島根・隠岐島で急浮上したツマツヒメの存在感。
彼女の聖地を求めて、和歌山にやってきました。

延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳に記載される「都麻都比売神社」の論社が、和歌山市内には三社あるとのことです。
そこで最初に訪れたのが和歌山市平尾に鎮座の「都麻都姫神社」(つまつひめじんじゃ)でした。

が、この道、脱輪したら即、田んぼinだからね。恐ろしい。
社前にも駐車スペースがなく、少し戻って公民館にレンタカーを駐めさせていただきました。

しかもこの神社、

この参道とも呼べぬ道を登っていきます。

ヒ~っ!!
味わいある坂道をしばし登ると

どうやら着きました。

ポツンと一軒家のヒメハウスは、安心のコンクリート設計。
誰もいなくて寂しいね。

当社は『続風土記』に「妻大明神社」、『紀伊国名所図会』では「妻御前社」と記されています。

『続風土記』によれば、かつて境内は2町半あり、社殿も荘厳であったといいますが、天正の兵乱で荒廃。
羽柴(豊臣)秀長によって再興されますが、しかしその後再び衰微したといいます。

祭神は「都麻津姫命」(つまつひめのみこと)。
妻御前という社名からも、ここが式内社「都麻都比売神社」であったと主張されます。

それにしても、こんなにひっそりと祀られて、寂しげな媛神。
ここを訪れる人は、年にどれくらいいるのだろうか。

車を駐めさせていただいた公民館は、熊野古道の「平緒王子社跡」にあたるそうです。

『寛永記』によれば、正月朔日、10月初亥日、11月初巳日には伊太祁曽社人が出仕し祭祀を司っていたとのことです。
伊太祁曽神社の祭神・五十猛(いそたけ)は、ツマツヒメの兄神という設定ですので、少なくとも江戸三代将軍家光の頃には、当社がツマツヒメを祀る神社として公に認められていたということです。



和歌山市吉礼の「都麻津姫神社」(つまつひめじんじゃ)にやって来ました。

こちらも住宅街に鎮座する、素朴な神社。

有名どころの大きな神社も良いですが、こうした庶民に支えられた神社というのは、とても心が和みます。

情緒ある割拝殿を抜けると、

本殿を直接拝することができます。

都麻津姫神社は、左殿に五十猛命、

右殿に大屋津姫命を祀りますが、これは『日本書紀』『先代旧事本紀』にある兄姉妹神としての設定によるもの。

五十猛は徐福と高照媛の子で、大屋媛(大屋津姫)はアジスキタカ彦と御梶媛の子となり、この2人は正確には兄妹ではなく、神門系の従姉弟となります。
大屋媛は幼き頃に、高照媛のお世話係として西出雲の徐福の宮の傍に仕えました。
そして生まれた五十猛のお世話もすることになります。
やがて青年となった五十猛は、年上のお姉さんである大屋媛にプロポーズをしました。

こうして夫婦となった五十猛と大屋媛の子が、紀国造の祖である高倉下(たかくらじ)ですので、和歌山に彼が父母神を祀ったというのは分かります。

では、ツマツヒメはこの夫婦とどういった関係なのか、一体誰がどういった由来で紀伊国に祀ったのでしょうか。

当社の主祭神は「都麻津姫命」となっていますが、相殿には「吉礼津姫命」(きれつひめのみこと)が祀られています。

当社の由来として『本神社明細帳』には、この社は元々は「吉禮津姫神」(吉礼津媛)を祀るとあり、往古は神田も多く、境内も広く、社殿も壮麗であったといわれています。

しかし天正の兵火によって神宝・旧記などをことごとく焼失し、その後は衰廃してしまいました。
そうした中、元福善寺と云う別当があって、寛文年中に当社を式内社の「都麻都比売神社」として奉祭していましたが、明治期に「吉禮津姫神社」と改称させられたそうです。

旧吉禮(吉礼)村はかつて、東禮・西禮に分かれており、当社とは別に西禮に「吉禮津姫神社」と称する小祠があったといいます。
東禮・西禮は時として争う傾向にあり、これを憂いた当時の有力者が、二社を合祀して村を一つにまとめ上げたという経緯があると伝えられます。

当社境内の西側には、西禮の吉禮津姫神社の名残として、吉礼津媛を祀る小祠が鎮座しています。
昭和21年に本殿左右に五十猛・大屋津姫が祀られていることから、当社祭神は都麻津姫命であるとして「吉禮津姫命」と合祀し、現在の社名である「都麻津姫神社」となりました。

この小祠では「縄文時代から祀られている吉礼のお媛さま」と謳われていますが、吉礼津媛は出雲系の媛巫女、もしくは戸畔だったのでしょうか。

吉礼津媛=ツマツヒメという可能性も無きにしも非ずですが、よく分かりません。
謎が謎を呼ぶ、人はそれを底なしの「沼」と呼ぶようです。

