速川神社:常世ニ降ル花 石長雨月篇 番外

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せっかくなので、一ツ瀬川流域にある「速川神社」(はやかわじんじゃ)に久しぶりに立ち寄ってみることにしました。
こちらもかれこれ、12年ぶりの参拝ということになります。

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前はこんな石像、なかったよね。
速川神社も人気がでてきたってことでしょうか。

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速川神社の主祭神は「瀬織津比咩命」(せおりつひめのみこと)になりますので、彼女が入口でお出迎えをしてくれているわけですが、

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神社は川を渡った先の山の中腹にあり、ここから結構歩くんだよねー、どんまい。

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瀬織津姫は古事記・日本書紀には記されず、大祓詞などにその名が知られる禊祓いの姫神です。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて成立した『倭姫命世記』や『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮の「荒祭宮」祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述されているとのこと。
つまりアマテラスの荒御魂が瀬織津姫だということです。

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しかしこれらの書は、度会行忠ら、伊勢神宮の外宮神職が関与して作られたと考えられており、その信憑性には疑問が持たれます。
僕は瀬織津姫の正体は常世織姫だと主張するわけですが、AI様が『偲フ花』のたわごとを引用して、そうnari氏にご神託もうされたと聞いた時には、天地がひっくり返るほどたまげましたね。

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ただし、ここに祀られる瀬織津姫は、常世織姫ではない、と僕は考えています。

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当社創建は不詳ですが、由緒によると、瀬織津姫は天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のお供の一人であったとされ、新しい土地を求めて南下する瓊瓊杵に付き添っていた彼女は、速川の瀬で急流に足を取られ、亡くなってしまったと伝えられます。

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深く悲しんだ瓊瓊杵は、この地に祠を建てて瀬織津姫の御霊を祀り、それがのちに速川神社になったということです。

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ニニギ=物部イニエ王に、常世織姫が付き従ったとは考えられず、また彼女は次の代の豊彦の后となっていますので、この瀬織津姫が常世織姫であることにはなり得ません。

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では速川神社の祭神としての瀬織津姫は誰なのか、というと、禊祓いの巫女でイニエに差し出され、彼を日向に導く役目を負った、コノハナサクヤ=アタツ姫と同時代の姫巫女、
そう、設定としての、銀鏡の里のイワナガ姫ではなかろうか、と思うのです。

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川を渡って、梅林を通り過ぎ、

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ここから坂道をどんどん登っていきます。

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速川神社は奈良時代以前より祭祀されていた、との説も唱えられ、郷土史跡研究の大家「児玉実満」(こだまじつまん)が文政6年(1823年)に完成させた『日向国神代絵図』(ひゅうがのくにじんだいえず)にも、当時から祀られていた様子が描かれているそうです。

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速川神社は明治4年(1871年)に発行された県令「郷社定則」(ごうしゃていそく)に基き、明治39年(1906年)に「南方神社」(みなかたじんじゃ)に遷座され、境内社として祭祀されていました。
再び、現在の場所に遷宮されたのは、大正14年(1925年)のこと。

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祭神は、瀬織津比咩命のほか、「速開津比咩命」(はやあきつひめのみこと)、「気吹戸主命」(いぶきどぬしのみこと)、「速佐須良比咩命」(はやさすらひめのみこと)の祓戸四神すべてが祀られていますが、他の神は後付けで、本来は瀬織津比咩一柱のみを祀る社だったのではないかと思われます。

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当社はなぜか「願い事を一つだけかなえてもらえる」というふれこみで、県内外からの参拝者も多いのだとのこと。
ミステリアスな姫神に魅了され、彼女に想いを打ち明ける人は、ことのほか多いようです。

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とはいえ、瀬織津姫はこの一ツ瀬川で命を落としたとされているわけで、そこに「一願成就」を求めて参拝するのは、いささか気が引ける思いが致します。

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願わくば、彼女の御霊が清らかな川瀬の如く、常世にておだやかに鎮まられていることを祈るばかりです。

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そして額に汗が滲む頃、ようやく麗しき姫神の聖域が見えてきました。

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とても清らかな、瑞々しい聖地「速川神社」。

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こじんまりとした空間に、落ち着いた社殿が建っています。

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明治期には多くの神社が合祀され、元宮の所在が分からなくなった社は数知れずあります。
速川神社はよくぞ、ここに戻ってこられたものです。

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手水に水を注ぐ、細長いコケの塊は、龍神です。
石彫だと思いますが、もはや原型がわからなくなっています。

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当地周辺には、昔から男滝・女滝・蛇滝(へびのたき)などと呼ばれる七つの滝があり、龍神信仰の対象となっていたそうです。
飲用も可能な清らかな水は、祓い清めたもう、瀬織津姫の霊験を感じさせます。

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速川神社では、瀬織津姫の眷属が蛇体であるとされています。
修験の影響を感じさせる信仰ですが、サンカが関わっているのかも知れません。

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社務所でロウソクと卵を求め、

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ロウソクに火を灯し、神前に生卵を供えて祈ります。

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ロウソクに火を灯すのは、その灯りで僕の顔が、姫神によく見えるようにするためなのだとか。
ハローベイベー、君ってやっぱり、銀鏡のイワナガ姫なんじゃないかな。

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神社本殿の左側の奥にある滝が御神体だと思われますが、これは七つの滝のうちの「蛇滝」であると伝わっています。

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うねり流れる滝の姿が蛇のようだからか、あるいはここに棲みついていた蛇がいたからなのか。

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瀬織津姫は水神や瀧神、川神としての性質を持っているといいます。
人の穢れを早川の瀬で浄める姫神。

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当社の瀬織津姫が、銀鏡のイワナガ姫と同一の御霊ではないかと考える、もう一つの理由に、一ツ瀬川上流域の米良神社の伝承があります。
そこでは、ニニギに捨てられたイワナガ姫が悲嘆のあまり、川淵に身を投げたと伝えられていました。
祓いの女神とは本来、人が神になすりつけた穢れを、変若水で清める巫女神のこと。
銀鏡神社の祭神も速川神社の祭神も、荒れ狂う一ツ瀬川の神を鎮めるために、川底に身を供にした姫巫女の御霊なのではないでしょうか。

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速川神社が明治から大正にかけて遷座していたという「南方神社」(みなみかたじんじゃ)にも立ち寄ってみました。
僕の大好きな「入船」さんのそばにあります。

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当社の創建・由緒など全て不明で、祭神も不詳です。

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まあ、”南方”ですから、タケミナカタであると推察されますが。
当地の地名が南方で、速川神社の現在の鎮座地も南方です。

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僅かに伝わるものとして、旧称「若宮大明神」といい、棟札最古のものに弘安9年(1286年)9月のものがあり、その由来の古いことが推察されます。
明治初年までは上穂北大字南方の良須山に鎮座し、南方・穂北二村の産土神として村民の尊崇厚く、祭祀は近郷に例を見ないほど賑やかであったとのこと。

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古来より奉安する神面があり、これは神殿造営の時、白髪童顔の老翁が何処からかやって来て、神面を刻む事数日余。
神面は出来あがり、これを神殿に献じて再びその姿を顕さなかったといいます。
人々は伝えて彼を手名槌命足名槌命と言い、また「キンナラ様」とも称する、と。

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南方神社もサンカの関与を感じさせますが、速川神社を遷座したという境内社は取り壊されたのか、見つけることができませんでした。
そこにはただ、穏やかな時間と、香ばしいうなぎの焼ける匂いが漂っていました。

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