九十九里浜:語家~katariga~ 21

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『里人の われに告ぐらく 汝が恋ふる 愛(うつく)し夫(つま)は もみじ葉の 散り乱れたる 神名火の この山辺から ぬばたまの 黒馬に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫は会ひきと 人そ告げつる』(3303)
「里人が私に言うのよ。あなたが恋する立派な夫は、もみじ葉が散り乱れる三輪山の山辺から黒馬に乗って川の瀬を何度も渡り、その先で悲しそうに沈んでいたよと」

『聞かずして 黙然(もだ)あらましを 何しかも 君が正香(ただか)を 人の告げつる』(3304)
「そんな話、ああもう耳をふさいで聞かなければ良かったわ。あの人はどうして夫の様子を私に知らせてくれたのかしら、いらぬお世話だわ」

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2021年春、僕は朝日が昇る九十九里浜へ向かっていました。

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夜は「潮彩」さんで

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刺身定食をいただきました。

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豪華刺身8点盛りでこの安さ。

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さしみ太っとい。
そして濃厚な磯の旨味♪

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昼は橋本食堂さんで

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ジューシーなうなぎをぺろり。

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白焼きもいただいちゃいました♪

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さて、その合間の早朝、九十九里浜に降り立ちます。

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どこまでも続く白い砂浜。

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そこでは近づく僕に驚くこともなく、浜千鳥の群れが波打ち際で戯れていました。

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九十九里浜(くじゅうくりはま)は、千葉県東部の刑部岬(旭市)から太東崎(いすみ市)までに及ぶ太平洋沿岸に面する、日本最大級の砂浜海岸。
全域が千葉県立九十九里自然公園に指定されています。

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北側から旭市、匝瑳市、横芝光町、山武市、九十九里町、大網白里市、白子町、長生村、一宮町、いすみ市の5市4町1村にまたがり、その全長は66kmに及びます。

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日本列島に沿って北上する黒潮は、ここを境に離れる個所でもあり、弘文帝(大友皇子)妃の「耳面刀自媛」(みみもとじひめ)がたどり着いた海岸はこの東端にありました。

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九十九里の古名を「玉浦」(玉の浦)と言い、柿本人麿や太安万侶らにゆかりのある「和歌浦」の古名と同じです。
輝く朝日が映り込む九十九里浜は、まさにその名が相応しい。

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最後の望みであった妻・依羅姫(よさみひめ)との逢瀬も叶わず、失意の人麿の旅は上総国で終ることになりました。
大宝律令が作られ、藤原不比等によって流刑地として付け加えられたのが上総国だったのです。
人麿は音信山(おとずれやま)を越えた先の牛久の東側・石川地区に落ち着くことになります。

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人麿は刑に服する身ではありましたが、遠く離れた上総では多少の自由は許されたでしょう。
おそらくこの玉の浦に足を伸ばしたはず。
彼はこの果てしなく続く砂浜と荒波の先に何を思ったか。

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万葉歌の天才にして歴史の語り部・柿本人麿の人生は、時代の波・人々の思惑に翻弄され、この上総で終わりを迎えることになったのです。

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13件のコメント 追加

  1. 悠伎丸 のアバター 悠伎丸 より:

    今月、このブログを初めて拝見し、自分の体験から大いに共感するものをいただいております。まだ、ほんの数ページしか読ませていただいていませんので、これから深く拝読させていただきます。
    小職が兼務しております「大巳貴神社」(愛媛県今治市松木61)には、小さな神社にもかかわらず、千家尊祐宮司が訪れた跡がありました。また、愛媛県内至る所に「三嶋神社」が点在し、その多さには驚愕しました。さらに知人が大洲市の「少名彦名神社」(愛媛県大洲市菅田町大竹乙937番地2)の宮司を務めていますが、その裏山は古来から「スクナヒコ」の御陵とされています。王国最盛期に主王・副王ともども四国地方に遠征し、河川治水・灌漑・農地開拓・温泉開発(道後温泉等)等を行ったと思われる跡が多く、人手も大勢必要なことから(瀬戸内の交通利便性もあって)関西方面からも三島一族を伴って行脚したように思われます。実際、「あばれ川」として知られる「肱川」の治水事業は昔から必要、かつ困難であったと想像します。
    また、主に奉職しております「多伎神社」(今治市朝倉古谷乙47)には四国最大級の古墳群が存在し、「越智氏」を中心に多くの氏神も併祀されています。出雲の「多伎」との相関もあり、「瀧」でもあり、「伎(クナト)」でもあって、延喜式に登場するはるか昔からあったであろうと思われます。
    私は、「記・紀」~「神社庁」からではなく、「古神道」或いは「道真公の足跡を辿る旅」から真実の歴史を求めてこの道に入りました。「三嶋神社」(今治市町谷503)も兼務しております関係で先日、本家「三島鴨神社」の松井宮司にもお会いしたところ、ここ最近は同じような歴史観で訪問される方が多くなりました、と言ってらっしゃいました。愛媛県神社庁の長曾我部名誉宮司(松山市椿神社、元神道政治連盟会長)も、表向きの神社運営と実際は異なることをよく理解されていらっしゃいました。「記紀」の呪縛を解いて、より正しい方向の歴史を認識することこそこの国の新生に必要だと、1,300年をかけた「人麿」「道真公」の思いを実現したいと願っております。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      悠伎丸さん、いただいたコメントが少々迷子になっておりましたので、ご返信が遅れてしまいました。大変失礼しました。
      最近は、神社界でも、新たな風が吹いてきているように感じます。これからいろいろな新事実が、公表されてくるのかもしれません。
      最近では、阿波国に大きな勢力があり、出雲・海部・物部・諏訪・但馬そして豊などの各王家に后を出していた国があったのではないかと考えています。
      その一族は、四国の剣山を神奈備とし、白人神社や磐境神明神社に関係し、上一宮大粟神社や天石門別八倉比売神社を祀った一族。
      つまり、太古にイスラエルから逃亡した民族が、四国に流れ着いていたのではという仮説です。
      伊予国の越智族は、後世に物部族が流入しておりますので、それとは区別して僕は真祖越智族と呼んでいます。
      彼らは、年代的には出雲王国が初代ヤツミミ王によって建国された時期と近いように思われ、出雲王国と密接な関係があったのではないかと感じます。
      四国にオオナムチ・スクナヒコを祀る神社が多いのは、大国主・事代主を祀っているのでは無く、四国にも王・副王の2王政があったからではないでしょうか。
      越智族の常世織姫が、豊玉姫の息子・豊彦に嫁いでからは、この両者が非常に密接な関係になっています。九州にある安曇・水沼といった氏族は、この両者の姻戚関係から生まれた一族ではなかろうかと思われます。

      菅原道真に関して、面白い考察があります。よろしければご参考までに。

      童男丱女岩

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      1. 悠伎丸 のアバター 悠伎丸 より:

        『語家~katariga~』を詠むごとに深い淵に引き込まれていく自分があります。
        20代のころ、神田の古書店に端から端まで入り浸り、千・二千を超える歴史書・古文書を買い漁りましたが、その全てを凌駕する内容に戦慄を覚えます。「言葉」と「写真」の行間から二千年を超えるヒトの営み、愛憎を感じ、涙がとまりません。

        『阿波国に大きな勢力』~私は7年前まで海外に暮らしておりましたが、あまりにも日本のことを知りませんでした。外から見て初めてこの国の偉大さ、特殊性が客観的に見えてきたのです。そして東京に戻らずに故郷の広島県に帰り、近場の「山陰」「四国」に足を運ぶことが多くなりました。香港で出会った知人が四国に住んでおられ、深いお付き合いをするうちに、その方のご先祖様が、博多の「住吉神社」に広大な土地を寄進したこと。お爺様が現在の中央区港3丁目(現在のロワールマンション付近)に屋敷を構えていて、家の中から船を出して、お婆様が志賀島までよく漕いでいかれたこと。戦前、満鉄創設時に政府に資金がなく当時の額で一億円を出資されたこと。彼が小学校のころ(昭和30年代後半)、港・荒戸の小学校、福教大付属小の生徒を含めて数十人規模で、毎年バスで徳島県日和佐町を行き来していたこと。その家族は全員「海族」といい全国の「海神社」を信奉していて、お爺様が当主で「磯良神」から数えて75代目に当たる方だったということ。さらには代々受け継がれてきた秘宝の隠し場所まで聞いてしまいました。77代目(知人のお兄様)は厚生省に入省し、今は退官して日和佐町(現在は海部郡美波町日和佐)に住んでおられ、すなわち安曇族の現当主(姓は殿儀トノイソ、父方の実家は町役場前の浄光寺)。
        また、帰国後すぐに、人気ブログの執筆者であられる理論物理学者の井口和基氏の阿南市のお宅にお伺いした時、奥様が祖谷の三木家のご出身であられて、ちょうどアミシャーブの四国調査とその後の美馬市長のトンネル内交通事故が、剣山の機密情報の漏洩に関係しているのでは、という話題になりました。吉野川沿いに上り、祖谷地方の高地集落を初めてみたとき、仰るように「霊性の非常に高い、争いを好まない集団のクニがあった」ことを実感しました。その集団の性格が後世、落武者を受け入れる土壌にもなっているのではないかと思います。

        『イスラエルから逃亡した民族』~旧約聖書に洗脳されている世界では、ダビデ・ソロモン王以降の民族移動の歴史に焦点が当たっているようですが、そもそも両王にまつわる考古学的証拠がなく、バビロン捕囚以降の移動についてはある程度把握できますが、物的証拠からはエジプト第18王朝あたりの考古学資料の信憑性が高いと思っています。その頃のメソポタミア地方の都市名、部族名を調べると、古代の大王の和風諱号に反映されていると思われ、例えば、「ホオリ」や「ウガヤフキアエズ(アワセズ)」は典型的なメソポタミアの「フルリ人」の名で、豊王国は「フルリ系」の部族が古くから入植していた地域ではないかと思うのです。そして、AD20C頃メソポタミアでは「フルリ人」と「アマ人(アムル人)」の連合国家があったりして、だから九州でも(昔のことをお互いに知っていたからこそ)同盟関係が結べたのでは、と推測します。(朝鮮)半島のことが(日本)列島で反映されるように、DNAに刻まれている遠い過去のメソポタミアの出来事が、この列島でも時を経て繰り返されている、と思ってしまうのです。この仮説からは、イズモ族と同系統のエラム人が別系統でやって来て、四国の高地で人目を避けるように生活を営んでいたのかもしれません。(あくまで私個人の仮説です!)

        『越智族の常世織姫が~』~神社に江戸時代の古い文書が残っていて、地元の言い伝え等がほとんどそのままの形で記されています。ご指摘の視点から解読を進めてみます。道真公については少々長文になりますので、また次の機会に。

        とりとめのない文章になりましたが、お許しくださいませ。

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        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          悠伎丸さん、ありがとうございます♪
          僕の知識は、素人に毛が生えた程度のものなので、まず現地に足を運び、五感で感じ取れるものを頼りにこのブログを書いています。
          しかし根底にあるのは、富家に伝わる伝承で、これが残されていたからこそ、さまざまな考察が可能になっています。
          悠伎丸さんのように知識深い方に、さらに考証を重ねていただけると幸いです。

          イスラエル云々のあたりは、あまり深く探りすぎると良くない気もしていますが、四国には古代日本史を紐解く重要な鍵が眠っているのではないかと思っています。
          江戸時代の古い文書、とても興味深いですね。何か発見がありましたら、ぜひ教えてください!

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  2. 悠伎丸 のアバター 悠伎丸 より:

    『人麿は音信山(おとずれやま)を越えた先の牛久の東側・石川地区に落ち着くことになります。』という記述についてですが、「牛久の東側・石川地区」はおそらく現在の(茨城県稲敷郡阿見町石川)に相当するかと思うのですが、終焉の地とされている「音信山」の麓の高滝神社(市川市養老地区)とは場所が離れすぎていると思うのですが….。どのように考えればよいのでしょうか。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      悠伎丸様、コメントありがとうございます。
      ここでいう牛久・石川は、千葉県市原市の牛久・石川になります。高滝神社とは、直線距離にして5kmくらいでしょうか。
      確かに茨城県にも牛久・石川がありますね。紛らわしくて失礼しました😓

      高滝神社:語家~katariga~ 23

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      1. 悠伎丸 のアバター 悠伎丸 より:

        さっそくの返信ありがとうございます。地図で確認しました。やはり、一族のテリトリーで監視に安心できる場所を選んでたのですね。現在、四国道前(現在の今治市朝倉町)にて神職見習いをしていますが、このあたりの地名、神社名は出雲系のまる写しです。また、天智、斉明の足跡があったとしか思えない場所が多く、難波王朝並立時代に実際に行宮を建ててやや長期間滞在したのではないかと思ってしまします。もし、ヒントがありましたら御教示願います。

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        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          御神職の修行、お疲れ様です。
          朝倉なんていう地名は、天智、斉明女帝の痕跡を窺わせますね。
          僕は四国には、裏天皇家とも呼べる、大きな勢力があったのではないかと考えています。剣山には富家と同じ、剣の交差紋があり、四国西南部に点在する白王社は大己貴が祭神として祀られています。
          その辺りのことは、『白姫』シリーズで考察しておりますが、いわゆる一般の神社でお勤めされる方には、眉をひそめられる内容かもしれません。やはり国の前提としては、古事記・日本書紀があるわけで、富家の伝承などの歴史の裏を探るという行為は、あまり好ましいことではないのではないかと思われます。
          それはさておき、私の仮説が正しいとして、四国の越智族の表向きの拠点というものが、伊予国にあったようです。斉明帝が筑紫へ向かう途上、そこを素通りしたとは思えません。悠伎丸さんのおっしゃる通り、長期滞在した可能性は高いと思われます。四国という場所は、各王家と繋がりのある、不思議な所ですね。

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  3. さいとう よしみ のアバター さいとう よしみ より:

    こんばんは。師走ですね。
    浜辺の映像。心象風景でしょうか…。なんとも意味深な、儚いような美しさも感じました。

    本年は、本もいただきありがとうございました。仕事納めの時節なのでしょうか?。良い年の瀬をお過ごし下さい。

    追記
    由井正雪。やっぱり難儀ですね。
    山辺赤人。別件で昔、少し調べておりました。
    赤人ゆかりの地『東金』。『真行寺』の苗字を持つ方々も多いようです。
    苦い思い出も想い返しつつ、ブログを拝見しておりました。

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    1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

      さいとう様、こんばんは。
      返信が遅くなってしまいました。
      語家のシリーズも年内に完結できそうです。
      由井正雪はもう、数少ない情報で妄想を広げるしかなさそうです。書き出しからつまずいて、全く進んでいません。
      苦い思い出ですか、誰しもありますよね。
      さいとう様もご自愛されて、良い年をお迎えください。
      また来年もよろしくおねがいします♪

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  4. Enoble Asuquo のアバター AKwafrigeria より:

    Beautiful ❤️

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

      thank you♪

      いいね: 1人

      1. Enoble Asuquo のアバター AKwafrigeria より:

        You are most welcome ❤️

        いいね: 1人

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