
「宮灘」とは、朝に見た、2艘の船が停められた港のことです。

神職がそれぞれの御船を祓い、波剪御幣(なみきりごへい)とともに分乗します。

そのあと、御棚に供えてあった供物を乗せ、小忌人以下順次分乗していきます。

最後に両當屋各々が分乗し、船上に設けられた垣根の中に入っていきます。

この垣根が「八重事代主は…船を踏み傾けて、青柴垣に天の逆手を打って、(水中に)お隠れになった」という古事記の話に合わせて設けられたものでしょうか。

「青柴垣」とは、美保の海上にある聖域を示すようで、船はこのあと、本来であれば灘を離れ、その聖域で秘儀「御船ノ儀」が執り行われるはずでした。

ただ現在は高齢化のため、灘に船付されたまま、御船ノ儀を行っているようです。

忌み船が悲劇の海上をめぐる様子も見てみたかったですが、仕方ありません。
青い空にはうっすらと、淡い月が浮かんでいました。

太田政清がこの秘儀に、何を仕込んだのか、残念ながら僕には知る由もありません。
しかし富家では、事代主の悲劇を、次のように伝えていました。

『出雲王家の重臣となっていた渡来人のホヒと夕ケヒナドリは、出雲王たちを案内して帰って来たあとは、何も話さなかった。
ひと月ほど後に、出雲王たちがいなくなったのはホヒ親子の仕業であると、海童の1人が自白した。
神門家がヤチホコ王を探し出した時は、王は猪目洞窟に幽閉され、枯死していた。
一方、富家がコトシロヌシを探し出した時には、かれは栗島の裏の洞窟に幽閉され、ヤチホコ王と同じように枯死していた』
大国主・事代主のご遺体が見つかったのは、彼らが行方不明になったあと、1ヶ月も経ってからのことでした。

栗島については、『伯者国風土記(逸文)』に、次のように書かれています。
『粟島。相見の郡。
郡家の西北に余戸の里があり、粟島がある。
少日子の命(コトシロヌシ)が、栗をおまきになられた時、粟の実が穂いっぱいに実って落ちた。
その栗柄に乗ったらはじかれて、常世の国へお渡りになった。
それで、粟島という』
これは、大国主と事代主が上陸を許し手厚く保護した童男童女(粟の実)にはじかれて、常世に行く羽目になったことを表しているのでしょうか。

御船ノ儀が終わった後、當屋を宮灘まで迎え出たのは、サルタ彦ではなくアメノウズメでした。

御船に舞を奉納に来た田楽と呼ばれる巫女は、喪に服すように、顔を隠しています。

御船ノ儀は秘儀のため、詳しいことは分かりませんが、美保神社の公式サイトに、少しだけ紹介されていました。
『二艘の御船が宮灘から離れ、最も尊い神域である「青柴垣」に近づきます。そして、これまで続いた精進潔斎を経た両當屋は神がかり状態になり、その体に神霊を戴きます。ここで、當屋は船内において「生き化粧」へと化粧を塗りかえます。 また、御船には御棚の供物や波剪御幣、帰殿行列で用いる祭器なども載せ、ご神徳を戴きます』

御船の垣根の中で、何が起きているのか。
中から戻って来た田楽は、その姿を一変させていました。

田楽は地に足を付けているので、「人」です。

祭りの最中で教えていただいたのは、「神様は地に足を付けず、宙に浮いている」のだと言うこと。
故に、おんぶされた供人(ともど)は「神霊」ということになります。

そしてなんと、これまで「人」であった小忌人(おんど)は、「神霊」となっていました。



宮灘での儀を終えた一行は、列をなして帰殿します。

朝9時から、陽が傾く夕刻までの神事。
青柴垣神事の中で、最も重要だとされる「奉幣の儀」が、このあと本殿で行われます。

先頭を行く田楽とササラ子は、清め払いの役割を担います。

そして、ここにきて大いなる疑問。
なぜ、當屋の妻君・小忌人は、御船の中で神霊と化したのか。
小忌人は、古くは「大齋人」と書いたということで、本来は當屋と同じく断食・潔斎を行って神事に臨み、神懸かりをしたのかもしれません。
この小忌人が、御船垣根内で「人」から「神霊」へと変わる様を、僕は最初、妻君が後追いをしたのかと思いましたが、すぐに考え改めました。
ヌナガワ媛も、ミゾクイ媛も、後追いはしていないからです。
ではこの変化は、何を表しているのか。

黒い着物の女性の頭に乗っているのは、綿の被り物で、雲を表しています。
小忌人は、より天高い場所にあることを表しています。
より天高いところにある御魂、それは穢れなく天寿を全うした御魂を表しているのではないでしょうか。

事代主のご遺体が見つかったのは、失踪から1ヶ月ほど経ってからのことでした。
葬儀が行われたのも、そのくらい経ってからのことではなかったでしょうか。

青柴垣神事は、この葬儀の情景を再現しつつ、しかし時間的に噛み合わない、事代主が拉致され死に至る場面も合わせ演じられています。
小忌人の神霊化、二つの時間、それを考えた時に、僕はひとつの答えが見えた気がしたのです。
帰殿行列参進の際は、田楽(巫女)と共に、ササラ子たちが「天烏」(てんがらす)という独特な所作をしながらお祓いをしていました。
天烏とは、八咫烏のことでしょう。

帰殿の途中では、”神懸かり状態となった當屋が触ったものには非常に「おかげ」がある”という信仰から、當屋が手に持った扇を授かる人だかりができます。

この白い扇がそうですが、

通常は「日の丸の扇」を頂くところ、僕が頂いたのは、真っ白な扇でした。
常世からのお計らい、ということでしょうか。

神門へたどり着いた當屋は、化粧直しされます。

非業の死を遂げた事代主と、死に目にも会えなかった妻君。
古事記・日本書紀でも、この夫婦の仲は隠され、全く別の夫婦とされてきました。

長らく重なることのなかった2人の時間。
その時間が、元禄期に、ようやくひとつの神事として重ね合わせられることになりました。
それを成したのが、太田政清という人です。

それはおそらく、美保関に住む向家(富家)の長年の願いだったのだと思います。
サイノカミを奉する出雲族にとって、尊い夫婦の御魂が、悲しみのまま別れ別れになっていることが、どれほど辛かったことか。
神霊となりゆく事代主の時間と、人である妻君の時間、その二つの時間を一つの雅な京風の祭りとして仕上げ、御船の青柴垣の秘儀の中で二人の時間を完全に重ね合わせた、その大魔術師が太田政清だったのではないでしょうか。

秘儀の中で、人であった小忌人の時間は繰り上げされ、天寿を迎えて神霊となった時間へと変えられた。
そこで、ようやく二人は、夫婦のサイノカミへと成れたのです。

島根の半島の先端の小さな港町・美保関で、後継問題に悩まされながらも厳しい戒律の神事を、今も粛々と続ける氏子の方々。
そこには、「出雲王の血を引く人々が、事代主を忘れないように、との思いで始めた神事」であることは間違いないのですが、それ以上に大切な何かを守ろうとする、想いを感じ取るのです。
よくぞ今日まで残して頂いた、その感謝の気持ちが溢れてきます。

拝殿では、青柴垣神事の最重要儀式「奉幣」(ほうへい)の儀が執り行われていました。

奉幣とは、拝殿に於いて、神懸かり状態の當屋が御幣を左右に奉ることによって、本殿に鎮座する大神さまがその神霊を新たにする、という儀式です。

つまり、御船ノ儀によってサイノカミへと昇華された夫婦の御魂を、神前へお返しし、一年の神霊を新たにするのです。
奉幣がおわると、當屋はようやく神懸かりの状態から解放され、朝9:00頃より続いた瞑想が解けます。

このあと、「みくじ」によって新しい當屋2名が選ばれ、神霊を返された本殿の御扉が閉じることになります。

「でもやっぱり、男性の當屋に宿った神が、女神の神殿に返されるのはおかしい、納得いかな~いっ、ぷんぷん」
と、どこかの天の方から、天女さんの声が聞こえて来ました。
そう、なぜ當屋が二人いるのか、當屋に宿る神は本当に三穂津姫と事代主なのか、という疑問が残ります。

奉幣に至る當屋は、サイノカミとなっているので、妻神に御魂が戻るのは問題ないと思います。
しかし當屋が二人いる理由は何か。
僕は最初はそれを、受難に遭った事代主と大国主のお二人を表しているのだろうか、と考えましたが、ここで思い出しました。
三穂津媛の夫「大物主神」は、一般には大国主の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)とされていること。
すなわち、二人の當屋に宿る神は、事代主の幸魂と奇魂ではないでしょうか。

そうであれば、両當屋の脇にいる小忌人は、おひと方はヌナガワ媛で、もうひと方はミゾクイ媛なのではないかと思うのです。
美保神社と揖夜神社は、二人の后の深い関係性を物語っています。
実のところ、美保神社の神殿には、ミゾクイハウスも設けられているのです。

念願の参列が叶った2025年の青柴垣神事。
僕はそこで、向家末裔の人たちの願い、氏子の方々が厳しくも受け継いで来た想い、そうしたたくさんのものに触れていたのです。
そうして、サイノカミとして悠久の時の果てに結ばれた大いなる神の御魂によって、この小さな港町に、春が訪れるのでした。

なるほど大物主であれば納得です(*’-‘*)
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ですね😌
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