
白川郷に向かっていると、「白山宮」という標識が目に入ったので、立ち寄ってみました。

場所は富山県南砺市上梨。
越中白山宮、上梨白山宮などと呼ばれるようです。

奈良時代初め、泰澄大師(たいちょうだいし)が人形山の山頂に建立したものを上梨白山宮に移築したとされています。

あまり見たとこのない神紋。
神仏習合の雰囲気があります。

奥に茅葺きの建物があり、さすが風情ある本殿だなぁと思っていましたが、これは覆堂でした。

本殿はこの建物の中に収められており、秋のこきりこ祭りの時にだけ目にすることができるそうです。
本殿は富山県内最古の木造建築物で、さらに本殿内祀られる白山権現菊理媛命(はくさんごんげんきくりひめのみこと)は、33年ごとに開帳されるとのこと。

小さな窓から頑張って垣間見てみましたが、屋根を支える正面中央の「蟇股」(かえるまた)は、一木を刻んだ室町時代中期の優れた作品なのだそうです。



今回のお宿は「飯美館 よしね」さんでしたが、

評判に違わぬ、充実の夕食。

ボリューム十分で、そして旨い。

飛騨牛もとろりとしていて、良いお肉を使っているのが分かります。

岩魚の刺身などは、滅多に口にすること叶いません。

とにかく大満足の夕食なのですが、そのよしねさんから車で3分ほどの場所に、

小白川八幡神社があります。

当神社勧請年代不詳。古来当区の産土神なり、とある、まあよくある八幡神社なのですが、

Googleマップに「神の足跡と神代杉根株」と表記されていました。

気になったので見に来てみたのですが、これが神代杉根株ですか。

神代杉と呼ばれていた物の根株なのでしょうが、迫力があります。

そして境内橋には神の足跡というものが。

蜘蛛退治の際に、神様が踏ん張った足跡らしいですな。

蜘蛛、ツチグモ族でしょうか。

健やかな朝に、美味しいブレックファーストをいただいていると、広間のテレビでニュースが流れていました。

この注意報で、コロナから立ち直りかけた宿泊業の人たちが、どれだけ損害を被ったか。

注意を呼びかけるというのは100歩譲るとしても、地震なんて、日本中でいつか必ず起きるものです。
過去の数々の大震災を経験してきた我が国は、何を学んだのか。注意報流すだけで危機管理は僕らに丸投げ。
おフランスなんか行ってないで、台湾に頭下げて学んでこいって話。
インバウンドで米不足って話も、全くもってアホらしい。何のための政府やねん。



程よく朝の空気を濁したあとは、白川郷(しらかわごう)へやって来ました。
2度目の来訪です。

白川郷とは、岐阜県内の庄川流域の呼称で、大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶのだそうです。

しかし僕らが一般的に白川郷と認識しているのは、合掌造りの集落で知られる荻町地区のことになります。
1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産に登録されました。

白川郷には平家の落武者伝説があります。
1183年、倶利伽羅峠の源平の戦いで、夜襲によって七万余騎あった平家軍はそのほとんどが討ち取られ、僅か二千余騎が散り散りとなって敗退。
その一部が白川郷に落ち延びたと伝えられます。

また別の伝承で、江戸時代にこの地にあった城が、城下町ごと山崩れで埋没したという話があります。
その城は内ヶ島上野介為(うちがしまこうずのすけため)が築城した「帰雲城」(かえりくもじょう)です。
1585年の大地震により、この帰雲山が大崩落を起こしました。
その大崩落跡は今も残っており、埋没した城跡は、現在もまだ見つかっていないとのことです。

もうひとつ、白川郷の悲しい歴史に、御母衣(みぼろ)ダムの話があります。
1952年(昭和27年)、荘川流域の白川村と荘川村にダム建設の話が持ち上がりました。
経済が急速に成長を迎えた時代、中部工業地帯を支える電力を確保するために、ダムの建設は不可欠でした。
そこでダム建設による白川村の一部と荘川村の大部分の立ち退きを求められ、これに大きな反対運動が起こりました。
しかし最終的に補償交渉が成立。1961年(昭和36年)御母衣ダムが完成します。

故郷を失うという気持ちはいかほどのものか。
飛騨一宮水無神社には、この時沈んだ白川村の集落の鎮守が白川神社として祀られています。

「平家の落武者伝説は、そのほとんどが出雲散家だよ」と師匠は話しておられましたが、それはさておき悲しい歴史もあった白川郷。
今はのどかな、平穏な集落となったのでしょうか。

いや、そんなことはありません。
今、白川郷はその歴史の中で、最も騒然としているのです。

僕が今回、白川郷にやって来たのは朝8時。
その時すでに、それなりの数の観光客が郷内をうろついていましたが、10時ともなると観光駐車場を起点とする数キロの大渋滞が発生していました。
オーバーツーリズムです。

白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があるのですが、前々から問題となっていた、不法侵入、ゴミ問題といった観光客の迷惑行為は、解決するどころか、深刻化していっているようです。

今回の来訪がお盆期間中だったから、ということもあるのでしょうが、人の数がちょっと異常です。

でも、僕の住む博多の街も異国人があふれており、その様子を見ても思います。もうこれは止められないなと。
インバウンドはやがて母国に帰っていくのでしょうが、日本に住み着く人も圧倒的に増えています。なんたって国策ですから。
それに伴って、小さなトラブルから深刻な犯罪まで、否応なしに増えていっています。司法は機能しておらず、犯罪を裁けていません。
本来僕らの国は、鍵を開けっぱなしで遊びに出かけても、何事もない平和な国だったはずなのですが。

そうは言っても、日本もずっと変わらないわけではなく、常に変わり続けて来ました。
昭和と令和が違うように、明治と昭和も違いました。
おそらく近いうちに、均等な割合で肌の違う人が行き交う国に日本もなるのでしょう。
それは仕方がないことです。

そうした未来のためにも、今の日本、今のこの国の美しさを記録しておくために、僕は旅を続け『偲フ花』に残している、という一面もこのブログにはあります。

未来も決して夢がないわけではありません。未来は未来の日本がある。ただ、今とは違っているだけ。

そしてなぜか静岡で作られた白川郷サイダーを口に含ませながら、甘さと共に、しょっぱい思いを味わっていました。


narisawa110
平家の落武者=出雲系のお話に関しては長野県民も思うところがあります。
まず秋葉街道の大鹿村。そこには諏訪神社があり、歌舞伎があり、出雲族の守護した南朝の皇室の人物のお墓や神社があります。また、お菓子ではない、保存食のゆず皮に味噌を入れた、ゆべしというものがあり、南端は確か和歌山。
大鹿村には江戸時代に地元の天正の提出を強く言われた時期があり、その際にミナカタの伝承を出したらしいです。故に伊勢津彦同一説の舞台でもあろうかと考えられます。
でも出雲の色彩が濃いはずなのに平家の落武者伝説がポツネンとあるわけです。
木曽の御嶽山は、一番古い信仰の担い手は現在でも滝旅館を経営し、なんと旅館内に御嶽神社の御朱授与所があります。名前からしてモロに平家の落武者とされて居ますが、御嶽山には大国主が鎮座します。
確かに平家は来たのかもしれません。しかしその前にすでに出雲系の人たちがいて、彼らを受け入れたのだと思います
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ゆべし、通りすがりの売店で、なんじゃこりゃと、買って食べた思い出があります。お味はまあ、保存食ですから。
土地に富を付けて富の者だーと言っていた人たちが、今度は平家の者だーと言った方が箔がつくから、と先生がおっしゃておられました。
そういえば、また後日記事を上げますが、飛騨の水無神社は位山をそっぽ向いていて、変だなーと思っていたんです。
そしたら参道と本殿を結ぶラインは御嶽山に繋がっていました。
では、水無神社の祭神は??
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🐥静岡県は商売が上手いのか下手なのかイマイチ分からない県なのかもしれないですな🐤
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良いものはたくさんあるのにね。
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