玉造・玉作湯神社:八雲ニ散ル花 忌部番外篇 01

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意宇の郡、拝志の郷の花仙山では、古来からメノウや碧玉の原石が採れた。
それを削って、勾玉や管玉などが造られた。
故にそこは玉造と呼ばれる。

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日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物、「三種の神器」(さんしゅのじんぎ/みくさのかんだから)というものがあります。
八咫鏡(やたのかがみ/鏡)、天叢雲(あめのむらくも/剣)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま/玉)の3つの事をいいます。
八咫鏡は伊勢神宮内宮に、天叢雲は熱田神宮に、八尺瓊勾玉は皇居内に収められており、一般には見たり触れたりすることは叶いません。

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そのうち、「八尺瓊勾玉」が作られた場所が出雲の「玉造」(たまつくり)だと云われています。

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玉造は美人湯で有名な玉造温泉が湧出する場所です。

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その湯は非常に霊験あらたか。

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玉造温泉はとてものどかな温泉郷です。

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宿に泊まらずとも、足湯や神話をモチーフにした像が楽しませてくれます。

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因幡のしろうさぎやヤマタノオロチなど、精巧でとても良くできたブロンズ像をあちこちで見かけました。

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さて、その玉造の奥、花仙山の麓にあるのが「玉作湯神社」(たまつくりゆじんじゃ)です。
花仙山では、古来からメノウや碧玉の原石が採れたそうです。
ちなみに、この一ノ鳥居の手前に赤い橋があるのですが、その橋と鳥居が入るように自撮り写真を撮影すると、恋愛成就のご利益があるとかどうとか。

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更に、参道の石段を登る前に、社務所で「叶い石」なるものを買い求めておくのが良いようです。

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袋の中には、様々な柄の巾着と、数種類の石のうち、どれか一つが入っています。

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参道入口には「神陵之杜」とあります。

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玉作湯神社は江戸時代には「湯船明神」や「湯船大明神」と、またそれ以前では「玉作湯社」や「由宇社」と呼ばれていたと伝えられています。
現在の社名は明治維新後に付された名前だそうです。

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玉作湯神社の創建年は不明とされていますが、出雲国風土記の記述によると天平5年(733年)と伝えられています。
永禄元年(1558年)には殿舎の部材から「湯姫大明神」と刻まれた文字が見つかっているそうで、往古よりこの地に温泉が湧き出ており、重宝されてきたようです。

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玉作湯神社の主祭神は「櫛明玉神」(クシアカリタマノミコト)、相殿神に「大名持神」と「少彦名神」を祀ります。
「五十猛神」(イタケル)も合祀されていますが、これは後に加えられた神でしょう。

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櫛明玉命は「天明玉命」「天羽明玉命」「天豊玉命」「玉祖命」「羽明玉」などの別名があり、「玉造部」の祖とされている神ですが、素性はイマイチはっきりとしていません。
記紀には、忌部氏の遠祖にあたる「太玉命」の率いる五神の一柱であり、高皇産霊神の孫とも伝えられ、玉作連、玉祖連の遠祖と仰がれる神であるということです。
また瓊々杵尊の天孫降臨にも従った一柱と云います。

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しかしながら、富家の伝承では、紀元前から三世紀までは、当地の玉造りの中心であったのは東出雲王家だったと云います。
櫛明玉命は富家から分家した一族の者でした。

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忌部氏の祖「太玉命」は、東出雲王家のクシヒカタに従って、奈良の葛城に行っています。
とするなら、櫛明玉命は富家から分家した一族であるというのも筋が通っています。
むしろ記紀の内容に齟齬が見えてくるのです。

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さて、拝殿で参拝を終えたら、右手に進みます。
そこにあるのは、触って祈れば願いが叶うとされる「願い石」。

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玉作湯神社の社伝によれば、太古の昔から、この願い石は玉作湯神社に存在し、祭神の「櫛明玉命」の御霊が宿る石「御神石」であると云います。
この石は元よりきれいな球形の自然石で、これを御神体と考えた村人によって神社に奉納されたとも伝えられており、良い原石が採掘された時や、良い勾玉ができたときにこの石に触れながら祈願する習わしもできたそうです。

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この習わしに従って、先ほど社務所で購入した「叶い石」で祈願します。
まず「叶い石」を袋から出して、「願い石」の前の御神水を掛けて清めます。
この竹筒から流れ出ている御神水は湧き水だそうで、太古の昔、櫛明玉神は、この湧き水で八尺瓊勾玉を洗い清めたと伝えられています。

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次に、「願い石」に「叶い石」を直接当てて、心の中で願い事を唱えます。
この時、3回唱えると良いそうです。

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そして、2枚複写になった「願い札」に「住所・氏名・願い事」を書いて、1枚を拝殿の箱に投函し、もう1枚と「叶い石」をお守り袋に入れて持ち帰ります。
願いが叶ったら「叶い石」を神社に返納すると、更に良いみたいです。

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「願い石」の隣に鎮座する青メノウの原石「御守石」(みまもりいし)も強力なパワーストーンです。
青メノウは勾玉の材料となります。

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玉作湯神社には、美肌を求める女性が後を絶たないといいます。

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境内には「ゆひめ椿」と言う椿が御神木として祀られていますが、この椿に「湯姫大明神」が宿っているそうです。

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古くからこの玉作湯神社の境内に鎮座される神様で美肌の神様であると伝えられています。

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他にも、境内には様々な摂社が鎮座します。

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そこにはオオクニヌシやスサノオといったように、出雲王家・海部家・穂日家の神が入り混じって祀られています。

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東出雲王家のクシヒカタは、渡来人がやって来て一緒に出雲に住むようになった頃、偉大な父「事代主」こと「八重波津身」が枯死した事件を受け、海部家や穂日家と一緒に生活するのを嫌って、大和の葛城地方に移住します。

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出雲王国の時代には、玉の首飾りを付けないと、豪族とは認められませんでした。
それでクシヒカタは忌部家の大玉命を一緒に葛城へ連れて行きました。

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とするなら、忌部家が高皇産霊神の子孫と伝えられるはずがないのです。
高皇産霊神とは高木神・栲幡千千姫のことであり、渡来人徐福の母親のことなのです。

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渡来人との共生を嫌ったクシヒカタが連れていった忌部家の大玉命は、渡来系ではなく出雲王家の分家の人物であると考える方が、普通です。

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出雲では、曲玉は特に縁起のよいものだと考えられていました。
それは生まれる前の胎児の形と、見なされたからです。

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子孫繁栄を尊ぶ古代出雲において、赤ん坊はサイノカミが恵む宝だという信仰がありました。
出雲王国が日本の広域に支配地を広げていた当時では、玉の飾りは各地から求められました。
出雲で造られた勾玉や管玉などは大和にも送られ、祭祀で使われたと云います。

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玉作湯神社の祭神である櫛明理命は、『古語拾遺』にも「出雲国の玉造りの祖」として、その名が書かれていますが、
古代の玉造り遺跡が玉作湯神社から西南に下った所にある「拝志の郷」から東にかけて、神魂神社付近の「大草の郷国庁跡」まで発見されています。
そこはまさしく、東出雲王家の領地内でした。

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境内の再奥に進むと、「湯山遥拝殿」という社殿があります。

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案内板の紹介です。

『湯山主命は五作湯神社御祭神で温泉守護・温泉療法・諸病平癒・その他守護神として往時より近里・遠郡をはじめ地区住民の信仰篤く、古歌にも「湧き出る湯山の主の神湯こそ病を癒す恵なりけり」と詠われています。

神社宮山に続く、現玉造要害山は往昔には湯山と称され、その谷を湯谷と云うと古書に記されています。
湯山の主は、湯山主命、即ち大己貴神、御同神 大名持神であり、湯山はその御神蹟として今も広く景仰尊敬いたすところです。

此度、平成24年は御祭神の御縁深い古事記編纂1300年並びに出雲國風土記編纂上進1280年に当たり、当神社御祭神の御神徳宣揚と湯山顕彰のため、遙拝殿を整備するとともに湯山の碑を建立し、併せて湯山の全容絵馬を献揚し、由来を記してここに顕彰申し上げ奉るものです。』

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遥拝殿の中は、神籬、御神木のようなものが保存されています。

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「湯山の主は、湯山主命、即ち大己貴神、御同神 大名持神」とありますが、一般に「大名持神」といえば出雲大社の祭神「大国主」を連想します。
しかし大名持は出雲王国主王の役職名ですので、17名の大名持がいらっしゃいます。

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大国主・八千戈王は西出雲王家の人物なので、東出雲王家領地内のここに祀られる大名持は、別の人物だと思われます。

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湯山は歴代東出雲王家の大名持の誰かが埋葬された、神奈備である可能性が高いように思います。
遥拝殿の中の大木は、その神籬が老化したために保存しているのではないでしょうか。

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湯山遥拝殿から下ったところには、「真玉ヶ池」があります。

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特別な説明はありませんが、紙垂で囲われています。

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勾玉を造るときなどに使われた池ではないでしょうか。

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行きにも気になっていたのですが、参道横に見える、不思議な建物に帰り道、立ち寄りました。

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この建物は「出雲玉作遺跡出土品収納庫」という倉庫のようで、昭和44年から46年に花仙山近くで発見された遺跡の出土品が管理されているそうです。
普段は閉じられていて、年に数回、公開されるとのこと。
出土品は「玉類及同未成品 184箇」「砥石残闕共 162箇」「硝子塊 11箇」「坩堝残片等」と、実際にこの地で勾玉などが製作されていた証拠となっています。

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で、なんとなくその収納庫の裏側が気になり、足を運んでみました。

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するとまた紙垂で囲われた結界の奥に、石碑が立っています。

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そこには「玉祖神陵」の文字が彫られています。
少し丘状になったその場所は、玉祖「櫛明玉」の御神陵なのではないでしょうか。

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2件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    「湯山主」を諱、ご神名に奉る神さまがいらしゃいます。
    神話に言う?スサノオの御子の
    清之湯山主狭漏彦八嶋篠命。

    この場合のスサノオとは、出雲王国初代オオナモチの菅之八耳命を指していると思われます。
    となると、伝出雲王国の系図からその御子の八嶋篠命(富家?初代)さまの事かもしれません?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      なるほど「湯山の主は、湯山主命、即ち大己貴神、御同神 大名持神」、ここでいう大名持は八嶋篠命の事でしたか。
      斎木雲州氏の「出雲と大和のあけぼの」の巻末資料の系図によると、菅之八耳命の次に「八島士之身(八嶋篠)」「兄八島士之身(八嶋手)」とお二方の名があり、前者が神門臣家、後者が富家の始祖であるように書かれています。
      名前の類似性から、お二方は兄弟で、共に菅之八耳命の御子であった可能性が高いですね。

      清之湯山主狭漏彦八嶋篠命とは、当社が東王家の領地であることを考えると、八嶋手命を指しているのかもしれませんし、当時はまだ西・東の明確な区分もなく、当地の人も大名持をあがめて八嶋篠命を祀ったということなのかもしれません。

      何れにせよ最終的には憶測に頼るしかないことですが、こうして往古に思いを馳せていると、当時の暮らしぶりなども目に浮かぶようで楽しいですね。

      いいね

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