
安来郷 郡家の東北二十七里一百八十歩の所にある。
神須佐乃袁命(かんすさのおのみこと)が、天まで聳える山々を巡った時、ここに来て「わたしの御心はやすらかになった」と言った。ゆえに安来という。
この郷の北海に村があり、そこに比賣埼(ひめさき)がある。
飛鳥浄御原宮御宇天皇(天武天皇)の御世、甲戌(674)年七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)の娘がこの埼まで遠出していると、たまさか和爾(ワニ)に遭い、殺されて帰らなかった。
そのとき、父の猪麻呂は、殺された娘を浜のほとりに葬ったが、大いに悲しみ怒り、天に叫び、地に悶えた。さまよい歩いては嘆き、昼夜に悩み苦んで、亡骸を埋めた場所から立ち去ろうとはしなかった。
そうする間に数日が経った。
然る後に慷慨(こうがい)の心を奮い立て、矢を研ぎ鋒(ほこ)を取って、しかるべき所を選んで座り、神に訴えた。
「天神の御子ー千五百万、地祇の御子ー千五百万、並びにこの国に鎮座する三百九十九の社、また海神たちよ。大神の和魂は静まっておればよい、だが、荒魂は皆ことごとく、この猪麻呂の願うところに依り給へ。まことに神霊(みたま)があるというのなら、わたしに仇を討たせ給へ。これをもって神があることの証となるであろう」
しばらくして、百あまりの和爾が、静かに一匹の和爾を取り囲み、ゆっくりと猪麻呂の下に近寄ってきた。和爾たちは進みも退きもせず、ただ一匹の和爾を囲んでいるだけであった。
そのとき猪麻呂は、鋒を振り上げて真中の一匹の和爾を刺し殺して捕えた。
猪麻呂が成し遂げると、百匹余りの和爾は散り散りに去って行った。
殺した和爾を切り裂くと、娘の足の脛(はぎ)の部分が出てきた。
それを見て、これが娘を殺した和爾であることを確信し、さらに斬り裂いて串刺しにして、路の傍らに立て晒した。
猪麻呂は、安来郷の人、語臣与(かたりのおみのあたう)の父である。その時以来、今日に至るまで六十年を経たり。
- 『出雲国風土記』「意宇郡安来郷の条」

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島根県安来市、安来駅の裏手に「毘売塚古墳」(ひめつかこふん)と呼ばれる史跡があります。

古墳に足を踏み入れるのは、若干のためらいがありますが、失礼しますよっと。

虫や蜘蛛の巣にご挨拶しながら、ひいこら登っていくと、

鳥居がありました。

その先には、「毘売塚」の石碑。

ここは全長約50mの前方後円墳で、『出雲国風土記』などに記される「比賣崎伝承」に登場する姫の墓と言い伝えられているそうです。

ん?姫は浜に埋葬されたのではなかったか?
発掘調査により毘売塚古墳からは舟形石棺が1基発見され、石棺内から壮年男性の人骨1体と鉄剣が、棺の外側から鉄剣や鉾、短甲、漁具(ヤス)などの鉄器類が出土し、古墳時代中期の築造と考えられているそうです。
『出雲国風土記』は奈良時代に書かれており、「比売埼伝承」はその60年前の話とありますから、当墳が姫のものではないということになりましょうか。

しかし猪麻呂は、和爾の腹から出てきた、娘の脛(はぎ)をここに埋葬したのかもしれませんから、ここが毘売塚であることに異論はありません。

塚のそばから望む先には、安来の港と王の海が見えていました。



毘売塚古墳から、少し下った場所に、「安来御茶屋御殿」(やすきおちゃやごてん)の跡地があります。
各大名家が、参勤交代や領内視察の際に宿泊または休息するための施設です。

そこに「語臣猪麻呂」(かたりのおみいまろ)の像がありました。

鉾を手に、ポツンと佇む小ぶりな石像。

非道にも娘を殺された、父の苦悩と寂しさが滲むような像でした。



「安来千軒名の出たところ、社日桜(しゃにちざくら)に十神山」
安来港にぽっかりと浮かぶ、円錐形の美しい山。
安来節の一節にも唄われる十神山(とかみやま)は、『出雲国風土記』に「砥神島」(とかみしま)と記されるように、かつては独立した島でした。
神在月には、出雲に向かう八百万の神々がお休みになる山といわれており、元来10月は十神山に登ってはいけないと言われていたそうです。

その十神山を背景に、一人の女性の像が海に浮かんでいます。

これは「語部臣猪麻呂の毘売像」で、和爾に殺された娘の像となります。
しかし、和爾って…あの和邇のこと、ですよね。
『雲陽誌』には「古老傳に猪麻呂は揖屋明神の神官なり」とあるそうで、揖夜神社の神官の娘を、和邇家の一人がいたずらに殺してしまった、という伝承なのでしょうか。
なんとも切ない。

出雲国風土記が書かれた733年(天平5年)の約60年前、674年の天武天皇3年に悲劇は起きたと記されます。
「壬申の乱」後のことで世が荒れていたからか、または和邇家を貶めるために作られた寓話なのか。
真実はさておき、娘の死後、この地方に多くの災いが振りかかり、それは姫の祟りではないかと噂されました。
猪麻呂は娘の霊を慰めるため、鉾に和爾を刺し4日間踊り続けたと云われ、その刺した和爾が月の輪に見えたことが「月の輪神事」として今に伝えられています。

その祭りでは毎年8月14日から4日間、“えんや えんや でご でっとーやー”の掛け声と共に山車が曳き回され、
夏の風物詩として、多くの人を楽しませているのだそうです。

ワニの伝承は出雲に本当に多いですね。
和邇氏なのか、ほかの海人系なのか?
私はリマン海流に乗ってきた隠岐の島経由の渡来人かと感じています。
ただ、サメをワニに見立てているので、少なからず東南アジアやインドの影響はあるはずですが…
ワニ伝承って、出雲以外にも多いですか?
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豊玉姫が変身したのはワニ(サメ)だったと、宮崎では伝えられていますね。他はあまり聞きません。
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安来駅を過ぎた国道9号線沿いに、日立金属(現プロテリアル安来工場)に行く坂の下の辺り、銅像と由緒が書かれてるものらしきものを、車中から見ては気になっていました。信号が青に変わるまで、身を乗り出してガン見しとりました(笑)アップありがとうございます。
その寓話と和邇氏の関係、気になりますね。
この辺り一体は、古来から玉鋼という伝統を紡ぐたたら製鉄に縁のある場所。まさに砂鉄、スサの王国だったのでしょう。
私も最近は、スサノオ=徐福という図式は、記紀の大事なポイントが見えなくなる要因の一つなんじゃないかと思ったりしています。例えば、稲作を妨害するスサノオ。これは、弥生式の二毛作や大和朝廷からの律令制に発展していく中央管理体制に反抗した、極めて縄文的な文化を重んじる一族の行為のことを表していると思えますし、素鵞社や須佐神社、須賀神社の主祭神は、なんとなくですが、山陰の伝承から抹殺されてしまっている菅之八耳っぽくないですか。。とくに須賀神社は例の八島、という御子の文字で確実でしょう。八重垣神社もスサノオと奇稲田姫。
八重垣神社もスサノオだしなあ。。と思ってしまえど、自身の結婚のご祈祷をして頂いた大事な神社のため毎年初詣はこちらと美保神社です。
これら3つの神社すべてに、徐福色はあまり感じられないのです。徐福さんは星読みの斉国の方士。ダジャレでサイノカミ。。なわけはありません(失礼しました)蓬莱島的な境内社、社稷などがあるお社には、なんだか徐福さんを感じたりもしますけど、須佐神社や須賀神社は、どちらかというと見事に出雲神寂びていますよね。
徐福さんは、どちらかというとインテリヤクザなイメージで、所々にユダヤの風を勝手に感じてしまいますよ。暴れん坊なスサノオのように、縄文文化を重んじたタイプにはあまり見えません。
徐福だけでなく、改めて、天香香背男など星読みの系統を深掘りしたくなりました。スサノオの記紀に出てきては引っ込んでいくストーリーも、一体何を表したいのか編者の意図が見えません。
全ては、神門、郷戸家の伝承が残っていれば、かなり違っていたかもしれませんね。
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確かに、徐福系の社では、異質な雰囲気を感じますね。
徐福が連れてきた海童らの子孫はわかりませんが、ただ、徐福自身は、縄文文化や出雲をリスペクトしていた雰囲気も感じています。
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