前には、焼き物製の狛犬がありました。
とても豊かな造形です。
耳の部分など、よく折れないものです。
そしてさらに裏手に「生田の森」があります。
清らかな水が流れ、
しっとりと樹木が茂っています。
御神木も樹勢があります。
小川を伝っていくと、小さな滝がありました。
とその横に、
ひっそりと小さな神社がありました。
「生田森坐社」です。
御祭神は「息長足姫命」、神功皇后です。
とてもひっそりと、生田の森を見つめていらっしゃいました。
【長田神社】
次は「事代主尊」が降りてきて言います。
「私を長田の国に祀りなさい。」
神戸市長田区に「長田神社」があります。
御祭神は「於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神」(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)です。
ここを皇后は葉山姫の妹の「長姫」に祀らせます。
本殿周りの玉垣の隙間から見える石灯籠は、すごいものだと伝わります。
本殿裏にある「楠宮稲荷社」はちょっと面白かったです。
狭い回廊に提灯が無数にぶら下がってます。
絵馬はなぜか魚の「エイ」です。
そして楠の御神木がかなりの神気を放っていました。
【本住吉神社】
最後に「表筒男」「中筒男」「底筒男」の住吉大神が降りてきて言います。
「吾が和魂を大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)に祀りなさい。そこで往来する船を見守ろう。」
この「大津渟中倉之長峡」とは二つの説があり、
一つは大阪住吉にある「住吉大社」です。
しかしこれまで兵庫の海沿いに各神を祀ってきて、住吉大神だけ大阪に祀るのはちょっと違和感があります。
なので僕は、ここ神戸市東灘区にある「本住吉神社」(もとすみよしじんじゃ)説を支持します。
境内前は交通量の多い交差点ですが、この先の坂道の所まで、かつては海だったそうです。
入り口の塀の上にはうさがいます。
境内は、とても寂れて見えます。
大阪の住吉大社とは随分とした違いです。
しかしそれでも確かに、住吉大神の重々しさを感じます。
こうして神功皇后は橿日宮に降り立った神々を、この武庫の浜につぎつぎ祀られました。
すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができたそうです。
伝承のひとつに皇后は皇子が死んだと言って喪の船を出し、
空の船を敵兵に襲わせ、その背後から喪の船に潜ませていた兵士に忍熊王の兵を打たせたとあります。
しかし皇后が偽りにせよ、皇子を死んだと触れ回ることができたようには思えませんでした。
ここには強欲そうな「物部肝咋連」(もののべのいくひのむらじ)もいたでしょうから、彼の企みにしてみました。