「若の浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴きわたる」
万葉歌人「山部赤人」らを魅了した、和歌浦を訪ね歩きました。
「和歌浦」(わかのうら)とは、和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称です。
そこに鎮座する「玉津島神社」(たまつしまじんじゃ)。
今は普通に陸続きになっていますが、往古には水位が高く、島山があたかも玉のように海中に点在していたと云われています。
当社の鎮座地も、そうした島のひとつだったようです。
『玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため』(1222)
「玉津島、この絶景はいつまで見ていても飽きることがない。この絶景を何とかして手に包み込み、家で待っている人の手みやげに持って帰りたい」
この歌を詠んだ歌人は、藤原不比等の子・房前とも麻呂とも考えられています。
玉津島神社の祭神は「稚日女尊」「息長足姫尊」「衣通姫尊」の3柱に「明光浦霊」(あかのうらのみたま)を配祀します。
創建は社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まると云います。
また、神亀元年(724年)10月に聖武天皇は和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じたと伝えれられます。
冒頭の歌は、この時従駕した「山部赤人」によって詠まれたと伝えられますが、赤人が太安万侶であるとすると聖武天皇と赤人の重なりあう時代はかなりぎりぎりです。
聖武天皇は、和歌浦の眺めに深く感動し、次のような詔を発しました。
「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に『弱浜(わかはま)』の名を改めて『明光浦(あかのうら)』と為せ」と。
果たして天皇が明光浦と名を改めるよう詔を出したにもかかわらず、なぜ赤人はあえて「若の浦」と歌ったでしょうか。
それはさておき、玉津島神社の裏にある山は「奠供山」(てんぐやま)と呼ばれ、数分で登ることができます。
頂からは和歌浦全体を見ることができました。
聖武天皇が陽が射す美しさから「明光浦」と呼んだ景色はここにあったのでしょうか。
砂嘴(さし)が伸びるその姿は、天橋立を彷彿とさせます。
眼下には不老橋も見えていました。
奠供山の向かいにある「鏡山」、そこからの景色が冒頭の写真になります。
そして鏡山の麓に、「鹽竈神社」(しおがまじんじゃ)が鎮座していました。
鹽竈神社は、元は玉津島神社の祓所でしたが、大正6年(1917年)に独立した神社となりました。
洞窟となったこの場所は、かつて「輿ノ窟」(こしのいわや)と呼ばれており、浜降り神事の際に神輿が奉置される場所であったそうです。
浜降りとは毎年9月16日、高野山の地主神である丹生都比売神社の神輿が、紀ノ川に沿って玉津島神社まで渡御し、翌日に日前宮へと御行してゆく神事でした。
浜降り神事はその起源を古代にまで遡ると考えられていますが、鎌倉時代に一時中断、文保2年(1318年)に再開されるも戦国期に途絶え、近世には丹生都比売神社の鳥居外から玉津島神社を遥拝する神事として痕跡を残します。
祭神は「鹽槌翁尊」(しおづちのみこと)。
塩田の塩を焼く釜から名付けられたと云われ、古くから安産の守神として祀られてきたとされています。
鹽竈神社の窟入口には家庭円満の守り神として多くの人の信仰を集めてきた「和合の松」がありますが、本来の樹齢数百年の大松は平成24年6月に倒壊。
現在のものは挿し木によるクローン苗を使って植樹されたものだそうです。
鹽竈神社がある鏡山の岩肌は、曝れた木理のような結晶片岩でできており、伽羅岩と呼ばれています。
そこに干潟を見下ろすように立つのは山部赤人の歌碑。
また鹽竈神社の前には、紀州藩10代藩主・徳川治宝(とくがわはるとみ)が、徳川家や紀州東照宮の人々が通る御成道(おなりみち)として架けた「不老橋」(ふろうばし)があります。
この橋は、肥後熊本の石工集団が造り、雲の浮き彫りがある手摺り部分は、紀州湯浅の石工・石屋忠兵衛が造ったと伝えられています。
万葉の時代の和歌浦は、玉のように連なる6つの島山(妹背山、鏡山、奠供山、雲蓋山、妙見山、船頭山)が潮が引くと陸続きになり、満潮時には海に浮かぶ島となったといわれています。
その風光明媚な景色が「玉津島六山」と呼ばれ、愛しまれてきました。
今は三段橋と呼ばれる県内最古の石橋で繋がる「妹背山」(いもせやま)だけが、島として海に浮かんでいます。
古人らが愛した和歌浦の景色は、自然の変化や近代の観光化、そしてその廃退から見る影もない有り様となっています。
一時は巨大な廃墟物件を抱えていた和歌浦は「廃墟の聖地」と揶揄されるまでになっていましたが、2005年以降これらが軒並み撤去され、少しずつ往来の美しさを取り戻す試みがなされているそうです。
持統天皇の行幸に従駕した柿本人麿は、この和歌浦へ遅れてくる妻・土形娘子と夜に逢えることを期待していました。
しかし禁断の恋をした彼は、そこで現実の厳しさを思い知ることになります。
人麿が宮女の土形娘子と夫婦であることは知られてはならない秘密であり、位が低い彼が娘子に会う許しが出ろうはずもないのです。
『わが恋ふる 妹は逢はさず 玉の浦に 衣(ころも)片敷き 独りかも寝む』(1692)
「私が愛する妻と逢うことを許されず、玉の浦で片敷の着物にひとり寝るしかないのだろうか」
『黒牛潟(くろうしがた) 潮干(しほひ)の浦を 紅の 玉裳裾引き 行くは誰が妻』(1672)
「潮が干いた黒牛潟の浜を、紅の美しい裳裾を引きずって歩いていくのは、いったい誰の妻だというのか」
人麿はただただ、高位の男に誘われて仕方なしに付いて行く土形娘子の姿を、陰から見送ることしかできなかったのでした。