粟嶋神社・事代主神社:常世ニ降ル花 阿波朔篇 13

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徳島の粟島(善入寺島)付近をうろうろしておりましたら、阿波町で「賀茂神社」を見つけ、気になったので立ち寄ってみました。

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祭神は「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)、「天忍日命」(あめのおしひのみこと)、「意富加牟積命」(おおかむずみのみこと)、「天津久米命」(あまつくめのみこと)の四柱。
カモ社なのにカモ系の神様、おらんやないかい。

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この中で、「意富加牟積命」(おおかむずみのみこと)って神様がちょっと特殊で、黄泉国から逃げ帰るイザナギさんがヨモツイクサに追いかけられ、大ピンチの時に放った桃がこの神さんだということです。
つまり、オオカムズミは桃の神様ということです。

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『徳島県神社誌』によると蜂須賀公の崇敬社で、『阿波志』に「別雷祠 朽田村に在り 旧中野村に在り 貞亨元年ここに移す 越智通玄偃月刀一枝を納む 備中水田源国重造す…」とあるようです。
越智通玄ねぇ、ふむふむ。

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当社は前方後円墳の上にあるという説もあるようです。

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参道前には、「雷状石」というものがあり、「其の昔 鳥居前に落雷あり、祭神怒りて大岩で伏せ込めば 雷二度と落ちませぬとあやまる 祭神是を許し解放す 以来当地では雷鳴あらば 加茂さんの氏子・加茂さんの氏子 と唱え難を逃るという 其の落雷あとが井戸として氏子崇拝の要となる」
とのことで、要は落雷の跡が井戸となり、その上に雷神を封じ込めた石というものを置いてあるようです。

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う~ん、なんかの礎石じゃないですかね。ぼこぼこ空いている穴は、杯状穴かな。

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賀茂神社の宮司さんがいらっしゃったので、少しお話をして、紹介していただいたのが「八幡神社」です。
「鳥居が3つあって面白いよ~」と。確かにありますな、鳥居が三つ。

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創建は不詳ですが、細川氏が秋月城に於て阿波を支配していた頃の十四世紀の半ばに創立されたと推定されていました。
祭神は「応神天皇」「神功皇后」「玉依媛命」「大己貴命」「事代主命」「大山祇命」「猿田彦命」「萱野媛命」「菅原道真公」。
おお、カヤノヒメさんがいらっしゃいますね。

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明治以降に善入寺島の「杉尾神社」をはじめ、他に五社が合祀されたとのことですが、なるほど、鳥居が3つあるのはそのせいのようです。
そう、この八幡神社は、粟島(善入寺島)に面するところに鎮座しています。

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杉尾神社は式内社「建布都神社」の論社なのだそうです。

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明治期に合祀されたというのは、そう、あの事件の時ということになります。

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今は善入寺島と名を変えられた、日本一大きな川中島「粟島」。
そこの住人全員を立ち退かせ、重要な歴史を持つ各神社を遷座合祀させ、あまつさえ宮島(浮島)八幡神社の境内をダイナマイトで爆破までした、河川工事という名の暴挙。
なぜそれが必要だったのか。

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八幡神社をうろうろしていた、こんなものを見つけました。
尾池家先祖。おいけ?おち?

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杉尾神社といえば以前、元諏訪を謳う「多祁御奈刀弥神社」に向かう途中、吉野川市鴨島町の「杉尾神社」(すぎおじんじゃ)に立ち寄っていました。

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民家の間にポツンと建つ神社。
なぜここに立ち寄ったかというと、当社が、式内社「秘羽目神足濱目門比賣神社」に比定されている神社だと云うからです。

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祭神は「天水沼比古神」(あめのみぬまひこのみこと)と「天水塞比賣神」(あめのみずせきひめのみこと)。
水沼という名前に僕はウハウハしてしまいますが、社名から、本来なら「秘羽目神」(秘羽目門比古神)と「足浜目門比売神」の2座であるべきなのだという主張が強いようです。
う~ん紛らわしい。

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いずれも水に関する神のようですが、秘羽目神って彦神なの?「秘羽女塚」ってあったし、秘羽女=阿波姫ではないのだろうか。

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この阿波地区だけで考えると混乱してしまいますが、山形の椙尾神社(すぎおじんじゃ)では「積羽八重事代主命」と「天津羽々命」が祭神となっています。

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秘羽女=天津羽羽神なんじゃないかとも思うのですが、どうでしょうね。

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徳島県阿波市市場町にある「粟嶋神社」(あわしまじんじゃ)を訪ねました。
粟嶋神社の立派な鳥居の隣には、

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「八幡宮」の鳥居があります。

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当地は「八幡」の地名が付いており、それは当社が由来であると考えられます。

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つまり鳥居は小ぶりながらも、この立派な社殿が八幡宮であり、主となる神社になります。

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この八幡宮に合祀されたのが粟嶋神社です。

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明治期に始まった吉野川の改修工事に伴って、日本最大の川中島であった粟島(善入寺島)の500余戸、3000人の住人が強制退去させられました。
それに伴い、粟島にあった総鎮守の「本須賀八條神社」他5社を、八條神社に合祀した上で「粟嶋神社」として当地に遷宮したということです。

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八幡宮の本殿隣には、小さな摂社がふたつ。

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粟嶋神社は、そちらではなく、もう少し大きなこちらの社となります。
祭神は「天津羽命」(あまつはねのみこと)であり、天日鷲の兄妹神とされています。
いわゆる「天津羽羽神」のことです。

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天津羽命はここでも、事代主の后ということになっていますが、実際には違うだろうと思われます。
これまでに天津羽羽神を追ってきましたが、どうにも事代主とは、時代が合わないのです。

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遷座された粟嶋神社からほど近い、阿波市市場町伊月に「事代主神社」が鎮座しています。

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参道入口の鳥居の側には吉野川が流れており、

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対岸は粟島の東端にあたります。

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おそらく、ここに事代主神社が鎮座することになったのが、天津羽羽神をして事代主の后であるとする誤説が生まれた原因であろうかと思われます。

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創建年は不詳ですが、一説によると安寧天皇の伯父にあたる多臣の子孫が出雲族を率いて当地の阿波国伊月にたどり着き、祖神である事代主命と祖母の五十鈴依媛命を奉斎したと伝わるそうです。
3代安寧大君の伯父とは、2代綏靖大君の兄弟・神八井耳のことで、多氏の祖となる人です。
綏靖大君と神八井耳は、初代村雲大君と蹈鞴五十鈴姫の間に生まれました。
五十鈴依姫は綏靖大君の后となった人なので、多臣の子孫の祖母とはなり得ません。これは蹈鞴五十鈴姫の間違いでしょう。

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事代主が当地に祀られた時は、東出雲王家8代少名彦の八重波津身、つまり事代主は、鳥取県米子の粟島で亡くなっていました。
それも数代前の話です。
なので、吉野川対岸の八條神社に天津羽命が祀られているので、夫婦神であるとするのは、無理があります。

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彼がここに祀られたのは、彼の死地が粟島だったから、だと考えられます。
粟島の大元である、吉野川の川中島を望む形で、建てられたのです。

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思うに、米子の粟島は、事代主が粟島という場所で亡くなったのではなく、亡くなった場所を粟島と呼ぶようになったのではないでしょうか。
つまり、粟島とは常世に通じる場所の意味であり、その大元が、吉野川の川中島であると思うのです。

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命は常世へ還り、常世から生まれる。
この大元たる粟島から派生した姫巫女を「阿波姫」と呼んだのではないか、と僕は考えます。
八重波津身・事代主で言えば、三島のミゾクイ姫がそうであったでしょう。
天津羽羽神も阿波姫ならば、アメノコヤネの母・コトノマチ姫も阿波姫です。
そしておそらく、常世織姫や磐長姫、さらに幸姫も。

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阿波姫=一人の女性、と考えるが故に、間違いが起こります。

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当地、伊月の地名は、「斎く」であり、「斎月」なのかもしれません。

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「躬は此所に 心は粟の齋く島 事代主と 崇めまつれよ」

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17件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    大宜都比売の末である粟凡氏の系図には事代主を味耜高彦根としており后神を大宜都比売別名を阿波姫たしております。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      大宜都比売=阿波媛、わかる。
      伊予媛=大宜都比売、わかる。

      事代主=アジスキタカヒコ・・・なんでやねん。

      ってなりますね。
      事代主が役職名だとしても、神門家を持って来ますかね。富家が神門家になっていったという例のアレになってくるのですかね。

      というか、阿波にクナト2000ってのか凄すぎですね。もはや阿波がクナト発祥と言っても良いレベルじゃないですか。
      nariさんの調査レベルにも腰を抜かしますが。

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  2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

    上白岩遺跡と軽野神社、面白いですね。マークさせていただきます。

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  3. 不明 のアバター 匿名 より:

    和歌山の淡島(粟嶋)との関係ですが、四国のそれはやはり和歌山と関係が強そうですね。

    婦人病や針供養などの風習は江戸時代に流行った様です。

    出雲井神社は里帰り的なお話でしたっけ。

    もしかしたら、鳥取のそれも祭祀としては里帰りなのかもしれませんね。それこそ後年に淡島と呼ばれる様になったと。

    事代主を顕彰する地域が、亡くなった飛んでいった先の淡島を名乗る様になったという考え方です。

    ヒルコに関してですか、元々アジアでは胎盤を第一子として捉える考え方がある様です。概要欄をご覧ください。

    この考え方からすると四国と粟は本質が異なることになります。

    ttps://nihonsinwa.com/page/1772.html

    淡という言葉は元々淡水を意味する言葉で、淡海、アワウタは、近江やそちらの歌であるという説があります。48音を重複しない様に作ったとも言われるので、人麻呂が作った可能性もあります。

    ttps://navihico.com/north-omi2/?amp=1

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      ヒルコ=胎盤という考え方は面白いですね。言い得て妙です。
      亡くなって飛んでいった先が淡島、だとすると、淡島は事代主の母系の故郷である可能性があったりしますかね。
      事代主の母は、いったい誰なんだろう🤔

      いいね

  4. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    面白い記事を見つけました。

    https://www.bimikyushin.com/chapter_8/ref_08/izumo.html

    「粟 = 出雲」、「米 = 大和」という権力構造に紐付く穀物の関係があったはずで、つまりどのような主要穀物を産するかということが、支配権力と結びつき、相互が密接に関係していたと言える、という食の観点から書いてあり、とても興味深く読みました。

    面白い〜☺

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      確か出雲でも、早い時期から稲作が行われていたと思います。

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      1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

        出雲族。。確か陸稲作?でしたっけ? 特に縄文時代は、
        家族が一世代で食べる分だけ稲作するという、貯蔵したり領地を拡大する争いごとがないような、やり方で稲作していたのでしょうか。

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        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          最初は陸稲ではあると思いますが、大和ができる頃には、出雲でも水稲がなされていたのではないですかね。
          大和が米、出雲が粟という観点は、少々疑問を感じました。

          ひと昔の日本は、どの家も鍵も開け放しで、おおらかでした。そんな感じだったんじゃないですかね、出雲の稲作は。

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  5. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    興味深く読ませて頂きました☺

    米子の粟島は、事代主が粟島という場所で亡くなったのではなく、亡くなった場所を粟島と呼ぶようになった、つまり、粟島とは常世に通じる場所の意味であり、その大元が、吉野川の川中島である。。

    ↑ 確かに確かに。全国の粟嶋。そこは、常世、黄泉の国の入口となってたのかもしれませんね。調べたくなりました。各地に地名がありそうですね。米子の粟嶋神社のとこも夜見町という名前がそれを表していますよね。闇、夜見、黄泉の国。夜見町のある弓ヶ浜も夜見ヶ浜だったのかもしれませんね。(古代はあそこは陸続きではなく海でしたが)

    オミツヌさんの闇見の地。旧潜戸なんてそういえばまさに、賽の河原ですもんね。死と再生のトンネルが潜戸とか、洞窟だと思われてたのでしょうか。

    「最後果て」というように、サイも意味深いですね。再生のサイ。サイの神の幸。

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  6. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    「意富加牟積命」か桃の神であるということは太田氏の様な気がします。

    確か太田遺跡は桃の種が出てましたっけ。

    意冨に隠されたもう一つのオウ氏、それが太田氏の様な気がします。オオタタネコは大御食持の父親ですが、允恭天皇の時代の氏姓改めの際に上毛野と同じく後年に地名にちなんだ名前になった事を遡って象徴的に書いている気がするのです。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      可能性ありそうですね。

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  7. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥雷状石の下には雷おやじが埋まっているんですかね🐤爆発した雷おやじを鎮める為に穴掘って埋めて石置いたとか🐣

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      きっと老害のおやじが埋まっているのでしょうね😌

      いいね: 1人

      1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

        🐥老害なだけで埋められる時代って何なんや…

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          悲しいけどこれエイジズムなのよね

          いいね: 1人

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