千葉県館山市、房総半島の西端方面に鎮座する「安房神社」(あわじんじゃ)を訪ねました。
当地は忌部氏の拠点の一つとされます。
一の鳥居の手前に「義民七人様の供養碑」なるものの案内板がありました。
少し歩いた先の千祥寺境内にそれはありました。
大神宮村の領主・旗本河野三左衛門は、寛文12年(1672年)に年貢を引き上げたばかりか、村人の山支配を禁じて木材を独占し、大凶作のときも厳しく年貢の取り立てました。
そのため農民たち15人は、江戸の河野家に直接押しかけ、年貢減免などを要求する門訴をしましたが結局は訴えた農民全員を所払いのうえ家財没収にされました。
そこで天和2年(1682年)に、今度は直接幕府に領主の悪政を訴えたものの、一人の農民が偽証したため河野側に有利な判決となり、かえって名主・小柴三郎左衛門ら7人は処刑され、家族たちの家財はとられ追放となりました。
村人たちは領主の圧制のなかで供養碑を建立し、犠牲者たちを七人様として祀ってきたのだといいます。
コロナ禍の愚策と税圧に思うものを感じました。
吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する安房神社。
社名の安房とは四国徳島の阿波地方を意味し、阿波から渡ってきた忌部氏(いんべうじ)が創建したことに由来します。
忌部氏は古代より大和王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族であったと伝えられます。
富氏曰く、忌部の「忌」はその文字通り、元来、王家・大君家の葬儀を執り行う部民だったということです。
出雲王国時代、王の葬儀は風葬でした。
王が没すると、立て膝で座る姿勢にされて、竹篭に納められます。
遺体には死臭をふせぐ理由から、口に刺した漏斗に朱を注ぎ入れたそうです。
防腐処理を施された遺体は森の大樹に吊るされ、3年間放置されます。
その後遺体を回収し、洗骨して山の奥の大きな岩の下に埋葬されました。
この遺体を吊るした大樹は、その後注連縄を巻き「神籬木」(ひもろぎ)と呼ばれ、遺体を埋めた巨岩は「磐座」(いわくら)と呼ばれるようになり、巨木信仰・巨岩信仰の始まりとなりました。
安房神社の境内にも大きな磐座があり、中をくり抜いて厳島社が祀られていました。
出雲の偉大な王と副王が洞窟内で亡くなられた事蹟から、洞窟も信仰の対象となることがありますが、厳島社がこのように祀られるのは珍しいです。
古代の出雲では、死した遺体は穢れたものとみなされ、王家の者は触れることも近づくことも絶対の禁忌とされました。
誤って触れたものは、王位継承権を剥奪されたほどだと云います。
では誰が手の込んだ王家の葬儀・埋葬を執り行ったのか疑問でしたが、それが忌部氏だったのかもしれません。
忌部氏は東出雲王家・富家の分家であり、やがて東出雲の玉造の郷で勾玉を製作する仕事に従事します。
そこから次第に王宮の祭祀を担うようになっていきました。
8代目少名彦・八重波津身(事代主)が洞穴で亡くなられた後、息子のクシヒカタは、母の実家である摂津の三島を経て奈良の葛城方面に移住します。
そのとき彼に追従した人物の一人が忌部の「太玉」でした。
そう、当社祭神の「天太玉命」(あめのふとだまのみこと)であり、忌部氏の祖神とされる人物です。
安房神社では相殿神に后神の「天比理刀咩命」(あめのひりとめのみこと)のほか、忌部五部神という神が祀られています。
それは
「櫛明玉命」(くしあかるたまのみこと):出雲忌部の祖
「天日鷲命」(あめのひわしのみこと):阿波忌部の祖
「彦狭知命」(ひこさしりのみこと):紀伊忌部の祖
「手置帆負命」(たおきほおいのみこと):讃岐忌部の祖
「天目一箇命」(あめのまひとつのみこと)」筑紫忌部・伊勢忌部の祖
となります。
磯城大和王朝でも忌部氏は大君家の宮中祭祀を営むようになり、絶大な勢力を手にします。
忌部族の一部は「品部」(しなべ/ともべ/とものみやつこ)として地方に渡り、それぞれ宮中祭祀に欠かせない貢納品を納めるようになりました。
その地方忌部の祖神が忌部五部神となります。
出雲忌部(島根)は玉を、
阿波忌部(徳島)は麻・木綿(ゆう)を、
紀伊忌部(和歌山)は宮殿の木材を、
讃岐忌部(香川)は竹や盾を、
筑紫と伊勢忌部(福岡・三重)は鉄を、
という具合で、その他にも越前(福井)、淡路(兵庫)、備前(岡山)、隠岐島(島根)、安房(千葉)などにも忌部氏が居たと云います。
中でも阿波忌部は今でも践祚大嘗祭に麁服を貢進する役目が続いています。
安房神社の本殿右横には、主に置炭神事で使用される神饌所がありました。
古代の安房国はアワビの貢進地としても朝廷から重要視されていました。
本殿は神明造りになっています。
富氏は安房神社の社殿は王宮の住まいが神社化しているとおっしゃっておられましたが、それは氏の勘違いのようです。
当社のような神明造りをはじめ、多くの神社の形態は高床式倉庫などの蔵が社殿化したものです。
それに対し出雲系の神社は王宮が社殿化したものが特徴的となっています。
安房神社の一端に「下の宮」が鎮座します。
養老元年(717年)の創祀とされ、「天富命」(あめのとみのみこと)、「天忍日命」(あめのおしひのみこと)を祀ります。
天富命は天太玉の孫とされ、天忍日命は同じく弟とされていますが、寛永年間(1624年-1645年)の旧記には当社祭神が天日鷲命・天神立命・大宮売命・豊磐窓命・櫛磐窓命と記されており、祭神には変遷があったことが知られています。
大同2年(807年)に成立した『古語拾遺』、および『先代旧事本紀』には、天富命が良い土地を求めて阿波忌部を率い、黒潮に乗って東遷してそこに麻・穀(カジノキ)を植えたと記されています。
榖が実った地は結城郡(茨城県結城市)、麻が良く実った地は総国(上総・下総)と呼ばれるようになり、安房忌部の居る所は安房郡(安房国)となって太玉命を祀る安房社を建てたと伝えられていました。
安房神社の由緒はこれを踏襲しており、神職もかつては安房忌部の正統を称する岡島氏が担っていたといいます。
しかし一方、古代史料では安房郡司・安房神社神職などに忌部氏の存在が確認されず、古代に安房地方に濃密に分布したのは「膳大伴部」(かしわでのおおともべ)であったとされています。
『古語拾遺』は平安時代に中臣氏との勢力争いに窮する忌部氏が編纂したものであるとされ、忌部氏の安房東遷説話は創作であると指摘する意見もあります。
膳氏(かしわでうじ)から派生した高橋氏の手による『高橋氏文』には、景行天皇53年10月に安房浮島宮に至った景行帝に対して、膳氏遠祖の「磐鹿六獦命」(いわかむつかりのみこと)が堅魚・白蛤(うむぎ)を膾・煮物・焼物にして献上したとあり、帝はこれを誉めて永く御食を供進するように命じ大伴部(おおともべ)を与えたと記されています。
膳氏・高橋氏と言えば大彦の子孫。
古代の安房地方は本来、膳氏および高橋氏の勢力地であり、安房神もこの一族の奉斎神であったと考えられます。
安房神社本殿のある上の宮に戻って来ました。
御仮屋と呼ばれる細長い社殿は、本来は当社例祭に出祭してきた近郷神社の神輿を納めるための建物でありましたが、現在は神輿の入祭は行なわれていないそうです。
境内の一端に洞窟のようなものがありました。
昭和7年(1932年)に発見された海食洞窟の遺跡「安房神社洞窟遺跡」かと思いましたが、違いました。
遺跡はあづち茶屋の裏手にあったようです。
その遺跡からは人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土したのだそうですが、現在は埋め戻されているとのこと。
出土した人骨22体のうち15体に抜歯の習俗が見られたそうです。
人骨の一部は近くの宮ノ谷に埋葬されたうえで忌部氏に仮託して「忌部塚」として祀られており、毎年7月10日には神事として「忌部塚祭」が行われています。
しかしこの遺跡は、忌部氏東遷よりも遥か昔のものでしょう。
膳氏らよりも古い者たちのものではないでしょうか。
物部との戦に敗走した大彦の子孫は東国に安住の地を求めました。
その末裔の一つが膳臣であり、さらにその一部の人たちが当地に移住して来たのだと思われます。
そこへ後年、黒潮に乗った忌部氏らも上陸。
その頃の忌部は飛ぶ鳥を落とす勢いの物部のふりをしていたと思われ、安房の地を制圧したのではないでしょうか。
物部が衰退し始めると、忌部は再び出雲富家の分家であることを主張し始めました。
下の宮祭神の天富命とは、そういうことなのだろうと推察します。
朝廷祭祀も掌握していた忌部氏でしたが、やがて勢力を増す中臣氏及び藤原氏に立場を奪われていきます。
天武朝制定の「八色の姓」(やくさのかばね)では中臣氏は朝臣姓を賜ったのに対し、忌部氏は一段下の宿禰姓に留まりました。
忌部は奈良期より次第に本来の宮中祭祀職に就けない事態とな り、平安初期の大同2年(807年)に忌部宿禰広成が『古語拾遺』を帝に撰上し訴えましたが状況は変わらず、ついには歴史の表舞台から姿を消していったのです。
高橋氏文訳。高いw
一万以上するんですね。
だがしかし、、、、欲しいw
高橋神社は私の住んでる所の箕輪町近くにもあります。
箕輪は製鉄用語。六世紀には高橋の領域が製鉄王国になります。
松本市には安房峠があり、上高地は安曇氏、その入り口の新島々は、波田町という名で、波田神社の近くの山には白山社があります
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高橋氏文本に限らず、古代史系資料は軒並み高いですね。まあしゃぁないですけど。
図書館とか入り浸れたら良いのでしょうが、あちらもこちらも、定休日が月曜なものでなかなか行けません。
長野はもう本当に迷走しています。
よく分からないのはなぜ豪族らは皆、長野を目指すのでしょうか。暮らしやすくはなかったと思うのですが、別荘でも建てたかったのかな?
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料理の祖神が祀られている神社が安房にあります。その事に栃木の高橋神社さんは物申しておりました。
景行帝はあちらの神社では食事をなされておらず、島に上陸後に通過しただけなのだそうな。実際に料理を振る舞われたのはこちらなのだとか。
TVなどでは包丁を使わず箸だけで料理するパフォーマンスであちらが有名になってます。(笑)
・・・なんか元祖と本家の争いのような匂いです。後の世の人間の解釈によって色々あるもんだとも。
なんとも言えません。歴史を曲解するのが現代の人なのだから。ただ、どちらも歴史は深く、どちらも料理の祖神の神社として後の世に残ってほしいですね。
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そもそも景行天皇は関東に行っていないのではないか、と思います。
帝は九州遠征に出かけていますので、関東方面は息子の小碓・ハリマタケルに行かせたようです。
いわゆるヤマトタケルの話ですね。
それはさておき、それぞれの由緒を楽しみながら神社を訪ね歩くのも良いと思います。
日本は古来より八百万の神が坐す国ですから。
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