
阿蘇山のギザギザ顔の山は「根子岳」(ねこだけ)。
「根」は異国人を表し、「子」は貴人を表すのだと。
そして顔とおっぱいの間を繋ぐ尾根を「日ノ尾峠」と言います。
「尾」は王を意味し、つまり「日の王」であると。

「古墳に登ってみる?」
とアシュラさんに誘われて、登ったのは「豆塚」と呼ばれるものでした。

高森町の街中から、ちらりと見える小さな丘です。

てっぺんに大きな木が1本植っており、ルックスもキュート。

れっきとした古墳で、史跡となっていました。

アシュラさん曰く、この標識は以前はなかったそうで、最近整備されたもののようです。



熊本県阿蘇郡高森町に鎮座の「高森阿蘇神社」(たかもりあそじんじゃ)を訪ねてきました。

境内には三叉の花が咲き誇り、

阿蘇・南郷檜(なんごうひ)の母樹が林立する美しい社です。

日本の大半のヒノキは、実から種を採取して育てる実生で、雄花と雌花の受粉によって発芽するため、遺伝的に母樹の特性、 樹形をそのまま引き継ぐことは不確定となります。
ヒノキは挿し木はできないと考えられていましたが、昭和31年(1956年)、九州大学の調査グループにより 全国でも唯一の挿し木品種が高森町で発見され、「南郷檜」と命名されました。

高森阿蘇神社に現存する南郷檜は、遺伝的に母樹の特性を引き継ぐことができ、すべてが御神木のDNAを持つ貴重なヒノキとなります。

当社祭神は、「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)、「阿蘇都姫命」(あそつひめのみこと)となっており、相殿に「国龍命」始め十二神を祀っています。
高森町の総産土神で、高森発祥の地と云われています。

元々は神社後方の宮山の中腹、

大きな桜の木がある場所に鎮座していたといいます。
約400年前に、現在の場所に奉遷されました。

現在の社名は明治以降に変えられたもので、元は「矢村社」(やむらしゃ)、「矢村大明神」と称されていたとされます。

由来としては、次のような話が伝えられます。
健磐龍が阿蘇に下向した時、湖水であった火口湖を乾かし、阿蘇山から南北に向って矢を放ちました。
すると、その一矢は阿蘇神社の鎮座地に落ち、もう一矢はの南の大石に当り、一寸余の鏃(やじり)の跡を残しました。
健磐龍はその大石を「御矢石」(みやいし)とし、宮居を定めたことから「矢村社」と称されるようになった云うことです。

アシュラさんは事前に、阿蘇神社門前街に鎮座する「矢村神社」にも案内してくれていました。

そこも、高森阿蘇神社の由来のとおり、健磐龍の館跡だと記されていました。

これは何を言いたいかというと、阿蘇神社の創建は1850年であり、高森の矢村社の由緒は、それ以降に阿蘇から持って来た嘘歴史であるとのこと。
高森に矢村という地名は存在せず、高森神社の周囲には「宮」の字名(あざな)が有るのだ、とのことでした。



高森阿蘇神社の境内の隅に、御堂があります。

中には小ぶりな仏像が収められており、ここがかつて寺であったことを物語ります。

仏像の一つ、ハイカラなお兄さんの上に掲げられた

これ。
ここにも矢村の文字がありますが、

大事なのはその下に消えかかっている「本地観世音」の文字の方だと、アシュラさんは言います。
「本地」(ほんじ)とは、仏・菩薩が人々を救うために神の姿となって現れた垂迹(すいじゃく)身に対して、その本来の仏・菩薩を指す言葉です。
つまり、高森阿蘇神の本来の姿は観世音菩薩である、ということなのでしょう。

僕はこの本地垂迹の考え方は、仏が神に背乗りしているようで、また、仏教が神道を下に見ている風も感じ取れて好きではありません。
しかし神仏習合を行う上では、外せない考え方になります。
実際、神仏習合期では、寺の方が強大な力を持っていましたから、その擁護を得られているというのは重要なことだったと思われます。

では、高森阿蘇神社の真の祭神は、誰だったのか。

高森阿蘇神社の表の神紋は、阿蘇神社と同じ「違い鷹の羽」紋となっています。
しかし裏神紋は、

「鶴」。
正式に鶴の神紋を掲げる神社は、熊本ではここだけだという話です。

鶴は、天鈿女(あめのうずめ)の神紋だと、アシュラさんはいいます。
天鈿女=多加利足尼タカモタリのアマ=高森
それが本当だとしたら、やはり母系の存在を感じざるを得ないのでした。



アシュラさんは、高森阿蘇神社の後、近くの墓地に連れて行ってくれました。
ここは個人の墓地ではありますが、

そこに2棟の古い墓碑があります。

これは、戦国時代に島津軍の深水摂津介を討ち取った津留大蔵の碑だとのこと。
津留大蔵は武田大和守元実の長子で津留姓を名乗っていました。

この津留姓は、土地の名前である津留村が由来であると思われ、高森阿蘇神社の裏神紋とも無関係ではないと考えられます。

さらにこの一帯は、弥生中期から後期の弥生集落遺跡「幅・津留集落遺跡」が見つかっています。
津留遺跡は、国内随一の巨大な環濠集落であった可能性が高く、希少な鉄器工具も出土しているそうです。
阿蘇地方では、先に紹介した「乙姫神社」と「赤水神社」の間に、弥生時代後期の「狩尾弥生遺跡群」が見つかっており、そこでは、周囲の遺跡に先立って大量の鉄器を集積した痕跡が見つかっています。
「狩尾弥生遺跡群」は優良な阿蘇黄土「リモナイト」が大量に産出されており、これは渇鉄鉱で品位は低いものの、製鉄原料になりうる可能性も示唆されています。
また、津留遺跡でも狩尾弥生遺跡群に先立って、鉄器工具の集積跡が見つかっており、 しかも集落の移り変わりが石器から鉄器への工具変遷を明確にしめしているということです。
そしてこのあと、アシュラさんが連れて行ってくれた場所で、僕は驚く光景を、目の当たりにしたのでした。

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