大麻山神社

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古代、阿波の忌部族が大麻比古に率られ、石見国に移ってきた。
大麻比古は馬に乗って海を渡り、浜に着くと、今度は陸を舟で進んだ。
そこの小野郷には小野族が居て、これに抵抗した。
大麻比古は双子山に登り、小野族めがけて大石を投げた。
小野族はいったん須佐の高山まで退き、そこから大石を投げて反撃した。
小野族の投げた岩は大麻山の麓までしか届かなかったが、やがて仲裁に立つ者が現れて、小野族は小野郷に戻り、忌部族は大麻山を領分とすることで決着した。

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ブィ~ンと車を走らせ、島根県浜田市三隅町の「大麻山」(たいまさん)へとやってきました。
天平年中(721~781年)は双子山と呼ばれていたそうです。

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大麻山は標高599mの山で、中腹に「大麻山神社」(おおあさやまじんじゃ/たいまさんじんじゃ)の大鳥居があります。

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かつてはここから徒歩で登っていたのでしょうが、今は山頂まで車で簡単に登れます。

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簡単に、とは言っても、それなりの山道。
運転にはご注意を。

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大鳥居から5kmほど車で登ってきたところに広い駐車スペースがあり、神社の社務所と参道があります。

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社務所の周りには「神苑磐座磐境之庭」(しんえんいわくらいわさかのにわ)と名付けられた庭があります。

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ここにはかつて、神宮寺として「尊勝寺」(そんしょうじ)があり、「西の高野山」と呼ばれていたそうです。
天保7年(1836年)に長雨による地すべりで、尊勝寺、大麻山神社ともに倒壊。さらに、明治5年(1872年)の浜田地震で被災し、神仏分離令の影響もあって、尊勝寺は廃寺となりました。

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庭園は江戸期の作庭家・小堀遠州の作風とのこと。
庭の奥から垣間見える日本海の風が、爽やかに吹き抜けて行きました。

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さて、階段を登って、大麻山神社を参拝します。
以前、とある🍑嬢からここのお守りをいただいており、そのご縁でこの度、参拝に参りました。

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参道沿いには紫陽花が茂っています。
10月というのに花をつけていましたが、シーズンならさぞ見事なことでしょう。

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この階段、本殿も見えていて、すぐに登れそうなものですが、なかなか着かない。

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伝説では、阿波国からやって来た大麻比古は、海を馬で渡り、山を舟で行ったとありますが、この山をわざわざ舟で登ったのでしょうか、変態です。

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大麻山神社の祭神は「天日鷲神」(あめのひわしのかみ)「猿田彦命」(さるたひこのみこと)、それに「大麻彦命」(おおあさひこのみこと)の三柱。
配祀神として「藏王権現」(ざおうごんげん)「熊野権現」(くまのごんげん)「走湯権現」(はしりゆごんげん/伊豆山神)「山王権現(さんのうごんげん)「白山権現」(はくさんごんげん)を祀っており、五社権現とも呼ばれています。

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由緒によれば、仁和4年(888年)御神託により双子山から大麻山と改め朝廷に奏聞。寛平元年(889年)阿波国(徳島県)板野郡大麻山鎮座の大神を勧請し、59代宇多天皇の勅許により社殿を建立したとあります。
宇多天皇といえば、一度降ろされた臣籍から復帰して即位した初例の天皇であり、権威を補強するため「関白」を創設し、藤原基経に任じました。
基経の死去後、宇多天皇は「親政」によって自ら政治を行い、菅原道真を右腕として重用。譲位後は仁和寺で出家し、日本で初の法皇となりました。

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勧請元の阿波国の神社とは徳島の阿波国一宮「大麻比古神社」(おおあさひこじんじゃ)ということになりますが、そうなると色々とおかしな点が出て来ます。
大麻比古神社の創建は社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉の孫の天富命が忌部一族を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖し、麻布木綿を生産。彼らが祖神の天太玉を「大麻比古神」として祀ったのが始まりだと云います。

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故に大麻比古神社の神紋は「向こう麻の葉」となっているのですが、

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当社・大麻山神社の神紋は「丸に平戸梶の葉」となっています。
大麻山なのに、梶の葉。
徳島の忌部系神社では、確かに梶の葉紋が使われていますが、大麻山神社のこちらは紋名にもあるように、肥前平戸藩松浦氏系の紋となるのです。

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祭神の大麻比古神は天太玉のこととしていますが、同時に阿波忌部氏の祖神「天日鷲命」の子であるとしています。

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しかし、安房神社に伝わったとされる「安房国忌部家系」によれば、天日鷲の兄弟姉妹の中に天日理乃咩がおり、彼女が太玉の后であるとなっています。
とにかく忌部の系図はごっちゃごちゃなのですが、仮にカミムスビ系(出雲系)とタカムスビ系(物部系)の流れがあるとして、忌部氏は出雲の玉造で王家の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担っており、太玉はクシヒカタと共に大和葛城に移住していますから、物部よりも先に存在したことになります。

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阿波国一宮の大麻比古神社に話は戻りますが、配祀神に「猿田彦大神」があり、古くから大麻山に祀られていたものが、のちに合祀されたとしています。
しかしながら、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』などに、当社祭神は猿田彦大神とされていたとあり、大麻山は忌部系の聖地ではなく、出雲王家系の聖地であったことが窺えます。
大麻山とは、出雲の「朝山」であり、讃岐国に移住してきた出雲族らが聖山に昇る太陽の女神を崇めていたのであろうと考えられます。

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つまり、大麻比古神社は出雲の朝山信仰が持ち込まれたものであり、石見国の大麻山神社は里帰りした朝山信仰ではなかったかと、思われるのです。
また余談ですが、朝山は朝熊になり、浅間信仰になっていったと、僕は考えています。

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大麻山神社は里帰り、と言いましたが、むしろ古代当初から当地には出雲の朝山信仰があり、小野族はそれを受け継いでいたのではないでしょうか。
そこへ阿波忌部族がやってきて諍いとなったものが、石投げの伝説となったのかもしれません。

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大麻山神社の境内社、稲荷社の隣に、山頂へと続く道があります。

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ここを500mほど登れば山頂に着くようですが、

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いったん社務所まで降りて御朱印をいただき、車でブィ~ンと山頂まで行きました。

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山頂には、まあこれでもかってくらいの電波塔が建っています。

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その奥に展望台が設えてありますので、天気も良いですし、登ってみます。

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う~ん、サイッ コウ。

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日本海が一望できます。

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大麻山は古代から漁業・農業を営む民の目印となっており、神社創建以前から聖山とされていたのだと、御神職からもお話を伺いました。

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山頂には奥宮と思われる社もありました。

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祭神は分かりませんが、扉が3つあることから、本社と同じ神ではないでしょうか。

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そして石投げの伝説の由来となる巨石が、大麻山山中には至るところに転がっているのですが、山頂も例外ではありません。

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そんな岩々ですが、よく見てみればなるほど、杯状穴ではないですかね、これは。

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うっすらとペトロなんとかみたいな線も見える気がしたのでした。

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10件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    宮内庁の三木さんの話では、海部はかつては忌部につかえており、今でも籠神社の宮司とは親しい間柄だといわれておりました。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      忌部が主で海部が従だったと!それは意外ですね。

      というか、お帰りなさいnarisawaさん😊
      どこぞのアンダーグラウンドに潜っておられたかはしりませんが、無事生還されて何よりです。
      佐織さんから話は聞いておりましたが、あんなミッションインポッシブルを成し遂げるあたり、やはりだた者ではありませんでしたな。
      貴重な写真、ありがとうございます😌

      いいね

      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        narisawa110

        すみません、上記コメントはワタクシではありませんwwもう本当に疲れてしまっておりました。

        文面から推測するに、私が図らずも「当初は興梠さんちの祭祀場と勘違いした」「例の写真」の件ですね。

        何しろ不思議な事ばかりが続いた旅でした。S様との邂逅で、お宅の真裏のトイレのあたりに「それ」があると思っておりましたので、せめてもの記念と思い撮影。しかし、偶然その写真も「なぜか出す予定も無かったのに」ついでにS様ラインに出してしまい、それがHであることが判明。当の本人が一番驚いております。ビビりました。

        大事件でございましたw

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          あらま、それはコメント主にも失礼しました。
          てっきりナリ氏かと😅

          最近は僕の周りでもビックラポンな出来事ばかりなのですが、あずかり知らぬ世で何かしら起きているのでしょうかね🤔
          とりあえず、ご無事なようで何よりです😊

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          1. 不明 のアバター 匿名 より:

            色々考察中ですが、二上山登って考えた事があります。

            現在、祭祀の中心は西本宮=三ヶ所神社(興梠系H様家)となっておりますが、東本宮の高千穂の二上神社(興梠系K様家)とは明らかに違った経緯を経ていると思いました。

            恐らくですが、修験が流行り始めた時にこの山を開けた山にした時期があると思いますが、高千穂側からの参詣道は短距離にも関わらず廃道になっています。短距離にもかかわらず尾根道を雌岳に開削した痕跡もありません。ヤマレコなどでマニアック組が踏破した様子もありません。

            ただし、三ヶ所側は明らかに大金がかかっており、奥社登山口には平成9年付けの山岳信仰者一同の奉献があり、舗装路からも庭園灯まで完備。かつては夜10時まではシーズン中は登れていたようです。

            H祭祀場で事件が起きたのが17年前の平成20年だとすると、更に10年程度前から何らかの思惑が関わっていた様にも見えてくる気がしました。明らかに五ヶ瀬側に偏った資金の投入のされ方の様な気がします。

            旧道はかつては杉が越峠の東西にむかって道が通っていたと思われる事から、荒廃振りは明らかです。例の人たちはこういうところで気を引き、巧妙に入り込んだのでしょうか?と思いました。

            いいね: 1人

          2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            2013年くらいでしたか、西本宮の三ヶ所神社から奥社、東本宮の二上神社まで車で走り抜けたことがあります。
            たまたまかもしれませんが、その時は西から奥社までの道も落石がちらほらあった記憶が。
            確かに道幅は西側は広く、東側は開発が遅れている印象はありました。今は東側は通行できなくなっているのですかね。
            高千穂(五ヶ瀬)の山は宝の山(鉱物)のようですので、そういった需要が見込める先には、お金をかけたのだと思われます。

            いいね

  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    ここでひとつ謎を投下。

    東海地方の出土としては特徴があって、青銅製品として出土する物があります。銅鐸より新しいもので、古墳時代には無くなるもので「小銅鐸」「銅鐸型土製品」と言うものがあります。(弥生時代後期~終末期)

    つまり、祭祀と直結した「学術上、銅鐸とは見做されていない銅鐸のような物」があるんです。これは九州に少し、畿内とグンマー、栃木~千葉、静岡などの東海に分布する物です。

    銅鐸に比べて個数も少なく、研究が進んでいませんがこのような資料があります。ここの43Pに全国の分布が出ています。

    ttps://www.jssscp.org/files/backnumbers/35_3.pdf

    大別すると朝鮮式小銅鐸を模倣した物、旧来の畿内式銅鐸を模倣した物の2種類があるようですが、どう考えても個人的に昔の人が区別したとは思えず、キリシタンの秘密の信仰と同じような気もします。

    大彦、安部エリアに酷似していると思われますが、まずは、小銅鐸も含め、古墳時代には日本全国で銅鐸は完全に消え去るという事ですね。

    この辺の考え方がまとまればまた違った話の展開になるんじゃないかと思われます。

    このエリアに忌部氏がどのように重なってくるのか、それも検討の余地があるような気もします。ただし、安房の地名のある長野県でまだ出てないという事は、長野県の千葉系の忌部氏は古墳時代以降の移動という事は今のところ言えるのかもしれませんが。

    いいね: 3人

  3. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    忌部氏の系図の片方はカガセオや日鷲、ヤサカトメが入る神魂の系図になっておりますが、基本的に天神系の系図はフェイクとかんがえています。

    ただ、出雲系に物部が挿入されていて、物部氏として振る舞ったという伝承と合う気がします

    もう一つの高木神系の系図には太玉が出てきますが、一見、物部化がない様に思えます。但し、太玉の当て字でこういう物があります

    布刀玉

    どっちの系図も物部化してる様な気もしてきます。

    確か、天冨命はコゴシュウイにしか出てこないので、後年の出雲系に戻したというのはこれから来てるのかもしれません。

    千葉には瀬戸内系の土器はほとんど出ませんし、青銅器もありません。

    かなり後に入ってからの開拓団なんでしょうね

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      忌部が絡むと、ほんとに厄介で😓
      やはり、千葉の安房は古いものではなさそうですね。
      そもそも忌部とは一体、という話に戻ってしまい、堂々めぐりになってしまいます。

      いいね: 1人

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