一書に曰く、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)曰く、
「韓郷の嶋には、是金銀有り。吾児の治める国に浮宝(船)有らざるは、よからず」
乃ち鬚(ひげ)髯(ほおひげ)を抜きて散つと、これ杉に成る。
又、胸の毛を抜き散と、これ檜に成る。
尻の毛は、柀に成る。
眉の毛は櫲樟(楠)に成る。
そして、その用途を定め、乃ち称して曰はく、
「杉及び櫲樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は瑞宮を為る材にすべし。柀は顕見蒼生の奧津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆能く播し生う」
とのたまふ。
時に、素戔嗚尊の子を、号けて五十猛命、妹を大屋津姬命、次の妹を柧津姬命という。
この三柱の神、また木種をよく分布した。
よって紀伊国にて祀られている。
然して後に、素戔嗚尊、熊成峯に坐して、遂に根国に入りましき。
-『日本書紀 卷第一 第八段 一書第五』-
和歌山市にある紀伊国一宮「伊太祁曽神社」(いたきそじんじゃ)を訪ねました。
参道一の鳥居をくぐってすぐ左に、「門神社」(櫛磐間戸神社)が鎮座します。
櫛磐間戶命(くしいわまとのみこと)は、天岩戸の門を守る神の一柱と伝えられます。
すぐに二の鳥居が見えてきますが、その反対側に
「ときわ山」と呼ばれる古墳があります。
鎌倉時代にはすでに盗掘されてしまってたらしく、中は空。
石室を見ることができますが、真っ暗なので電灯が必要です。
小高い山と化した古墳は上まで登ることもでき、石碑がいくつか設けられていました。
二の鳥居の正面は、この古墳の丘をぶち抜くように道が掘られています。
二の鳥居から足を進めます。
美しい太鼓橋の先に、社殿があります。
フレームに入りきれないこの社殿は「割拝殿」と呼ばれます。
広角で撮ってみました。
とても荘厳な造りです。
割拝殿の先に、静かに佇む本殿。
本殿は3棟。
中央に主祭神の「五十猛命」 (いたけるのみこと)、 別名「大屋毘古神」を祀り、
左脇宮に
「大屋都比賣命 」(おおやつひめのみこと)、
右脇宮に、
「都麻津比賣命」 (つまつひめのみこと)を祀ります。
日本書紀によると、高天原を追われたスサノオは、息子の五十猛と共に新羅に降り立ちますが、その地を気に入ることはなく、船で出雲国に移ったとあります。
そしてスサノオは、高天原から持ってきた木の種を五十猛とその妹、大屋津姫・都麻津姫に渡して、日本中にその種を蒔くように命じます。
彼らは九州から順番に日本中に種を蒔いて周ったので、国中は青山となりました。
一通り種を蒔き終わった三人は、最後に木の国(紀伊国)に降り立ちます。
このことから五十猛らは紀伊国に祀られることになったのだと記されていました。
確かに、この日本書紀の五十猛が木を植えたという内容は正しいと言えます。
父スサノオとは、支那秦国から日本へ渡ってきた徐福のことであり、彼は支那に自生する多くの植物の種を日本に持ち込んでいました。
五十猛も彼の造った「丹波王国」で、同じく木を植えたと考えられます。
しかし彼は全国を行脚していません。
彼は彼の王国で一生を終えるのです。
右脇宮の左側に、興味深いものがいくつか祀られています。
一つは五十猛の荒御魂を祀るという「氣生神社」。
そして「蛭子神社」(えびすじんじゃ)と「おさる石」。
古くよりこの石を撫でると首より上の病に霊験あらたかと伝えられる霊石であると伝えられますが、
蛭子社とともに祀られているあたり、古代出雲のサイノカミ信仰を彷彿とさせます。
今の蛭子神社は他の産土神も一緒に祀られているので、訳のわからない感じになっていますが、かつては単独で祀られる神社だったということ。
ここに祀られているのは間違い無く、事代主でしょう。
当地で祀られる五十猛神の別名が「大屋毘古神」というのが重要な手がかりとなります。
大屋彦、というのはつまり、母・大屋姫の息子「高倉下」(タカクラジ)を指す名前ではないでしょうか。
紀伊半島というのは、現代でも陸の孤島と呼べる、交通に不便な立地です。
まして往古の時代、丹波王国から大和葛城、そして紀伊国へと移り住まなければならなかった大屋姫と高倉下。
彼が仮に当地に神を祀ったとしても、それが追いやられた元凶の父・五十猛をここに祀ったでしょうか。
高倉下らは大和葛城で、大屋姫の弟である高鴨家「タギツ彦」に世話になったと考えられます。
高倉下の紀伊国入りに高鴨の一部の人も付き従ったのでしょう。
紀伊家と高鴨家は血縁関係があり、領地も近かったので、両者は結びついてやがて大和国内で大きな影響力を持つようになったと云います。
樹齢800年~1000年、昭和37年の落雷で燃えて枯死したという御神木を横目に進むと、
意味ありげに鳥居が建っています。
木製の扁額には「祇園神社」の文字。
そう、この先に祀られているのは、かのスサノオということになります。
参道の途中に鎮座する、やや大きめの磐座。
案内板によると、なんでもスサノオが天降った出雲の鳥上峯の磐を、ここに祀ったのだとか。
富王家が伝えるところによると、スサノオ=徐福が降り立ったのは五十猛の海岸であり、鳥上峯(船通山)ではありませんが、日本神話はそのように伝えています。
磐座から丘の先を見ると、神々しく社殿が建っています。
高倉下が父・五十猛を当地に祀ったとは考えにくいのですが、海家の大祖神スサノオ・徐福を、ここに祀ったというのはあり得る話です。
この一帯のぴりっとした空気は、ここが何かしら重要な場所であることを伝えているようでした。
さらに「御井の社」と案内板が置かれています。
矢印に従って社務所方面に戻ってみると、
鳥居がありました。
この先50mのところに、「いのちの水」と呼ばれる水が湧き出ていて、古来、病人がこの水を飲むと元氣を取り戻すと伝えられているようです。
そもそも、当社伊太祁曽神社の創建の時期については明らかでなく、社伝によれば、古くは秋月の「日前神宮・國懸神宮」の社地に祀られていたと云います。
垂仁天皇16年(B.C.14)、日前・國懸両神宮が「名草浜宮」から秋月に遷された際、旧社地を明け渡し、当社は現社地の南東約500mの「亥の森」に遷座したと伝えられます。
垂仁天皇と言えば、大和に物部王権を打ち立てた「物部イクメ王」になります。
その権勢も油が乗った16年に、紀ノ川河口一帯で慌ただしく行われた遷座劇。
これは一体何を示しているのか気になるところです。
「日前神宮・國懸神宮」の社地もとても素晴らしいものでしたが、しかしながら当地もなかなかなもの。
木の神・氣の神坐します聖地として当社地に決めた、当時の人々の思慮深さに頭が下がる思いです。
CHIRICO様
いつものことながら感心して拝見させていただいております。伊太祁曽神社も一之宮だったのですね。一之宮って、ひとつの国に一社だと思っていたのですが、和歌山で暮らすようになってから、当初は日前宮(日前神宮・國懸神宮)が一之宮だと思っていました。その後、丹生都比売神社も一之宮であることを知り、高野山に関係するからかなと勝手に納得していたのですが、伊太祁曽神社も一之宮だったとはCHIRICO様のブログを拝見するまで知りませんでした。紀の国って3社も一之宮があるのですね。
いつも初詣の広告で見るのですが、和歌山市内では日前宮、竃山神社、伊太祁曽神社がセットになって三社参りということになっているように思います。高野山にしてもそうですが、当地では「遠やの神さんほどありがたい」といわれており、近くにあるが故の不勉強、あって当たり前の神社仏閣ということで、あえて由緒を知ろうなんて人はあまりいないのではないかと思います。本当に強烈で良い刺激を与えていただきありがとうございました。それといつも私のブログ、応援していただきありがとうございます。
asamoyosi
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一之宮の選定基準というのは存外曖昧なもので、言ったもの勝ちのようなところがあります。
一応、「全国一の宮会」なんてものもありますが、僕にもどれほどの理由でどれほどの価値が「一之宮」の称号にあるのか、よくわからないところですね。
日本の神様はおおらかですので、あまり「こうじゃないといけない!」と決めつけず、感じるままに敬意を払うと良いのだと思います。
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