美保神社からぐいっと東に足を伸ばし、美保関灯台(みほのせきとうだい)を訪れました。
島根半島の最東端。
隠岐島も望めると言いますが、
まあ、僕の心と同じ、こんな有様です。
この美しい山陰最古の石造灯台は、明治31年(1898年)、フランス人の指導により建設され、国の重要文化財に指定されました。
他、「世界灯台100選」「日本の灯台50選」にも選ばれています。
その灯台が見下ろす先には、
手前に「地之御前」(ちのごぜん)、
3.2kmの沖合いに「沖之御前」(おきのごぜん)の神域が美保の荒海にぽっかり浮かんでいます。
この二つの小島は、美保神社の飛地境内とされ、事代主が鯛釣りをしていたとされる伝説の名所です。
今も事代主の御魂は、ここで釣りをしながら、船の安全を見守っているのだとか。
沖之御前は、1200万年前に隆起してできた島で、この地域では一番古い土地とも伝えられ、ガイアのエネルギーを感じさせます。
毎年5月5日には、沖之御前を舞台に「神迎え神事」も執り行われ、島に鎮まる神を、本土の美保神社に迎え入れるのだそうです。
で、その島に鎮まる神とは、沖之御前、地之御前共に、「事代主命」と「活玉依媛命」(いくたまよりひめのみこと)の夫婦神となっています。
ん???
ん??????
んんっ!!!!!!!なんでーーーーーーーーー!!!
活玉依媛といえば、「三島ミゾクイ姫」のことじゃん!
沼川姫、それで良いのかーーーーーっ!
日本書紀では、三穂津姫(=たぶん沼川姫)は大国主に嫁ぎ、
古事記では大国主と神屋楯比売(かむやたてひめ/先代旧事本紀によれば多岐津姫のこと)との間に事代主を儲け、
先代旧事本紀では事代主に嫁いだのが活玉依媛だという。だから沖之御前・地之御前に事代主と活玉依媛が祀られているというのが美保神社の説明のようです。
それでいくと、美保神社は、微妙な関係の義子と義母が並び祀られているっていうね、そんなことはないでしょう、という事態になっていることに。
各神社の大人の事情は察しますが、膝から崩れ落ちそうな設定内容でした。
僕は美保神社大好きなので、頑張って欲しい。
美保関灯台手前にある「恵美須社」。祭神は事代主だろうと思われますが、詳細は不明です。
こちらも美保神社の末社ではないそうです。
ところで、事代主・八重波津身(やえなみつみ)に嫁いだ妃は3人いたと言います。
・越国(新潟)糸魚川から来た「沼川姫」(ぬなかわひめ)
・摂津(大阪)三島からきた「溝杙姫」(みぞくいひめ)
・そしておそらく出雲族と思われる「鳥耳姫」(とりみみひめ?)
住まいの状況はこんな感じだったと思われます。
王庭の神魂神社の場所に事代主はいて、同族の鳥耳姫はそこに近い場所に居たでしょう。
他は三島溝杙姫が揖夜神社の鎮座地、沼川姫が美保関。
古代は妻問なので、事代主は各嫁の家に通って一夜を過ごしていたはずです。
それで揖夜神社は分かります。しかし美保神社はどうなの?そこじゃなければいけなかったのか?
僕がGoogleマップで適当に作った古代の島根半島図を見かねて(๑˃̵ᴗ˂̵)、あんでぃさんが詳しい資料を教えてくれました。
『後期旧石器時代から弥生時代における宍道湖・中海周辺地域の遺跡分布と変遷』島根大学研究・学術情報機構総合博物館年報
ドラヴィダ族が出雲に来た頃であろう図がこんな感じです。
出雲平野は誕生していますが、やはり半島は、ほぼ離島の様相を示しています。
そして事代主治世の頃。
えびすが足をかじられる逸話から、三島ミゾクイ姫の屋敷は揖夜神社辺りだったのだろうと考えられます。
ではなぜ、越の沼川姫の住まいは美保郷だったのか。佐太神社でも良かったのではないか。
美保神社の飛地境内である沖之御前・地之御前に活玉依媛(ミゾクイ姫)が祀られているように、揖夜神社の本殿隣にも三穂津姫(沼川姫)が祀られています。
えびす(事代主)が美保と揖夜を行き来していたという逸話からも、沼川姫とミゾクイ姫は同族だったのではないでしょうか。
事代主の住まいがある王庭から通いやすいところに屋敷を設けたミゾクイ姫は本家筋に当たり、対し沼川姫は分家だったので、少し遠いところに屋敷を構えた、とか。
更に言うなら、島根半島が離島に近い状況の頃、ドラヴィダ族が出雲に来る前から、半島には別の一族が定住しており、以後も出雲族と交流しつつも別の文化圏を生成していた。
そして彼らと同族の沼川姫を美保郷に迎え入れ、王妃に相応しいだけの生活をバックアップしたのではないか、そんな憶測を思い浮かべてしまいます。
美保関漁港に戻って来て、狭い石段をひいこら登っていると、
見覚えのある場所に出ました。
「客人社」(まろうどしゃ)です。
「諸手船神事」で最初に祭祀が行われる神社ですが、祭神は「大國主命」の他、合祀幸魂社として「大物主命」が祀られています。
事代主は大国主遭難の話を聞いて、海に飛び出しましたので、客人社に声かけて祭祀が営まれるということなのでしょうか。
客人神(まろうどがみ)とは、主祭神に対する客分の神を意味し、相殿(あいどの)にするほど主祭神と親密でなく,境内社にしては失礼になる神。通常は国外から入って来た神を意味します。
大国主は同族で、副王の事代主に対する主王ですので、客人神には相応しくないように思うのですが。
その横には「天王社」。
三穂津姫命を祀るといいますが、なぜ美保神社の主祭神が、またここでも祭祀されているのでしょうか。
それに社が向いている方向は、客人社か、または遠く大山を遥拝しているのか。
客人社と天王社は、社名と祭神に違和感を感じ、実は違っているのではないかと思えるのです。
天王社から下っていくと、
今度は「地主社」に出ました。
地主社は「事代主命」或いは「御穂須須美命」を祀ると伝えられています。
先の天王社とは、背を向ける形で祀られています。
粟の洞窟で亡くなられた父・事代主の御魂を、美保の地で祀り、守り続けて来たのが、娘のミホススミです。
近年祀られた御穂社以外で、美保郷に彼女が祀られているとしたら、ここだけかもしれません。
そして地主社の先の、薄暗い杜の奥に、一つの社が祀られています。
ここは「幸魂神社」(さきだまじんじゃ)と呼ばれ、こちらも美保神社の末社には含まれない神社のようです。
社頭の案内板によれば、久しく忘れられていた神社のようですが、平成15年2月に遷宮の際、寛政6年9月(1794年)の棟札が見つかり、「奉造立幸魂神社三穂津姫命霊廟一宇成就之攸」と記載されていたとのこと。
これを信じるなら、この神社は三穂津姫の霊廟であるということ。
いや、三穂津姫=沼川姫とするなら、彼女はタケミナカタと一緒に、越の里へ帰郷しているはずです。
ならば、ここはミホススミ姫の墓ではあるまいか。
この常世を思わせる圧倒的な樹圧の中で、そのような思いに耽っていると、社の奥からじっとこちらを見つめる不穏な視線を感じました。その視線の主とは…
ま、まさかあなたは、サマーアイズ・フレンドリーノートのキャットティーチャーっっ!!!
すっかり自分は出雲通なのだと自惚れていたことに、あらためて恥ずかしさを覚えた此度の出雲旅。
まだまだ出雲の歴史は奥深く、時の暗闇の中で、解き明かされるその日を、深淵の微笑みを浮かべて待ち続けているかのようなのでした。
🐥その視線、熱視線(招き猫)🐤
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ニャンパラリ
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🐥置いたの誰や🐤
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サマーアイズ・レイコ
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