粟嶋神社:八雲ニ散ル花 11

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島根半島と米子市を結ぶ弓ヶ浜を進むと、草穂が広がる中にぽっかり浮かぶ丘が見えます。
ここが粟嶋であり、事代主が幽閉された島です。

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弓ヶ浜半島は今は陸続きになっていますが、古代は島でした。
中海は「王の海」と呼ばれ、東出雲王家の領海でした。
そこに小さく浮かぶ島が「粟島」で、ここに連れてこられた事代主は、数人の海童(徐福か連れて来た童男童女)に取り囲まれ、島に幽閉されたと云います。
粟島で事代主が非業の死を遂げ、黄泉の国に行かれた、と云われました。
それで粟島の対岸にあった島を黄泉の国・黄泉の島と呼んだと云います。
やがて黄泉の島が夜見の島となり、今の弓ヶ浜と名前を変えていきました。

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733年(天平5年)の「伯耆国風土記」では、こびとのスクナビコナがこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれています。

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「日本書紀」でも同じように、スクナビコナが淡島で粟茎に弾かれて常世へ渡ったと記しています。

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島の頂上に粟嶋神社はありますが、187段あるという石の階段を登らなくてはなりません。

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途中階段の横道に鳥居が見えます。

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先へ行くと荒神宮がありました。

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さらに石段を昇ると「蝮蛇神祠」とあります。

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怪しげな細道を進むと、

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小さな石の祠があります。
一体何を祀っているのか、由緒も不明です。

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ようやく神門が見えて来ました。

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事代主は餓死と判定され、その遺体は八雲町の熊野山に埋葬されました。

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その後、事代主の亡くなった島全体が神域となり、ここに事代主の御霊を祀っています。

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しかし不思議に思うのは、仮に事代主が拉致され、この島に放置されたとしても、王の海はそれほど荒れる海でもなかったように思えますし、夜見の島や本土へも、なんとかたどり着けたのではないでしょうか。

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海には鰐鮫がいたのかもしれませんが、ここは事代主の庭のような場所だったと思うのです。

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あるいは事代主は体を縛られ、自由を奪われた上で孤島に放置されたのかもしれません。

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山頂の境内はさほど広くなく、伊勢神宮遥拝所や、

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出雲大社遥拝所がありました。

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そして本殿裏に降りる道を見つけると、

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美しい、古代の数々の歴史を秘めた王の海(中海)が一望のもとに見えていました。

「うき雲を はらひし風を あは島の しまにのこして 月ぞすみける」

文政期の米子の文人「福島林仙」が詠んだ、「米子八景」の一つです。
粟嶋からの中海の水面に映る秋の月夜は「粟嶋秋月」と呼ばれる名景で、粟嶋全体は米子市の名勝に指定されています。

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本殿裏の道は、人の通った気配が薄く、蜘蛛の巣などに悩まされました。
「粟嶋神社社叢」と呼ばれるこの杜は、スダジイなど高木から中低木が生い繁り、珍しい照葉樹林を形成しています。
島全体が原始林とされ、鳥取県の天然記念物の指定を受けています。

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なぜこんな獣道を進んでいるかというと、島の先には事代主幽閉の洞窟があるというのです。
しかし後で気づきましたが、島の裏側へは、正面参道入り口横側から簡単に行くことができました。

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別れ道の先に、

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「御岩宮祠」という磐座があります。

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「お岩さん」と呼ばれるこの大岩は、「海からたどり着かれたスクナヒコナ(事代主)が、やれやれ着いたと、まっ先に抱きつかれた岩」とあります。

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「神の依代」として古くから信仰をされ、岩は石と同じで、石は「セキ」と読めるところから、風邪やセキによく効く神としておまいりする人が多いなどと、呑気な注釈が添えられていますが、

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まさにここに、事代主は拉致されて来たのです。

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すぐそこまで海が迫り、恐怖のあまり、この岩に抱きついたのでしょう。

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さらに進むと、

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「静の岩屋」という小さな洞窟があります。
そこには「八百比丘尼」の伝承が言い伝えられていました。

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地元の漁師の娘が、誤って人魚の肉を食べてしまい、不老不死になってしまいます。
世を儚んだ娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかったそうです。
娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれたと云います。

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この洞窟が、事代主を幽閉した洞窟であると聞きましたが、穴はとても小さく、屈んでも入れる気のしない、そんな洞窟です。

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「大汝(おおあなもち) 少名彦の いましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」

万葉集の355番「生石村主」(いずしすぐり)の歌は、大国主と事代主がそれぞれ岩屋に居られたことをそっと伝えていました。

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