諸手船神事:八雲ニ散ル花 番外

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二神(ふたはしらのかみ)、是(ここ)に 出雲國(いずものくに)の五十田狹之小汀(いたさのおはま)に降り到り、則ち十握劒(とつかのつるぎ)を拔き、地に倒(さかしま)に植(つきた)てて、其の鋒の端に踞(あぐみい)て、大己貴神(おおあなむちのかみ)に問いて曰く、

「高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、皇孫(すめみま)を降(くだ)し、此の地に君臨せんと欲す。故、先(ま)ず我(われ)二神を駈除(はら)い平定(やわし)に遣す。汝(いまし)が意(こころ)は何如(いかに)。當(まさ)に避(さ)らんや不(いな)や」。

時に 大己貴神 對(こた)えて曰く、

「當に我が子に問いて、然る後に報(かえりごともう)さん」。 

是の時に、其の子 事代主神(ことしろぬしのかみ)、遊行(いでま)して出雲國(いずものくに)の三穗之碕(みほのさき)に在り。
以ちて魚を釣るを樂(わざ)と爲す。
或に曰く、遊鳥(とりのあそび)を樂(わざ)と爲す。
故、 熊野諸手船(くまののもろたふね)、亦の名は 天鴿船(あまのはとふね)を以ちて使者 稻背脛(いなせはぎ)を載せて遣しつ。
而くして 高皇産靈の勅(みことのり)を事代主神に致し、且(かつ)は將に報(かえりこと)の辭(ことば)を問う。

時に 事代主神、使者に謂いて曰く、

「今、天神(あまつかみ)の此の借問の勅有り。我が父(かぞ)宜(よろ)しく當に避り奉るべし。吾(あれ)も亦た違うべからず」。 

因りて海の中に八重蒼柴籬(やえあおふしかき)を造り、船014592-2018-12-12-23-241.gif(ふなのへ)を蹈みて避(さ)りぬ。

使者、即ち還りて報命(かえりこともう)す。

故、大己貴神、則ち其の子の辭を以ちて、二神に白(もう)して曰く、

「我が怙(たの)めし子は既に避去(さ)りぬ。故、吾も亦た當に避るべし。如(も)し、吾、防禦(ふせ)がば、國の内の諸神(もろかみたち)、必ず當に同じく禦(ふせ)がん。今、我、避り奉らば、誰か復(また)敢(あえ)て順(まつろ)わん者有らん」。 

乃ち國平げし時に杖(つえつき)し廣矛(ひろほこ)を以ちて、二神(ふたはしらのかみ)に授けて曰く、

「吾、此の矛を以ちて、卒(つい)に功(こと)治(な)せる有り。天孫(あめみま)若(も)し此の矛を用(も)て國治(しら)さば、必ず當に平けく安からん。今、我、當に百不足之八十隈(ももたらずやそくまで)に隱去(かくれ)なん」。

言い訖(おわ)りて遂に隱れき。 

『日本書紀 卷第二 第九段 神代下』

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12月3日、島根半島の東端にある美保関(みほのせき)、その港町に鎮座する「美保神社」を再訪しました。

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いつ訪れても、風情ある美しい神社です。

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一ノ鳥居門前に、「おかげの井戸」と呼ばれる井戸があります。

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文化庁の登録有形文化財に指定されている井戸。
その昔、長い干ばつでどの井戸も干上がって民衆が困窮していたとき、宮司の雨乞いにより美保大明神からお告げがあり、水が湧きだしたと云われています。

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参道を歩いていると、手水舎の奥に「御釜屋」があり、

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その正面に、小さめの社がありました。
御食津神を祀っているのでしょうか。

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出雲的な太いしめ縄が掛かる神門、その先に拝殿が見えます。

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神門の上には紙垂(しで)が置かれています。
これはこの門をくぐることで、参拝客を清めているのです。
確かに、門を越えて聖域内に足を踏み入れると、心がすうっと軽くなるのを感じます。

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斎木氏曰く、パルテノン神殿を思わせる開放的で大きな拝殿。

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拝殿は至る所から風が吹き抜け、どこからでも人々が参拝できるようになっています。
これは社殿を建てた東出雲の旧王家「富家」の人の思いが込められており、先住系の人でも、渡来系の人でも隔てなく、受け入れ形を示しています。
記紀は先住系の神を国津神、渡来系の神を天津神と呼んでいますが、ここではそのような区別は全く意味をなしません。

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拝殿内では、この後の特殊神事「諸手船神事」(もろたぶねしんじ)の準備がなされていました。

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美保神社の本殿は、「美保造り」「比翼大社造り」と呼ばれる、2殿の間を「装束の間」でつないだ特殊な形式となっています。
屋根の千木(ちぎ)はそれぞれ縦削ぎと横削ぎの形になっていますが、これは今の常識となっている男神・女神の区別で造り別けているのではなく、本来は出雲系の神社が縦削ぎ、物部系の神社が横削ぎという区別になっていたそうです。

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祭神は「事代主神」(コトシロヌシノカミ)と「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)。
記紀では偽って母子の間柄という設定になっていますが、真実は父娘の関係です。

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三穂津姫は『日本書紀』においては高御産巣日神の御子という設定で、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、「国神を妻とするならば、あなたが我々に心を許していない証である。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れ」と云ったとあります。
大物主は本来、事代主を表す名称でしたが、いつしか大国主の別名のように扱われたため、また、国譲り神話で事代主は大国主の息子という設定にされたため、祭神にこのような誤まった解釈が生まれました。

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美保神社の祭神の名称は、三穗津姫ではなく、本来は「御穂須須美」(ミホススミ)であったと云われています。
『出雲風土記』が記すところによると、御穂須須美は、所造天下大神と奴奈宜波比売命との子であるとし、彼女が座したことから美保郷の名がついたとしています。

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境内の右奥に「御霊石」(おたまいし)という、丸い石が祀られています。
かつて漁師が海で発見したものだそうで、2つあったうち、1つを夢のお告げによって海に還したそうです。
安産の石として撫でると健康な子が育つと伝えられています。

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本殿裏の若宮社(わかみやしゃ)には、御穂須須美の異母兄「天日方奇日方」(アメヒカタクシヒカタ)が祀られています。
御穂須須美の父、事代主・八重波津身には、母親の違う頼もしい3人の息子がいます。

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親族から嫁いだ「鳥耳姫」の長男「鳥鳴海」(トリナルミ)は、大国主・事代主の死去後、次の出雲王国主王、9代大名持(大穴持)に就任しました。

摂津国三島の「玉櫛姫」(活玉依姫/溝咋姫)の息子「天日方奇日方」は、父の死後、その事件を嫌って、出雲人の約半数を連れて、ヤマト(奈良地方)へ移住します。
彼らは葛城山の東麓(御所市あたり)を開拓し、事代主をまつる「一言主神社」や「鴨都波神社」を建てました。
後に奇日方家は古代出雲語で「神」を意味する「カモ家」(鴨家・加茂家)と呼ばれるようになり、大和王朝の礎を築き、更に「登美家」(トビケ)と呼ばれるようになっていきます。

越ノ国から輿入れしていた「沼川姫」は夫の死を悲しみ、実家に帰ることになりました。
その母君に付き添って越ノ国に行った息子が「健御名方富彦」(タケミナカタトミヒコ)であり、後に信濃国の諏訪地方まで進出し、諏訪王国を築きました。
健御名方の妹、御穂須須美は母が暮らした出雲の地「美保関」に父の霊を祀り、当地で生涯を終えます。

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前回訪れた時は気づきませんでしたが、本殿裏に隠されるように小さな池がありました。
話によると、池の水は湧いているのだそうで、この辺り一帯は強い気を放っているように感じました。

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また、手前の溝に小さな亀の像が置かれていて、

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見つけた人に、幸運をもたらすのだそうです。

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さて、昼が近くなると小さな港町も賑わい始め、紋付袴を着た氏子の方の姿も見かけるようになりました。

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港町だけあって、店先には一夜干しされる魚が、潮の香りをいっそう濃くしています。

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美保関に来たら是非食べたいのがこれ。

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白イカの一夜干し。
お値段は少々高めですが、それに見合う旨さです。

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港からは幸神(サイノカミ)信仰の大神奈備「大山」を望むことができます。
しかし標高が高いせいか、なかなか山頂は姿を見せてくれません。
イカ焼きのおばさんにそう話すと、「山頂が見えないのもまた風情よ」と言われ、なるほど確かに、と納得したものです。

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大山の名の由来は、幸神の主神「クナト大神」のこもる山ということで、「大神山」(大山)と呼ばれたことによります。
また「大山の神」は、「大山津身」(オオヤマツミ)とも呼ばれるようになりました。

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港に出てみると、神事で使う「諸手船」(もろたぶね)2艘が浮かんでいました。
諸手船とは、記紀の国譲り神話において、三穂の崎で釣りをしていた事代主の所に、大国主からの相談の使いで、稲背脛(イナセハギ/タケヒナドリ)が乗ってきた舟のことです。

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美保神社には、この国譲り神話に由来するという特殊神事が、4月7日に「青柴垣神事」、12月3日に「諸手船神事」として受け継がれています。
青柴垣神事に関しましては、資料館にあった写真と、斎木雲州氏の著書「出雲と大和のあけぼの」から抜粋して、紹介させていただきます。

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『美保神社では、コトシロヌシを忘れないように青柴垣神事が始められ今も四月に行われている。
それは、古事記の記述に合わせている。
古事記では、「八重事代主は…船を踏み傾けて、青柴垣に天の逆手を打って、(水中に)隠れました」となっている。
逆手を打つとは、指先を地下に向けて拍手(かしわで)を打つことを言う。
青柴垣神事は中世末に、太田政清が立案し儀式化したという。
太田氏はコトシロヌシの子孫の家柄であった。
出雲王の血を引く人々が、事代主を忘れないように、との思いで始めた神事であった。
神事の日には神社に、三本足のカラスの絵のある日像幢(にちぞうとう)とウサギが餅つく月像幢などが飾られる。
三本足のカラスは、日本では八咫ガラスと呼ばれる。
社の一室には、頭屋が白く化粧して座っている。
それはコトシロヌシの神に化身した姿だ、と言われる。
実際に頭屋は前日から絶食し疲れて、神がかりの状態になっている。

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昼過ぎから、田楽踊りのササラ子が「御解除(おけど)でござぁい」と叫びながら、コトシロヌシを探す。
町中を七回半まわつても見つからないので、葬式が出ることになる。

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頭屋は行列とともに、船に向かう。
青柴垣のある船に、神社の神霊御輿が乗せられる。
頭屋も船に乗り移り、船上の青柴垣の囲みに入る。
忌み船は悲劇の海上をめぐる。

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船では、神楽の悲しい調べが聞こえる。
「ホーライエッチャ(蓬莱縁者)」との掛け声がする。
船が宮灘に帰ってくると、アメノウズメと巫女がお迎えに出る。
頭屋が社に着いて、すべての神事が終わる頃には、夕日が沈んでいる。』

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さて、時刻は正午を回った頃、はっぴを着た行列が「ホーライエッチャ」の掛け声とともに、港を周回しだしました。

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この「ホーライエッチャ」の掛け声は、阿太加夜神社に伝わる「ホーランエンヤ」の船祭りの名前と関係があるようです。
その祭りは約12年に1度行われ、松江城近くの宍道湖から、数十隻の飾り船が出発する大祭です。
船の上では、若者が勇壮に踊り、船は大国主の后(多吉姫)をまつる東出雲町の阿太加夜神社まで、航行するのだそうです。

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ホーランエンヤの掛け声は「蓬莱塩爺」が訛ったものであるという説があり、「蓬莱」は秦からの渡来人が、日本を呼んだ言葉であり、「塩爺」とは『日本書紀』に登場する「塩土老翁」(シホツチノヲヂ)を表すようです。

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と、行列は美保神社と対岸にあたる辺りに到着しました。

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そこから、今度は神官さんや氏子の方々が丘を登っていく姿が見えます。

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きらびやかな衣装の巫女さんの姿も見えます。

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その道は狭く、なかなか険しいものです。

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やがて鳥居が見え、辿り着いたところは、

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「客人社」(まろうどしゃ)。

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当社の祭神は大国主であると云います。

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美保神社に伝わる二つの特殊神事、諸手船神事は、美保崎にいる事代主へ、大国主から国譲りの相談を受ける様を儀礼化した祭であり、青柴垣神事は、国譲りの相談を受けた後、事代主が譲ることを承諾し御身を海に隠したという様を儀礼化した祭りであるということです。

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しかし国譲り神話の真実は、渡来した穂日家が大国主と事代主をそれぞれ別の孤島に幽閉し、枯死させたという出雲王国転覆事件の話です。

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となると、当社、客人社の祭神というのが気にかかります。
当社の祭神は大国主となっていますが、客人(まろうど)とは「まれびと」のことであり、 民俗学的に「異郷から稀に来訪する神」を指すからです。

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だとするなら、当社の本来の祭神は穂日族、その中でも穂日の息子「夷鳥」(ヒナドリ)なのではないでしょうか。

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などと思いふけっていると、社殿の狭い向拝では、巫女舞が行われていました。
麗しき巫女の舞、尊いです。

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客人社の祭事が終わると、神官達の行列は、一目散に美保神社を目指します。

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細い風情ある青石畳通りも、足早に通り過ぎていきます。

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そして美保神社に到着です。

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到着早々に、次の神事の準備に取り掛かります。

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拝殿の横には「神饌所」(しんせんじょ)と呼ばれる社殿があります。
ここでは、神の供え物を作るのだそうです。

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社殿で祭事の準備が進められるころ、港ではホーライエッチャの方々が踊っておられました。

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祭りを余すことなく楽しもうと、僕も行ったり来たり忙しいです。

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拝殿では氏子の皆様が集まり、緊張感が高まっていました。

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正装した宮司が昇殿し、いよいよここから諸手船神事の本祭が始まります。

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皆低頭し、比翼大社造りの二つの本殿の扉が開かれます。

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宮司による奉幣の儀に引き続き、2座の巫女舞が舞われます。

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乙女の尊い舞に見惚れ、時を忘れます。

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やがて氏子の方々がざわつきはじめ、宮司による「みくじ」が執り行われます。
これにより2艘各9名、計18名の諸手船乗船者が決まります。

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真劔持ち(まっかもち/真劔を持つ人)各1名が両當屋から、

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大櫂(おおがい/舵取りで船長)各1名が上官から、

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大脇(おおわき/大櫂の補佐役)各1名が客人當・上席休番から、

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櫂子(かこ/諸手船の漕ぎ手)各6名が準官から選ばれます。

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この諸手船乗船者に選ばれることは、本当に誉れのようで、皆から祝福を受けています。

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氏子の祭祀組織については複雑で、美保神社のサイトから抜粋させていただきます。

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役前(やくまえ)
頭人・両當屋・客人當・両休番の6人のことをいいます。

頭人(とうにん)
氏子の祭祀組織の中でまさに長であり、役前の中でもさらに厳しい修行と生活の制約があります。期間は1年間でその後は上官となります。

當屋(とうや)
一ノ當・二ノ當の2人のことをいい、青柴垣神事で神がかりする大事な役です。當筋16流(或いは18流とも伝わる)の家筋で15歳以上の長男に限定、親が準官以上、親族に3年間死者が出ていない、妻帯者であるといった中から「みくじ」によって決まります。期間は1年間でその後は準官となります。

客人當(まろうどとう)
境外末社の1つである客人社(大國主神)に仕える者で、33歳から56歳まで(頭人納めの年齢が60歳)の準官の中で一定の資格を持つ者より「みくじ」によって決まります。客人當に当たると頭人をおえるまでの4年間精進潔斎し奉仕を続けます。期間は1年間でその後は下席休番になります。青柴垣神事は當屋の祭というのに対し、諸手船神事は客人當の祭といえます。

休番(きゅうばん)
頭人となる為の修行期間で、上席・下席と一員ずつ存在します。それぞれの任期は1年間で客人當の次に下席休番、次に上席休番、その後いよいよ頭人となります。

上官(じょうがん)
頭人経験者。生涯「上官」として奉仕し、この中で数名は「世話人」として神事を取り仕切ります。

準官(じゅんがん)
當屋経験者で、神事では諸手船の乗船や青柴垣神事行列の祭器具持ちなどを奉仕します。

上準官(じょうじゅんがん)
上官と準官のこと。

組織図
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役前になった人は、ものすごい精進潔斎、修行をすることになるそうです。
それは1年間(頭人は客人當から始まり4年間)、毎日欠かすことなく真夜中である子の刻に潮掻(しおかき/海での禊)をし、各社に参拝します。
この時、途中で他人と出会えば「穢れた」として再度潮掻からやり直すのだそうです。

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これを「日参」(にっさん)と呼ぶそうですが、その間の食事は1人で神棚の下で専用の膳・箸を使い鶏肉・鶏卵を食べない、夫婦別床、仏壇を閉じ死穢等の一切を避けるなどの多くのしきたりを守りながら日々精進潔斎し、神事を奉仕するための準備をして過ごすのだそうです。

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日参の時には、役前の6人は紋付き羽織、下駄を着用して参拝をしていますので、深夜カランコロンという下駄の音が聞こえてきたら、役前に出会わないように注意しなくてはなりません。

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また祭祀組織の長たる頭人は、より厳しい戒律があり、日参は口伝による「となえごと」など、美保神社神職であっても知ることのない秘儀が多く存在するそうです。
そして頭人を終える時は、その秘儀は全て忘れなければならない習わしになっているということです。

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しばらくして選ばれた乗船者は勇ましい姿に変え、宮司とともに港へ向かいます。

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そして境内では、粋な三味線や太鼓の音とともに、

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祭りの踊りが奉納されていました。

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港、宮灘では2艘の諸手船に氏子らが乗り込み、宮司に見守られて舟を漕ぎ出します。

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舟は対岸山麓まで漕ぎ進め、

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客人社に拝礼します。

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そこから「ヤァヤ」の掛け声とともに、一気に宮灘へ引き返していきます。

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2艘の諸手船が宮灘に着くと、ここからが諸手船神事の見所、

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激しい水の掛け合いが始まります。

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ひとしきり水の掛け合いが終わると、一旦沖に出て、

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再び宮灘へ戻り、

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ファイヤー!
暖冬とはいえ、時は12月の山陰の海です。

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誉れとはいえ、僕は見る側で十分です。

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それにしても、三脚や脚立を持ち出して、陣取るカメラマンの多いこと。
彼らは場所取りを専念するあまり、祭りの初めからここに居座り、ひたすらこの水掛け合いが始まるのを待っていました。
確かに水掛け合いは、諸手船神事のクライマックスではありますが、祭りの全てではありません。
僕は手持ちのカメラで、祭りを余すことなく、生で堪能することを迷わず選びます。

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三度ほど、この水の掛け合いを繰り返し、
宮司が、「應答祝言」と呼ばれる数々の祝言を述べます。

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この後も沖に出ては戻って、水かけが繰り返されます。

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東出雲王家「富家」の伝承では、富家の事代主は、美保関の港の館に住む沼川姫にしばしば逢いに行き、海岸で釣りを楽しむことがあったと伝えています。

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ある時、美保の崎で釣りをしている事代主の所に、穂日家の夷鳥が諸手舟に乗って使者としてやって来ました。
夷鳥は「園の長浜で八千戈(大国主)様が行方不明になったので、事代主様も来て一緒に探して下さい」と言って、事代主を舟に乗せました。

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舟は弓ヶ浜の栗島に着きますが、すると穂日家が率いる海童たちが現れ、舟を取り囲み、事代主は栗島の裏の洞窟に幽閉されました。
八千戈王も猪目洞窟に、彼らによって幽閉されていたのです。
それから王・副王の姿を出雲の民は見つけることができず、発見された時には無残にも、枯死した姿となっていたのです。

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第二次物部東征による「出雲王国の国譲り」は3世紀に起きた出来事です。
八千戈王「大国主」の死の事件は紀元前3世紀末の出来事で、時代が合いません。
記紀の編纂者は、穂日家が大国主を夜見の国に追いやった史実を隠すために、大国主と国譲りを結びつけ、神話の物語に書き換えた、と斎木氏は述べます。

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同じく事代主も、古事記に「八重事代主は、船を傾けて、青柴垣に打ち成して隠れた」と書かれ、あたかも本人が入水自殺したように見せかけています。
これにより、穂日家の罪を軽く見せることに成功しました。

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時は過ぎて4世紀頃、事代主の娘「御穂須須美」が父の霊を弔った祠のそばに、向家(富家)が美保神社を建てました。
当初は向家が神主になっていましたが、向家は多忙であったので、美保神社の管理を神職の横山家に任せることにしました。
横山家が、向家に寄こした文書には、美保神社の氏子が、杵築大社(出雲大社)のような派手な神事をうらやみ、外部と関わることを求めてると書かれていました。
それに対し向家では、美保神社に立派な神事を作ることを考えます。

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そして元禄期(江戸中期)、向家の親戚で、古代に奈良三輪神社の社家となった一族の子孫「太田政清」を招いて、向家は二つの神事を古代的に儀式化することを依頼しました。
こうしてできたのが諸手船神事と青柴垣神事でした。
この祭りは、古代の史実を思い起こさせ、出雲の歴史を人々に認識させる功果がありました。

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激しい祭事の後、舟を降りた勇ましい氏子の方々。

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この後、温かい湯に浸かった後、最後の神事に向かいます。

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古事記上巻に、次のようなエピソードがあります。
大国主が美保ノ御崎に座っていると、海上に光って寄ってくる神がありました。
その神は「我を大和の青垣の東ノ山(三輪山)に祀れ」と告げます。
その神は大物主と呼ばれ、大国主の別の名であると言われるようになります。
しかし、大物主とは、実は事代主のことだったのです。

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拝殿に再び、一同が会し、本殿の扉が閉じられます。

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その後、宵祭より献上した供えを撤し、一部を役前上準官に頒賜します。
総員が社殿より退いた後、神事会所で「真魚箸式」という古式直會の儀が執り行われるそうですが、それは宮司を前に世話人が箸で鯛を押さえ、木で作った包丁で鱗を落とし、腹を捌くのだそうです。
この時、手が直に魚に触れてはならない決まりごとがあり、それを聞いた時、古代出雲王家では死者に触れることは絶対の禁忌であったということが、思い起こされました。

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