日本最大級の砂浜海岸「九十九里浜」の東の果てに、藤原耳面刀自の墓と言い伝えられる場所がありました。
千葉県旭市に鎮座する内裏神社(だいりじんじゃ)は、弘文帝(大友皇子)妃の「耳面刀自媛」(みみもとじひめ)を祀る神社です。
672年の壬申の乱において最初に活躍したのは、太臣品治(おおのおみほむじ)が率いる軍隊でしたが、彼は太安万侶(おおのやすまろ)の父であったと云います。
7月に近江京が陥落して戦いは終わり、東国に逃れた大友皇子追討の総指揮に、太臣品治が任じられました。
太臣品治は上総の国に着くと、自分を山部王の軍勢だと名乗ったと云われています。それは近江軍の山部王の名前に似せて、近江の軍勢が逃げて来たと思わせる意図があったと考えられます。
大友皇子を油断させるためなのか、この時から、太臣品治は山辺を名乗ることがあったといいます。
上総国に下向した大友皇子は、数千の官軍に包囲され、もはや逃れられないと観念し、上総国望陀郡俵田で自害しました。
一方、妃の藤原耳面刀自を乗せた船は、常陸国の鹿島へ向かって逃れることにしました。彼女を乗せた船は途中で嵐にあい、九十九里の野手浜に漂着したと伝えられます。
社伝によると、野手の内裏塚浜に漂流した耳面刀自媛は不幸にもそこで病没し、従者などが媛を葬り墳土を築いたと記されます。
妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に野手の墳土の一部を移して、引き続き祀ったのが現在の内裏神社と云われます。
耳面刀自媛については、『日本書紀』『藤氏家伝』に全く記載が無く、その実在性も疑問視されていますが、『本朝皇胤紹運録』及び『懐風藻』によると、鎌足の娘で大友皇子妃となった人物がいたのは確かのようで、藤原氏の栄華のため、彼女の記録は消された可能性が濃厚です。
しかし彼女の最後は、まことに哀れであったのか。
千葉県旭市大塚原、住宅街の一角に「大塚原古墳」(おおつかはらこふん)があります。
当墳は、全長約10mの円墳とされますが、耳面刀自媛の陵墓であると伝えられます。
野手海岸で病死した耳面刀自媛は従者の中臣英勝(なかとみのあかつ)らによって葬られ、その墓は「内裏塚」(だいりづか)と称する古墳であったとされています。
内裏塚は、圃場整備によって現在は消滅していますが、天慶3年(940年)に中臣英勝の8世の孫「中臣美敷」が改葬したのが大塚原古墳であると伝えられます。
明治24年、風雨のため古墳の一部が崩壊し、人骨・土器・「連金子英勝」と刻された石板などが出土しました。
更に昭和46年の調査時には約3体分の人骨が出土し、その骨に高貴な人物の埋葬に使われたとされる朱が付着していたのだそうです。
山部を名乗った太臣品治は、追討と平定の恩賞として上総の武社郡(武射郡)の一部を領地として与えられ、その領地は彼の名乗った氏名によって山辺郡となり、品治はそこの郡司となりました。その北に、耳面刀自が隠れて住んでいたという野手があります。彼女は藤原鎌足の三女でした。
耳面刀自媛のの漂着地が太臣品治の領地に近い所を見ると、太臣品治は彼女をかくまった可能性が高いのではないでしょうか。
耳面刀自は野手の地で一生を終え、丁重に埋葬されたのでは。
内裏神社では、耳面刀自が都から持参した日月の錦の御旗が神宝とされたのだと伝えられます。
太家には出雲の血が流れていたと伝えられていますが、出雲人は母系社会民族でおおらかで、人の命を大切にしました。
その血筋が藤原耳面刀自の命を救った可能性は高いと、彼女の墓前に立つ僕には思われたのでした。