「クシヒカタ様、多岐津彦様がおみえになりました。」
クシヒカタと呼ばれた男は、屋敷の中央に腰掛け、この一帯を描いたと思われる地図を目にしていた。
みずらに束ねた髪には、一筋白いものも混じっている。
「うむ、ここへ通しなさい。」
出雲を離れて、クシヒカタは葛城の地に都を築いた。
未開の地の開拓がひとしきり終わった頃、西出雲王家の多岐津彦が自分たちの一族も葛城に住まわせて欲しいと頼って来た。
クシヒカタには二人の妹がいたが、多岐津彦を弟のように思っていた。
「クシヒカタ様、この度は我らの住まう地をお世話いただき、誠にありがとうございました。」
「気に入ってもらえたか、あの土地も悪くなかろう。」
「はい、先日丹波より移った姉もたいそう喜んでおります。」
「大屋どのも苦労されたの。ここは同郷の者ばかり、気兼ねはいらん。作物が実るまでしばらくは食べ物に困ることもあろう、私の蔵から何か届けさせよう。」
クシヒカタは葛城の南の土地を多岐津彦に譲り渡した。
そこへ五十猛に嫁いだ西出雲神門臣家の大屋姫が、息子のタカクラジとともに移り住んで来た。
当初は夫婦仲もうまくいっていたようだが、五十猛が異母妹の穂屋姫を后に迎えると、出雲王家出身の大屋姫は海家の中で孤立し、居場所がなかったようだ。
「ところでクシヒカタ様、本日お伺いしましたのは、お礼とともにお伝えしたいことがございまして。姉が伝えるところでは、どうやら海家にも、この葛城に進出する動きがあるとのことです。」
「それは真か、彼らには丹波という立派な国があるだろうに、彼らの欲深さには呆れるな。」
そもそも、クシヒカタも多岐津彦も、彼らの父と祖父王を死に至らしめた疑いのある、渡来人との共生を嫌って故郷出雲を捨ててこの葛城にやってきたのだ。
その渡来人一族、海家も葛城にやってくるというのなら、自分たちが苦労して未開の地を開拓してきたのは何だったのだろうか。
「海家の人達は、出雲より強大な国を造ろうとしているのかもしれません。我々は今後、彼らにどう向き合うべきなのでしょうか。」
多岐津彦は不安げな面持ちをクシヒカタに向けた。
異国の技術を持った海家は、武力においても優れている。
戦となれば、勝敗の分は悪い。
クシヒカタは屋敷から外を眺め、考えを巡らせる。
彼の目の先には、日が差し込み鈍く光る、父を祀った社の姿が見えていた。
奈良と大阪の県境に位置する「大和葛城山」(やまとかつらぎさん)の東側、御所市一帯には、大和國に由来する古い神跡が多数存在します。
その大和國創設の原点とも言える神社が「鴨都波神社」(かもつばじんじゃ)であると知りました。
鴨都波神社の由緒を見ると、「第10代崇神天皇の御代、大国主命第11世太田田根子の孫、大賀茂都美命に勅を奉りて葛城邑加茂の地に奉斎されたのが始めとされている。」とあります。
しかし本来の創建はもっと古く、古代出雲王朝時代に遡ります。
それを裏付ける証拠として、神社を中心とする一帯は「鴨都波遺跡」という弥生中期の遺跡になっており、土器や農具、高床式の住居跡が多数出土しています。
古代には鴨家と呼ばれる一族がこの地に住み着いて、農耕生活を営み栄えていたことを窺わせます。
手水には珍妙な石が置かれていました。
出雲のサルタ彦を連想させる石です。
境内に入ると、優しい気に包み込まれた杜の中に、立派な社殿が鎮座しています。
出雲王国8代副王「事代主」の息子「奇日方」(クシヒカタ)は、葛城の自らの屋敷付近に、孤島の洞穴で枯死させられた父を祀る「鴨都波神社」を建てたと云います。
弥生時代の出雲では「神」を「カモ」と発音したことから、葛城へ移住した東出雲王家「富家」は「神家」(かもけ)とも呼ばれ、後に「鴨」や「加茂」の字があてられました。
当社の古い社名は「鴨都味波八重事代主命神社」(かもつみわやえことしろぬしのみことじんじゃ)であったと言い伝えられ、祭神は「鴨の水際(みづは)の神」だったそうです。
これは「鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神」という意味で説明されています。
が、実際は、事代主の本名が「八重波津身」(ヤエハツミ)でしたので、その名の一部と神を意味する「鴨」の字が組み合わせられて、「鴨都八重波都身」を祀る鴨都波神社の名前ができたというのが真相のようです。
出雲では、8代主副の両国王が同時に枯死した事件を嫌って、両王家の分家が出雲人の約半数を連れて、ヤマト(奈良地方) へ移住します。
そのとき「岐神」(サエノカミ)信仰をヤマトとその周辺に伝えたと云います。
出雲では東出雲王家「富家」の八重波津身の御子「鳥鳴海」が、第9代大名持(大穴持)に就任しました。
事代主が亡くなった事で、摂津国三島から嫁いだ后の「活玉依姫」は実家へ帰る事にします。
そこへ御子のクシヒカタと出雲人が大勢ついて移住したので、三島の地は出雲の富王家の領地のようになりました。
先見の明に秀でたクシヒカタは、ヤマトの地は発展性がある、と考えます。
そこで出雲の人々に加えて、三島の人々も連れてヤマトの葛城地方に移住しました。
東出雲人は三島の人々の協力も得て、葛城山の東麓、今の御所市一帯をを開拓します。
そこは葛城川と柳田川の合流地点で水に恵まれ、稲作にも向いた広大な平地でした。
開拓がひと段落すると、クシヒカタは父、事代主をまつる鴨都波神社と、葛城山の麓に「一言主神社」を建てたと云います。
境内の裏参道側はとても神秘的な杜が広がっています。
そこにいくつかの摂社が祀られています。
「神農社」では、医薬の神として事代主が役職名の「少彦名大神」の名で祀られています。
稲荷社です。
稲荷信仰は出雲の信仰ではなく、物部氏が祭祀し始めたと云います。
出雲の富家では、事代主の御子であるクシヒカタがヤマトに移住し、サイノカミを奉じたことを記念する社を建てました。
それが「出雲井神社」であり、出雲北山山地の弥山(出雲市大社町修理免)の麓に鎮座しています。
さらに一部の出雲人は伊勢国に移住し、出雲井神社からサイノカミを伊勢国の「椿大神社」(鈴鹿市山本)に移した、と云います。
出雲では、東出雲王家は「出雲臣家」と呼ばれていましたが、言葉で各地を支配する「事向ける」という意味から「向家」(ムカイ)と呼ばれるようになります。
また、各地の豪族がこぞって貢物を持ち込んだ事から「富家」(トミ)とも呼ばれるようになりました。
「富」の言葉は古代出雲では、「トビ」と発音しましたので、ヤマトでクシヒカタは「富家」に古代の発音を重視して「登美」の漢字を使いました。
以降、ヤマトにおける出雲東王家の子孫は登美家と呼ばれていきます。
鴨都波神社の本殿脇に、杜に入る階段があります。
そこは遥拝所になっていました。
宮司の方にお聞きすると、御所を遥拝しているそうです。
クシヒカタが築いた葛城の王国、ここから物語は、大和王國設立への始まりへと繋がっていくのです。
鴨津波遺跡からは紀伊国方面の土器も出ているそうです。
五十猛を封じる紀伊家にとっても聖地でしょうね。(カゴ山色の強い大歳教の御年神社が微妙な立ち位置ですが)
あと、二田(物部)→新田→日田と言う考え方はどうでしょうか?
越智との関わりについて最近考えていましたので語呂に敏感に反応してしまいます
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逆かもしれませんね。
英彦山は徐福の母、高木神の聖地であり、辺りは「鷹」の名を持つ戦闘部族がいたようです。
田川は鷹羽、日田は日鷹だったとか。
日鷹から日田、二田になったという可能性はどうでしょうか?
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旧事本紀に出てくる物部氏族の支流としての二田物部氏ですが
若干、冷遇とまでは行かないですが、隆盛と言えるほどの一派になっていない気がするんです。
神社も圧倒的に少ないですしね。
八坂入彦で調べた時に、物部八坂で調べたら、後年の物部守屋の部下か何かでヒットしまして、あまり高い位の人物ではなかった様です。
娘さんが多ければ苗字も変わっていくでしょうし、本流は早々に消えてしまい、名前が変わったのではないかと考えています。
なにしろ手がかりがなくて謎が多いですよね、三島姓、越智、二田は
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そういえば、オチに繋がる人物にもう一人心当たりがありました。ただ少々混乱する話です。
タケミナカタの息子・出速雄と洩矢の娘・多満留姫の子孫に会知速比売がいます。彼女は阿蘇の祭神・健磐龍の后・阿蘇津姫のことのようなのです。彼女の父が会知早雄(おちはやお)です。
阿蘇では健磐龍が、高千穂では三毛入野が鬼八を征伐した伝承があり、この鬼八は出雲の石見神楽「道反し」にも登場します。石見神楽では武甕槌によって制圧され、「命を助けてやるから、今後は人間を食うのをやめて、九州高千穂の峰に有る千五百穂の稲穂(米)を食え。」と許されています。
鬼で八、出雲を彷彿とさせる名前。
鬼八は高千穂のアララギの王と伝えられており、アララギとはカムロギに由来するといいます。また高千穂方面には興梠姓が多く、彼らはアララギの末裔だも伝えられています。
この鬼八はどうも会知早雄であり、阿蘇津姫は草部吉見神社の国龍命の娘と伝えられていましたので、鬼八=会知早雄=国龍命でなかろうかと推察しています。
鬼八の妻は豊玉姫の娘(子孫)の鵜之目姫だといいます。
つまりここでも豊家と会知(オチ)家が繋がります。
そうすると越智家はタケミナカタの子孫ということになるのか?
ただそれだと時系列的には三島と繋がらなくなりますか。
うむ、やはり謎が多すぎますね。。
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はじめまして、出雲在住の高3生です。こちらのブログをきっかけに、多くの大元出版さんの本読みました。
そのためヤマト建国の経緯は知りましたが、なぜ天村雲率いる丹波勢をはじめとする豪族達はこぞってヤマトを目指したのでしょうか。水運に最適なのは淀川沿いの地域のような気がしますし、稲作に向いた肥沃な土地といっても、ヤマト以外にも候補はありそうですが…
いきなり質問して申し訳ありません。
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こんにちは、偲フ花のキリコです。
高3で大元出版に出会えたなんて羨ましいですね。
僕も学生の頃から神社や神話大好きでしたが、富家を知ったのはすっかりおっさんになってからです。
たしかになぜ奈良なのか、不思議ですね。
かつては水位がかなり高く、奈良平野も沼地だったそうです。大阪平野も海だったみたいですね。
そうした水位も関係あるのではないでしょうか。
あと思い浮かぶのは「鉄」です。
出雲族は鉄にこだわっていますので、葛城では鉄が採れたのではないでしょうか。すみません、僕も全くの素人なので、確証はありません。
今度、富さんと話せる機会があったら尋ねてみます。
Facebookの古代史研究のグループなどをみていると、皆考えが凝り固まっていて、逆に基本的なことが見えていないこともあります。僕だってそう。
あなたのような柔軟で素朴な質問は、えてして本質を捉えているものです。ありがとう。
そう、きっとみんなが目指して、そこに王権を打ち立てようとしたからには何かあるのだと思います。
それを探るだけでも、深い旅ができそうですね♪
また何か気付いたことがあれば、気軽にコメントください!
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ご丁寧な返信ありがとうございます!
大元出版を知ることができたのはこのブログのおかげです。本当に感謝しています。
他の方の本を読んだりして少し考えたのですが、やはり交通の便では山背に軍配が上がると思います。宇治川、琵琶湖経由で日本海、淀川水系で瀬戸内海、木津川を遡れば伊賀方面と出られます。
ヤマトの利点はというと、ヤマト盆地西側の山地によって、西からの攻撃に強いことです。実際、第一次東征は撃退していますし。
尾張氏や登美氏は九州の物部氏を警戒して、ヤマトに進出したのかもしれません。
製鉄については大元出版の本にある通り、ヤマトでも製鉄は行われていたようですね。砂鉄をどこから調達したのかはわかりませんが。
暖かいお言葉ありがとうございます。
気軽にコメントしすぎて質問ばかりしてしまうかもしれません笑
その際はお忙しいと思いますので、返信していただかなくても構いません。もしお時間ありましたら返信していただけるとたいへん嬉しいです。
長文失礼しました。
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おはようございます。
長文大歓迎です♪
なるほど、確かにそうです。
実は今調べていることの一つが、九州北部にも木の国があったというものです。
なぜか地名に木の国由来のものがあったり、五十猛を祀った神社群が存在したりしています。
つまり物部が勢力を増す中、それを警戒した海部が人民を派遣した可能性もあります。
奈良の最大の利点は、おっしゃるようにその防御性にあります。
肥沃な土地に十分な水量、温暖な気候、それを守るように360度適度な高さの山が取り囲みます。
国家王権を長期に維持しようとする時に、とても理にかなった場所が大和だったのでしょう。
また古代人が恐れたものが天災だったと思われます。天災の影響も受けにくい場所だったのではないでしょうか。
いぜん奥出雲の高校生が作ったという、大きな椎茸とトマトジュースを買い求めました。とても滋味深く、コロナ禍で疲弊した心身が癒されたものです。
出雲にはまた未訪問の場所も残っており、まだまだ旅したいところの一つでもあります。
コメントはどうぞお気軽に。
もしお勧めのところなどありましたら、教えてください♪
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北九州の木の国というのは初耳で、いくつか記事も読ませていただきましたいた。
九州糸島と言えば、伊都国のあった場所ですよね。筑紫野平野の勢力ー物部勢力からすれば、伊都国と日田なんかを抑えられると挟まれてしまって身動きが取れなかったはずです。
ヤマト建国後に物部勢力を抑えるために伊都国と日田を抑えに行ったのではないでしょうか。
筑紫野勢力にとって日田は弁慶の泣き所といえる場所だったようなので、日田についてもヤマト、出雲系の神社があるかどうか調べてみると何か分かるかもです。
1、ヤマト建国直後、ヤマト勢力が日田や伊都国を抑える。五十猛を祀る神社があることからその子孫が活躍したか。もしくは紀の国勢力、高倉下の子孫の活躍か。(宗像家は出雲系なのでその影響でもともと伊都国はヤマト系の勢力範囲内だったかもしれません)
2、筑紫野平野に基盤をもつ物部勢力は封じ込められたかに見えたが、なんとかその状況を打破(宇佐王国と協力して北九州に来たヤマト系を挟みうちにしたとか?)
3、筑紫野にいた物部勢力は宇佐王国と協力、合体して都万王国を形成、北九州に来たヤマト系から奪った伊都国などを玄関口として魏に朝貢
知識が薄いので時系列などが間違っていて、ありえない考察かもしれません。もしそうだったらすみません。
特に、ヤマト建国直後に物部勢力がまだ筑紫野平野にしか勢力を張っていなかったという前提の元の考察ですので、そこが違っていたら全て間違ってます笑
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日田に目をつけるあたりが鋭いですね!
しかし英彦山を中心とする筑豊・日田エリアは、ガチガチの物部勢力下にあったと考えられます。
英彦山の元の祭神は高木神、そう徐福の母親です。
高木神は鷹木神でもあり、この一帯には高木神社群や鷹の羽を神紋とした神社が多数あり、物部の武力集団がいた形跡があります。
田川は鷹羽、日田は日鷹であったという説も。
ところが日田に海部系の痕跡がないのかというと、面白いことがあります。
今、調べていることに九州の土雲族のことがあります。(土蜘蛛は卑字なのでこの文字を使います)
この土雲族の集落が日田にはあったようです。
湯布院に宇奈岐日女神社がありますが、この宇奈岐日女が土雲族の祖だと、とある方から伺いました。
それで気になって調べてみると、宇奈岐日女は宇那比姫命という名で、海部氏の系図にあるのを見つけました。
さらに宇那比姫命の先祖をたどると、海部家の祖・天御蔭(大和宿禰)の后に富家の姫・豊水富姫がいます。
僕は宇佐の豊玉姫でずっと疑問に思っていたことがありました。
なぜ宇佐は宇佐王国なのに、ある時から豊王国と呼ばれるようになったのか。
宇佐家は豊を名乗り出して、急に勢力を増した気配があります。
宇佐家は本来、徐福が宗像家の市杵島姫を娶った関係で、物部族と宗像族のハイブリッドとして生まれた一族であろうと考えています。
しかし女系であるので宗像系、つまり出雲的な意識が強い一族だったのではと。
そこへ海部の宇奈岐日女が由布の地にやってきます。
宇奈岐とは「うなぐ」、大きな勾玉を意味するそうです。
宇奈岐日女族はその絶大なカリスマ性で宇佐族と集合し、強大な王国・いわゆる邪馬台国と呼ばれる豊王国となったのではないでしょうか。
富家は本家以外に「富」を名乗らせなかったので、豊水富姫の「豊」を象徴としたのです。
宇奈岐日女が由布に送られたのは、当然物部族を警戒してのことだと思います。その子孫が物部と手を組んで大和へ侵略してくるとは思いもしなかったでしょうが。
土雲族は豊族の末裔だと思います。物部イクメが裏切って、豊彦を上毛野国に追いやり、豊姫を暗殺したことに怒り、まつろわぬ民となったのだと推察します。
海部族が九州に勢力を伸ばしたのは、この宇奈岐日女がやってくる前後あたりではなかったでしょうか。
まとまりのない長文になってしまいましたが、僕の考察はそんなところです。
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追記
北部九州勢力は大陸経由で得た鉄を淡路島までは送り込んでいたようです。(考古学で証明済)これは明らかにヤマト勢力の封じ込めを図っています。
ヤマトまでは鉄は流していないので、敵対関係にあったことも推測されます。
逆に言うと、ヤマト勢力にとっては淡路島は真っ先に奪取すべき場所だったということです。
国産み神話で淡路島が最初に産み落とされているのはそういった背景が関係しているのかも。
淡路島を奪取したヤマト勢はそのまま北部九州へと進軍して糸島のあたりを抑え、物部の封じ込めを図り、その結果九州の紀の国とも言うべき勢力が誕生したのではないでしょうか。
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おっしゃる通り、その流れで宇奈岐日女も由布院に鎮座したのかもしれませんね。
しかし淡路島は訪ねてみると、物部というよりは、出雲的な神社が多いように感じました。加茂神社や岩戸神社など。
おのころじまもいかにも出雲的です。
伊弉諾神宮の真の祭神が誰なのか気になるところですが、ちかくの岩上神社に見事な磐座があり、出雲的二墓制の拝み墓だったのではないかと思っています。
僕は美容師ですが、ご存知のように美容師は休みも少なく、収入も決して多くはありません。
それでもこれだけ各地を旅することができましたし、これからも可能な限り旅していきます。
それを踏まえて、古代史を調べるのは、机の上だけでは不十分だと感じます。
やはりできる限り当地の空気を吸ってみることが必要です。
そうすれば、きっとあなたのような若くて敏感な感性に語りかけてくる何かがあるはずです。
もちろん今すぐにとはいいませんが、自由に動ける条件が揃ってきたなら、ぜひ全国を旅してみてください。あなただけの真実が、見えてくるはずです。
その時、僕のブログが少しでも参考になれば幸いです。
ところでTwitterでフォローしてくれた古代史好きの高校生とはあなたのことでしょうか?
世代を超えた方と、もっとたくさんお話をしたいと思えたのは初めてかもしれません😊
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鴨都波神社に昨年の秋に訪れた際、境内のベンチで友達から来たLINEに返信するという特に風情のないことをしていたら、80代と見られる、でもとてもシャンとしたご婦人に話しかけられました。御所に嫁いできて長く住んでいたが、今は橿原市に住んでいて、御所の家は子ども家族が住んでいる。時々お墓参りと古い家の片付けのためにこうして来ている、とのことでした。
その方が、境内から国道の方を指差して、「御所に来た頃(昭和30年代?)その辺りの発掘調査があって、現地説明会に来たのよ〜。土器とか住居趾とか色々出てね」というお話をしてくれました。道の拡幅か、その向こうの済生会病院の関係の工事のための事前発掘調査と思われますが、何にしてもこの方が御所に来られた当初は西側にもっと杜が続いていた…現状を見れば当然そうだろうと思えるところですが、お話を聞きながらその頃のこの場所の姿を想像しました。
その後、境内のお掃除をしていた宮司さんの奥様?にも声をかけられ、その中でこの方が学校の先生であったことがわかりました。流れで何となくその輪から抜けられず、微妙に参加していたのですが、時期が11月であったことからお正月準備の話になり、しめ縄やお正月飾り作りを地域の方がやってくれるが、担い手の高齢化と人手不足でなかなか大変だ。今は何とかなっているけどこれからどうなるか…という話をされていました。
多くの神社が抱えるこの問題ですが、こんな重要な神社にも当然のようにこの問題が! よそ者にできることは何だろう? と考えてしまいます。
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鴨都波神社、とても雰囲気の良い神社ですね。
この辺りの遺跡は、クシヒカタたちが住んだであろう場所なのかと思います。
御朱印をいただく際、私も奥様と少しお話をさせていただいたのを覚えています。
とても丁寧な話し方をされる方でしたが、そうですか、学校の先生でしたか、納得です。
大きな神社は大丈夫なのでしょうが、小さな神社は皆同じ問題を抱えてあるようです。
神社庁はお役所仕事なので、こうした問題に対処してくれないでしょう。
日本の歴史や文化、そして日本人の心を失わないためにも、なんとかこうした小社を守っていかなくてはならないのですが。
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いつもながら、驚くほど早い返信、ありがとうございます。
そして、すみません、私の書き方が悪かったです! 学校の先生であったのは、先に私に話しかけてきたご婦人の方で、宮司さんの奥様がその方を「先生」と呼ぶので、私が「あ、先生だったのですか?」と聞いたら、宮司さんの奥様が「うちの娘も教わったんですよ」と。
ご婦人が、ご高齢ながらとても説明が上手だなぁ、と思っていたら、元教師だったのです。
確かに、宮司さんの奥様も、とても奥ゆかしい優しい方でした!
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なるほど、そうでしたか(笑)
それにしても、地元の方とお話しされるのは、いつも女性の方が上手だなと感心します。
私などは比較的最近になって、やっと声をかける勇気が出てきた次第です。
接客業をしているのに情けないもので。
せっかくの一人旅なのですから、そうした会話もこれから楽しみたいと思います!
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