「久能山に納め、御法会を江戸増上寺、靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。」
― 徳川実紀(台徳院殿御実紀四十二巻)
元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府城で死去。
柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月(翌1617年1月)に久能山に東照社を創建した。
更に1周忌にあたる翌年4月17日(5月21日)、幕府は日光に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。
ついに僕は、日本265年の栄華「江戸時代」の創始者・大御所「徳川家康」公の眠る「東照宮」へと足を向けます。
昨夜から降り始めた雪のせいもありますが、当地の標高は東京スカイツリーほどもあるそうで、どうりで寒いわけです。
葵の御紋を見ると、つい「へへーっ」と頭を下げてしまう僕は、テレビの見過ぎです。
参道に構える高さ9.2mのこの石鳥居は、江戸時代に造営された鳥居の中で日本最大の規模を誇り、それ故「日本三大石鳥居」の1基として数えられています。
これは福岡藩の初代藩主「黒田長政」によって寄進されたもので、福岡県糸島市にある可也山から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られたと云います。
境内に入ると先に目を奪うのは、雅な朱色の五重の塔。
天からの贈り物、雪化粧の霊塔を感嘆の息とともに眺めます。
日光東照宮は、龍穴というエネルギーが溢れている場所とされています。
東照宮と二荒山神社を繋ぐ道は「上神道」と呼ばれ、エネルギーの通り道と云われています。
ここには、龍脈の生気エネルギーが溢れているのだとされており、歩いていると清々しい、軽い心持ちになれます。
日が当たると積もった雪が降りおちてきらきら反射し、とても幻想的な景色を見せてくれました。
いよいよ表門・仁王門をくぐります。
阿
吽の逞しい仁王が、邪なものに睨みを利かせています。
裏側は狛犬。
こちらも阿吽ですね。
きらびやかな社殿が立ち並びます。
この威厳ある日光東照宮は数ある東照宮の本宮となります。
大御所家康公のご威光を奉らんとする各地の徳川・松平一門大名家、また家光による諸大名への進言もあって、譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って社宮を建立、ついには全国で500社を超える東照宮が造られました。
その後、廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされます。
当宮の正式名称は「東照宮」のみとなりますが、他宮と区別するために一般には「日光東照宮」と呼び習わしています。
仁王門を過ぎてすぐのところに「神厩舎」があります。
神厩舎の壁には、猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、猿が馬を守る動物であるという伝承からここに用いられています。
この8枚の彫刻は、猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっています。
当宮で有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は、この中の1枚に過ぎません。
「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えであり、転じて「自分に不都合なことは見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えになるそうです。
江戸時代、というとどのような印象があるでしょうか。
僕らは学校教育の中で、「士農工商」に代表される身分差別社会が江戸時代だと印象付けられました。
その中で特に農民は虐げられ、時に一揆を起こしたのだと。
しかし江戸時代の士農工商は、いわゆるカースト制度のような身分差別ではなかったのです。
江戸時代は、総じて見れば平和で、理想的な社会だったそうです。
日本人として慎ましい、幸せな生活にあふれた時代だったというのです。
なるほど、人間の平和な一生の過ごし方を説いたというこの「猿の一生」の彫刻を見ていると、当時の人々の暮らしぶりが伝わってくるように感じるものです。
神厩舎の前を通り過ぎて手水舎手前で右折すると!
ため息のでる光景が広がっていました。
ここで思わず駆け出したくなるのですが、ちょっと立ち止まります。
鳥居の中心、手前端っこから3つ目の石畳。
なんの案内板もありませんが、ここが重要です。
この石畳、ここは「北辰の道の起点」と言われているパワースポットなのだそうです。
ここに立って正面を見ると、
ちょうど鳥居に、陽明門が綺麗に収まって見えます。
北辰というのは北極星を指し、北辰の道というのは北極星へ向かう道ということを表します。
その起点がここ。
日光東照宮は、陰陽道に即して建てられており、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られているということです。
その線の真南は江戸(現在の皇居)に至り、さらに主要な建物を線で結ぶと北斗七星の配置と寸分違わぬよう設計されているというのです。
「北辰の道の起点」とは四神相応の土地相であると云われています。
階段を上った先の聖域を結界とする玉垣には、裏側に、見過ごしてしまいがちの狛犬が鎮座しています。
逆立ちした姿が愛嬌たっぷり。
日光東照宮の代名詞とも言える「陽明門」(ようめいもん)です。
2013年度(平成25年度)から2018年度にかけて行われた「平成の大修理」で、創建当時のきらびやかさが蘇っています。
陽明門はおびただしい数の極彩色の彫刻で覆われ、一日じゅう見ていても飽きないことから「日暮御門」とも呼ばれています。
日光東照宮の全社殿には総数は5173体の彫刻があるとされますが、
そのうちの508体は陽明門にあるそうです。
これらの彫刻は単なる装飾ではなく、さまざまな象徴的意味を担っています。
鳥獣の彫刻は霊獣、霊鳥といった吉祥の意味をもつものばかりです。
人物彫刻は中国伝説や故事を元にしたものになりますが、特に正面に位置する彫刻には重大な意味があり、
正面中央の周公旦は理想の為政者像として、徳川家康その人のイメージを投影したものとみなされます。
陽明門裏の柱の1本は、12本の柱のなかで唯一上下逆さになっており「魔除けの逆柱」と称されています。
これは一箇所だけわざと完璧にせず、崩壊を防ぐという意味が含まれていると云います。
陽明門の先、神域に足を延ばすと、拝殿そして本殿が鎮座します。
拝殿内には正面右手の方から靴をぬいで上がることができます。
が、当然撮影は禁止となっていますので、拝殿の外から垣間見た写真のみ掲載します。
日光東照宮は、江戸幕府初代征夷大将軍「徳川家康」公を、「東照大権現」と神格化させお祀りするために、息子の2代目将軍「徳川秀忠」によって1617年に創建された神社です。
創建当初は簡素な造りだったそうですが、家康公の孫にあたる3代目将軍「家光」によって大改築が行われ、現在のような絢爛豪華な社殿になりました。
家康公は東照大権現として「御空殿」(ごくうでん)という逗子に祀られています。
その御神体は「位冠束帯」(いかんそくたい)という神職が神事に着用する服を着用した「等身大の家康公の像」だと云われています。
祈祷殿の先に、「奥宮」へ続く道があります。
そこの坂下門に彫られているのが、有名な「眠り猫」です。
眠り猫は実は寝ていると見せ掛け、家康を護るためにいつでも飛びかかれるよう踏ん張っているのだと云われていますが、また一方で、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほど平和である」ことを表しているのだとも云われています。
さて、ここから先はしばらく石の階段が続きますが、この道は「龍道」と呼ばれています。
舞い散る雪もあって、その先はかくも幻想的であります。
この龍道は、風水で言うところの龍脈のことで、強い大地のエネルギーが流れている場所とされます。
正に龍に導かれて冥界に昇るよう。
先ほどの華美だった世界とは一転して、侘びた簡素な世界に飲み込まれます。
大地の血管の先にある聖地。
東照大権現・大御所家康公の眠る奥宮へ到達しました。
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(静岡)で死去しました。
遺命により、遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年「久能山東照宮」が建てられました。
金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には
「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」
と遺言を残したとされています。
ご遺体は久能山東照宮にあるということですが、遺骨の一部が分霊され、ここに眠っているそうです。
この拝殿の裏手に、家康公の遺骨を納めた宝塔が鎮座しています。
奥宮宝塔は、風水においても龍脈が集中する、エネルギーの強いとされる場所に置かれているそうです。
ここは生気エネルギーの発生源と云われ、中でも真横と真後ろが強いそうです。
奥に見える断ち切れた杉は「叶う杉」と呼ばれ、宝塔と一緒に写った写真は幸運を招く縁起物として多くの人が写真に収めています。
ところで家康公は神になりえたのでしょうか。
古代出雲から大和王朝時代を旅してきた僕には、神と呼ばれるには、一定の要件が必要であると認識しました。
日本の神々は、自然崇拝と先祖崇拝から生まれてきます。
我々の先祖から神になる人物とは、誰もが認める偉大なリーダーであったというのが、その一つの要件です。
その点でいうなら、徳川家康公は、265年間もの長きにわたり、平和で理想的な社会を生み出した、偉大なリーダーであると言えます。
私たちは誤った教育方針によって、江戸時代を教え込まれた疑いがあります。
少なくとも、江戸幕府の将軍らは、平和な時代を切に願っていたことが、この東照宮のおびただしい彫刻の数々、その造りから窺い知ることができます。
しかしながら、日本国を遍く照らす、大いなる神となる資格には、その血筋も重要であると認識します。
それは古代出雲王家、もしくは大和王家を形成した古代王族の血筋であるということです。
さらに大いなる信仰・大いなる神力を得るには、「非業の死」を遂げていること、も重要な要件です。
志半ばに、悲しみの死を遂げているからこそ、民は各地で、その大いなる先祖の魂を鎮め奉ってきたのです。
それを鑑みれば、支那風の過剰なまでに華美な装飾であふれた東照宮は、個人的には神社と呼ぶよりも「霊廟」であると認識します。
ただ家康が、死後は日光に祀るよう遺言を残した真意は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたことにあると伝えられています。
つまり徳川家康公自身の、「八州(日本全土)の鎮守」とならんとする願いが、この日光東照宮には込められているのです。
奥宮社務所では、大御所様の「御遺訓おみくじ」というものがありました。
ありがたい御遺訓を胸に、東照宮を後にします。
素晴らしい所ですね。一度行ってみたいです。
前の記事の時も思ったのですが、雪かなあ?って思ってたらやっぱり雪だったんですね。
そんなに高い所にあるとは知りませんでした。知らずに行ったら風邪をひいてしまいますね。夏でも涼しいのかな??
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雪でした(笑)
日光に着いた時は快晴でしたが、夜になってドカ雪。
朝、車が走れるかドキドキでした。
以前、山形の月山で初雪の吹雪にあい、遭難しかけた教訓から、旅行リュックには薄手で防寒性の高いフリースを必ず入れておくようにしています。
今回もそれで難を逃れました。
旅をするたびにたくましくなっていくなぁと、我ながら思っています。
日光、良いとこでしたよ。
ぜひ行かれてみてください!
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何事も経験が必要ですね~(^^)/~~~
日光、行く時は羽織る物を持って行きます(*^^)v
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CHIRICOさんの仰る通り、東照宮は「霊廟」でしょう。
まさに過剰なまでの支那風の装飾には…??です。
本来、家康本人は利休に弟子入りしたくらいですし、この様なものを望んでいたとは思えないのです。三代将軍、家光が、徳川家の威光を世に知らしめることと共に大御所家康を神格化したかったのでしょう。
家康の公家書法度発令は、公家の中に危険分子が育たない様にしたもので、あくまでも帝の一家臣として忠義を尽くしていたのは確かな事です。帝こそが我が国の神と崇められる唯一無二の存在でしょう。
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龍道から奥宮宝塔にかけては、とても侘びて神々しさを感じました。
家康公は神にはなれなかったが、神に愛されたのだと、そこに立ち思いました。
華美ではありましたが、家康が国の平和を望み、そのためには帝を中心としたあり方を望んでいたことが、様々な彫刻や装飾から窺えたことが大きな収穫でした。
行ってよかったです!
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