
元和2年(1616年)、徳川家康が死去した。江戸に幕府を開き、260年間の太平の世を築いた家康公は、晩年を駿府にて大御所として過ごし、遺命によって久能山に埋葬された。


まあ、一度は久能山(くのうざん)を訪ねないといけないよな、と思い立ち、3回目の静岡旅でようやく足を向けました。

静岡の宝は、日本一の富士山と、日本一の駿河湾。

さわやかな潮風に背中を押され、参道を行くのですが、

行くのですが、

行くのですが、、、きっつ。。。

聞いてないよ、こんな階段。

久能山の標高は216m。北側にある日本平とともに、太古の海底隆起によって形成されました。

その後、長い年月の間に浸食作用などによって硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となったということです。

表参道から続く石段は、1159段。
久能山とは、苦悩山のことだったか。

上昇負荷に耐えきれず、僕の毛穴からスライム状の何かが生まれようとする頃、ようやく一ノ門が見えてきました。

この一ノ門を背に振り返れば、

爽 ☆ 快 ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

海の宝石たちがそよ泳ぐ、駿河の海が広がっておりますぞ、殿!
僕の大チュキ桜えびタソも、ここから獲れます。

桜えびは日本では、静岡の海でしか獲ってはいけないのだそうです。シーズンは春と秋の年2回、その時に現地でいただける朝獲れ生桜えびはもう、絶 ☆ 品 ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

ヒ~、まだ登らせるんかい。

して、ようやくだどりつきましたな。

訪ねたこの日は12月でしたが、全身から緑色の粘液を吹き出しながら、僕は受付で拝観料と御朱印帳を渡します。

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、静岡市駿河区根古屋の久能山山頂に鎮座する神社です。

久能山の歴史は、推古天皇(592年- 628年)の時、秦氏の末裔とされる秦久能忠仁が、「補陀落山(ふだらくさん)久能寺」を建立したことに始まります。

その後、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめました。
往時は330もの坊が建ち並び、誠に隆盛であったそうですが、嘉禄年間(1225年頃)の山麓の失火によって類焼、昔の面影はなくなってしまいます。

永禄11年(1568年)、駿河侵攻で駿府を制した武田信玄が久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し、ここに久能城を築きます。
しかし、甲州征伐による武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入りました。

これな~んだ。

家康は、将軍引退後、大御所として駿府に在城します。その時、「久能城は駿府城の本丸である」と久能山の重要性を説いたと伝えられます。

天文11年(1542年)12月26日、三河国(愛知県)の岡崎城で生まれた家康は、幼少のころより人質として日々を送ります。

戦国時代の混乱は彼の人生に、さまざまな艱難辛苦を与え続けましたが、それにずっと耐え続け、遂には天下を統一し征夷大将軍の座に就きます。
時には、武田に密通したと疑いをかけられた嫡男の信康に、信長の命で、自ら妻の築山殿共々処刑するということもありました。
「鳴かぬなら、鳴くまで待とうほととぎす」その歌には、あまりに重い意味が含まれているのです。

そうした人生の終盤において、家康が久能山を重用したのは、城の要害としての立地ばかりではなかったのでしょう。

日本平と美しい駿河湾を望むこの地に、彼の心の安らぎ、神性を見出したのかもしれません。

久能山東照宮の社殿は、当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」で、日光東照宮を始め全国の東照宮は久能山東照宮が原型とされました。



久能山東照宮から裏手に回ります。

そこに徳川家康公の霊廟があります。

家康は元和2年(1616年)4月17日に75年の生涯を終えます。

その亡くなる直前、余命いくばくもないことを悟った家康は、家臣たちを呼び、「遺骸は久能山に埋葬すること」と遺命を託します。

公の遺骸は遺命の通り、ただちに久能山に遷され葬儀が執り行われました。

その後、家康の遺骸は当地に埋葬され、2代将軍徳川秀忠の命で久能山に徳川家康公を祀る神社が造営されることになりました。

家康の遺命はもうひとつありました。日光山への神社造営です。
そこで日光山の東照社もほぼ同時期に造営が始まりました。

元和2年の家康死去の同年中に久能山東照宮はほぼ完成しますが、家康の遺骸は、翌年の元和3年(1617年)に天海僧正の手によって下野国日光に改葬されることとなります。
結果、家康死去の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われることになりました。

この改葬を命じたのは、2代将軍の秀忠だと伝えられていますが、果たしてそうなのでしょうか。
日光東照宮の造営を差配したのは天海でした。

日光東照宮は第3代将軍徳川家光の代における「寛永の大造替」で、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となりました。
家康の生前、家光は、秀忠と正室との間に儲けられた次男(竹千代)として知られていましたが、秀忠は三男の忠長(国松)を寵愛しており、次期将軍には彼を据えようとの思惑がありました。家光は廃嫡の危機を迎えていたのですが、この時、家康に直訴したのが、竹千代の乳母・春日局(かすがのつぼね・斎藤福)といわれています。
春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘で、身分の高い女ではありませんでしたが、何故か家康はこれを重用します。結果、家光が3代将軍に就くことになるのです。

将軍を継ぐ予定の者は、家康の一文字、「家」を受け継ぐのですが、果たして「光」は誰から受け継いだものだろうか。
家光の遺骸は、敬愛していた祖父、権現様のお膝元である日光の輪王寺にある大猷院に眠っているのですが、その墓はなぜか隣の慈眼堂を向いているのです。



なるほど、なかなか興味深い話ですね。
確かに日光は派手過ぎますもんね☺️
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稲葉家の情報源は先生です。
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自然と縁ができて、伝承が集まってくるみたいです。すごいですよね😊
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久能山東照宮・・・夏の日差しの厳しい日に訪問して汗だくになりながら歩い事を思い出します。
ここは元は城。でなもんで攻めるに難であるように築城された為、後の世の人達もここを訪問する際には一苦労させられる社なんだってばさ。
御足労様でしたw
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8まんさん、冬でも汗だくでしたから、夏など行く場所ではないでしょう💦
しかし登り切った後の爽快感は素晴らしい!
まあそうですよね、城ですもんね。毎日通勤させられた下級武士もたまりませんな。
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緑・空色・マリンブルー・朱色、このコントラストは最高ですね☆
高い所が好きなので、海を見下ろす景色は大好きです!! そして桜エビも笑
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けっして晴天ではなかったのですが、微妙に漏れ輝く陽光が幻想的でした。最高のローケーションですが、それを見るには登らなければなりません。。
まあ、ロープウェイもあるようですが。
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🧡
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♪
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