鹿々本神社:常世ニ降ル花 神門如月篇 10

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「もみち葉の 散らふ山辺ゆ 漕ぐ船の にほひにめでて 出でて来にけり」
(もみじ葉の散り降る山裾を、漕ぎ来る船の色鮮やかさに惹かれて、来てしまいました)-3704

「竹敷の 玉藻なびかし 漕ぎ出なむ 君がみ船を いつとか待たむ」
(たかしきの玉藻を靡かせながら、新羅へと漕ぎ出すあなたの御船のお帰りを、いつになるのだろうかと待ち続けるのです)-3705

対馬娘子「玉槻」

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対馬の上・下の境目あたりに、「真珠貝の塔」または「しらたまの乙女像」と呼ばれる像が建っています。

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対馬は古来より真珠の産地であり、当地は「玉調の浦」(たまづけのうら)と呼ばれていました。
ここで遣新羅使一行をもてなす宴が開かれ、対馬娘子(つしまのおとめ)「玉槻」(たまつき)が詠んだ歌2首が、万葉集に残されています。

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長崎県対馬市上県町の鹿見(ししみ)へやってきました。
海に近く、潮の香りのする農村です。

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その奥まった場所に鎮座するのが、「鹿々本神社」(ししもとじんじゃ)です。

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当社に関する情報は非常に少なく、ネット上では、焼き物と文墨の里「虎丘」さんのサイトの情報が全て、と言えるかもしれません。

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虎丘さんの鹿々本神社のページによると、室町時代の西暦1517年、阿比留宗家は伊奈村より鹿見村に居を移すに伴い、第12代藩主宗義盛より、宇麻志麻活命と伊奈村に存在する「伊奈久比神社」の神体(大歳神・上古八幡尊神)を併せ、鹿々本神社に祭る命を受けたとあります。

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よって当社祭神は「宇麻志麻活命」(うましまじのみこと/物部氏祖)、「大歳神」(おおとしのかみ)、「八幡尊神」となりますが、八幡尊神には敢えて「上古」と冠されており、今言われる応神帝のことではなく、本来の宇佐大神を指しているのではないかと思われます。

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そう考えると、対馬にはなるほど、豊玉姫ゆかりの神跡が多く存在しています。
僕は阿曇族が対馬に豊玉姫を祭祀したのだろうと考えていましたが、そこに阿比留氏の存在も加えていく必要がありそうです。

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今も鹿々本神社を守っておられる阿比留宗家には、次のような言葉が伝わっています。
「上古八幡尊神を伊豆山に祭る時、大空に奇しき声あり。白鶴稲穂を銜え来り、これを澤の邊に落し、たちまち大歳神となる。その霊を祭りて稲作神となし、田を開きて落穂を植え、神饌を得てこれを祭る」

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対馬の伊豆山とは現在の「木坂山」で、「海神神社」が鎮座しています。
海神神社は、神功皇后が伊豆山に強い神霊を感じ、そこに鰭神(ひれがみ)を祀らせたと伝承されますが、実際のところは起源詳細はわかっていません。
元は「豊玉媛」と「鵜茅葺不合」を祀っていたが、中世のある時期から八幡宮となり、祭神は八幡神(応神帝)と神功皇后に置き換えられた、とも云われています。
そして明治4年に八幡宮から海神神社に社名が変えられました。
多くの神社の祭神が、神仏習合期と神仏分離の明治期を経て、祭神があやふやになっているのは、日本の古代を知る上で大きな損失です。

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阿比留家の伝承に戻れば、「上古八幡尊神を伊豆山に祭る時」とは、伊豆山(木坂山)に上古八幡尊神=豊玉媛(と、あるいは鵜茅葺不合=豊彦)を祀る時、「白鶴」なる何某が、稲穂とともに「大歳神」信仰を伝えた、と読み解けます。
B女史さんによれば、

「よく思い出してください。漆島は、稲飯姫を祖とするという言い伝え、対馬においては伊奈久比命の後裔、伊奈は稲ですね。赤い稲です。
アカブスマイヌ、イヌは伊農とも書き、赤稲のことですね。
高千穂の姫は漆間の姫。夫は諏訪の神。
中臣氏の作られた神話、武甕雷と建御名方の対立軸は、中臣の祖先、村雲と諏訪神の対立軸とも取れます」

とのこと。アカブスマイヌサワケ、長ったらしく変な名前だと思っていましたが、「赤稲のサワケ」という意味でしたか、カッコよ!

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例のこちらの系図ですが、

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偽装された天穂日命は、本来は「赤衾伊努大住日子佐別命」のことであり、伊奈久比の稲は白稲かとも思いましたが「赤い稲」のことで、大国主・八千矛の父、神門家(郷戸家)のサワケを表しているということです。
大歳神は、神門家で特に信仰の厚い神です。
つまり、「白鶴」なる何某が、神門家サワケの血筋を、対馬にもたらした、ということになります。
この系図ではサワケの血は「伊佐我命」(櫛八玉=伊勢津彦:系図では伊勢津彦は出雲建子になっているが間違い)と続き、

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建弥己己命、そして阿比留氏の祖神である伊奈久比命へと続くのです。
思うに、伊奈久比神とは謎の人物「白鶴」であり、サワケの血筋を身籠って対馬に降り立った姫神であり、この鹿々本神社や伊奈久比神社においても真の祭神となる神なのではないでしょうか。

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さらにB女史さんは建弥己己命について、別の系図「諸系譜」から、

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漆間(漆島)氏にも繋がるのだといいます。
健久久知が建弥己己と、同一人物だということでしょう。
つまり、津島県直と漆間氏は同族で、高千穂神が漆間氏の神だという説に関係してきます。
健久久知の次に記される「建男組命」はは草部吉見神であり、阿比留氏、漆間氏、草部氏は同一の祖神をもつ、ということになります。
B女史さん曰く、高千穂では、漆間は高千穂神社の神をずっと祀ってきたという事になっており、二上神も漆間の神だというので、橋本もこれら氏族と同族となるかもしれません。

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系図の建男組の次に記される「建弥阿久良」(たてみあぐら)、彼は『新選姓氏録』右京神別にある「若倭部連、神魂命七世孫天筒草命之後也」、この「天筒草命」と符合するのだと、B女史さんはいいます。
『先代旧事本紀』の天孫本紀にある尾張氏の系図では、天村雲と阿俾良依媛の子「天忍男」の孫に「建筒草」がおり、同じく天村雲と阿俾良依媛の子「天忍人」の孫に「建斗米」がいます。この建斗米の子の一人が建弥阿久良となっています。

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また、房総半島の中部を支配していた伊甚国造(いじみこくぞう)は伊勢津彦系と云われ、出雲国出雲郡建部郷にも「伊甚神社」が鎮座しています。
千葉のいすみ市は「いじみ」が転じたものとする説もあり、ここには趣深い聖地がありました。

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なぜここで伊甚国造の話を出したかというと、豊国造は、伊甚国造の子がなっているとされ、古代西出雲王家・神門家の血筋が、ホヒと称して各地に土着していた事がわかります。
常陸国の那珂国造「建借間」(たけかしま)も異本阿蘇系図によれば、草部吉見系とみることができます。
建借間(建借馬)は、鹿島神宮の元々の祭神で、鹿島は自分たちの同族だと、対馬の阿比留家では言い伝えられているそうです。

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出雲の伊甚神社は、伊甚国造の一族が祀った神社であり、祭神は三柱ありますが、宮司家の言い伝えでは諏訪神だといいます。
千葉県の國吉神社は伊甚国造と関連した神社で、主祭神は諏訪神です。
伊甚一族は各地に隠された諏訪神を祀っており、その后神は豊玉姫であるとする伝承もあります。

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系図は各家の思惑で改竄されたものが多く注意が必要ですが、

「対馬において、神門系、中臣系、草部吉見系が混じり合ってそのルーツがあるのは、貴重なことです」

と、B女史さんから教えていただいたこの流れは、非常に興味深いものです。

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さて、鹿々本神社の本殿裏は山の氣配濃い、岩壁となっていました。

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この雰囲気、

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神門家の聖地、出雲の御陵神社に近いものを感じます。

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赤稲の種を対馬にもたらした、白鶴とは誰なのか。
白鶴で思い浮かぶのは、石見物部神社で祭神を運んできたのが鶴だという伝承。
そして先日お会いしたアシュラさんは、阿蘇・国造神社(雨ノ宮媛)の裏神紋は鶴だとおっしゃっていました。

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さらに伊甚国造の支配域に鎮座の、千葉の物部聖地「玉﨑神社」社殿にも、鶴の彫刻を見ました。
鶴と龍宮の亀。
鶴をトーテムとする一族もいたのでしょうか。

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鹿々本神社の横は谷になっており、

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滑り台やブランコがあるのですが、

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人形の飾りが壊れてて、コワい。。

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奥の方からは、なんとも言えない恐ろしき氣配が流れてくるのでした。

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2件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    いじみの、という語感ですが五十公野とも書きます。五條先生が行かれた新潟の赤谷の廃線の新発田市側にその地名があり、公園の名になっています。

    さて、北部に安房国、南部に淡路国の配置において諏訪信仰とのお話な訳で、そこに鶴を持ち込んだのは神門か、もしくは石見の物部氏の様な風に見えて興味深い気がしています。

    更に北部には千鹿頭神のエリアがあり諏訪からの祭司のつながりが感じられます。

    私見ですが、我々が思ってる南方は本当は物部氏(逆賊なので諏訪から出ない事になった)の事であり、ミシャクジが本来の諏訪氏ではないかというワタシの妄想ですが、千鹿頭が後に諏訪祭司化していたとしたら、会津姫と叢雲の関係が、まさに諏訪と叢雲の関係にそのまま当てはまる気がして来ます。

    これが後年に四国に里帰りして叢雲と会津姫のセットでの祀られ方になったのかもしれませんね。

    神門家は、東はホヒシールド、西は三女神シールドをしたのでしょうか?三女神が全員九州にいたわけではありませんでしたよね。

    ただ、菅原天満宮に珍しくホヒも居るので単純な構図ではない気もしますが。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      五十公野、五十猛にも似た綴りですね。
      南方は物部だったのではないか、となれば、守屋云々の流れにも新たな解釈ができそうですが、そうなれば物部とは一体何なのか、となってしまいます。
      複雑ですね。

      いいね

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