
五十鈴川駅から程近い、三重県伊勢市楠部町にやって来ました。

すぐそばを五十鈴川が流れ、神社の前には堀が設けられています。

社名を見てみれば、あれ?
「櫲樟尾神社」(くすおじんじゃ)とあります。

実はここは、僕が来訪した目的の神社ではありませんでした。
しかしまあ、せっかくなので、参拝しておきましょう。

当社は、八王子社に祀られた氏神の「櫲樟尾乃大神」(くすおのおおかみ)と『日本書紀』に記される田上社の「田上乃大神」(たのかみのおおかみ)を合祀した神社で、明治40年(1907年)に町内の樛木神社(樛木乃大神/さがりきのおおかみ)、上山神社・下山神社(大山祗大神)、月峯神社(月峯乃大神)などの4社が合祀されました。

このうち、田上神は、大和媛が天照大神を伊勢 内宮に定めるまでの仮宮となった「家田田上宮」(矢田宮、西の森)の神であり、楠部の産土神として尾崎(神社旧跡)に祀られ信仰されてきたとされ、当社はいわゆる「元伊勢」に相当するとの話があるようです。

「瀬織津媛はんと元伊勢はん、皆はんお好きどすねぇ」

「あんたはんの探してる神社は、あちらどすえぇ」

ああなるほど、こっちが大土御祖神社なのね、って分かるかい!

なんとまあ、秘密基地のように、櫲樟尾神社の境内の隣に入口がひっそりとありましたわ。

しかしね、一歩中に入ると、なんと素晴らしい演出であることか。
このキラキラ感、スピリチュアリストでなくとも、キュンときちゃいます。

ここ「大土御祖神社」(おおつちみおやじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の摂社で、内宮末社の「宇治乃奴鬼神社」(うじのぬきじんじゃ)も同座しています。

大土御祖神社の祭神は「大国玉命」(おおくにたまのみこと)、「水佐々良比古命」(みずささらひこのみこと)、「水佐々良比賣命」(みずささらひめのみこと)の3柱で、いずれの神も「国生」(くなり)の神の御子であるとされます。

ミズササラヒメは『伊勢国風土記』逸文で伊勢国造の祖・天日別命の妻とされ、ミズササラヒコは夫の天日別命と見られます。
また、ミズササラヒメは伊勢津彦の娘とされ、ヒメの子・彦國見賀岐建與束命は「度会国御神社」の祭神とされています。
天日別はアメノミナカヌシの子孫とされ、物部東征に従って紀伊国熊野村に到り、さらに金烏に導かれて菟田下県に到ったとされます。
『伊勢国風土記』逸文によると「天津の方に国が有る。その国を平けよ」と勅命に従い、東方数百里の邑に到ると、そこで伊勢津彦と出会ったとされます。
その時の様子は、次のように記されます。
天日別が「汝の国を天孫に献上するか」と問うと、伊勢津彦は「吾はこの国を求め居住して久しい。敢えて命令を聞かない」と答えた。
そこで、天日別は兵を起こして伊勢津彦を殺そうとしたため、伊勢津彦は恐れて「吾は国を悉く天孫に献上しよう。吾は敢えて居ることもない」と言った。
これに対して天日別は退去する証拠を求めたため、伊勢津彦は「吾は今夜を以て八風を起こして海水を吹き、波浪に乗ってまさに東に入る。これが即ち吾が退いた由である」と答えた。
天日別は兵を整えてその様子を窺うと、夜間に大風が起こって波を打ちあげ、太陽のように光り輝いて陸海が共に明るくなり、波に乗って東へ去った。
天日別は平定を復命すると、初代天皇はこれに大変喜んで「国は国神(伊勢津彦)の名を取って伊勢と号せ」と詔した。

この話の、負かした相手の名前を土地の名にした、というのも変ですが、天日別は負かした相手の娘を妻にしたということになります。
負かした相手の娘を妻にするというのは、古代に平定のため、たびたび行われていたようですが、母系で考えると、『まんまとしてやられてるじゃんっ!』って僕は思ってしまいます。
負けたふりして娘を差し出してお家を乗っ取るという、巧みな政治的手腕です。
出雲族もしたたかね。

大国玉は豊受大神宮(外宮)摂社の「度会大国玉比賣神社」にも祀られ、同社にはミズササラヒメも祀られていました。
大国玉とは、土佐の「天石門別安国玉主天神」の「天石門別神」(あまのいわとわけのかみ)のことではないかと、僕は考えています。

また、宇治乃奴鬼神社は、旧社地を水田の中にある小さな森「皇女の森」としています。
祭神は大水上命(おおみなかみのみこと)の子である「高水上命」(たかみなかみのみこと)とされ、灌漑用水の神であるといいます。
皇女の森には、斎王「稚足姫皇女」(わかたらしひめのひめみこ)の悲劇の物語が伝わっていました。

それともう一社、大土御祖神社の奥には内宮摂末社の「国津御祖神社・葦立弖神社」が鎮座していました。

国津御祖神社(くにつみおやじんじゃ)の祭神は「宇治比賣命」(うじひめのみこと)と「田村比賣命」(たむらひめのみこと)で、2柱とも国生の神の子だとされます。
葦立弖神社(あしだてじんじゃ)の祭神は宇治都比女命(うじつひめのみこと)の子であるとされる「玉移良比女命」(たまやらひめのみこと)で、宇治都比女は宇治比賣と同じであると考えられています。

大土御祖神社・国津御祖神社の神秘的な社地は「茶屋の森」と呼ばれていました。
