伊和神社:八雲ニ散ル花 番外

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伊和部は、宍粟郡の伊和君らがここにやってきて住んだため、名付けられた。
昔、伊和恒郷(いわつねさと)なる者の夢に神が現れ、「我を祀れ」とのご託宣があった。恒郷が起きて西の方角を見たところ、一夜にして杉、桧が数千本ほどが生い繁る杜ができていた。
杜の天空には数え切れぬほど多くの白い鶴が舞っており、その中の大きな二羽が飛来して石の上にとまり、北を向いて眠っていたので、ここを霊地とし、北向きに社殿を造営した。

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兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町に、「伊和神社」(いわじんじゃ)が鎮座します。

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伊和神社は播磨国一宮で、「海神社」「粒坐天照神社」と合わせて「播磨三大社」と総称されます。

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創建は、一説に成務天皇甲申歳(144年)、あるいは欽明天皇二十五年甲申歳(564年)とされています。

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創祀の由来は、神体石の「鶴石」伝承によるものと、言い伝えられてきました。

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鬱蒼とした参道を左手に折れると、社殿が見えてきました。

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広々とした境内。

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中央に、一宮に相応しい、重厚な拝殿が鎮座しています。

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『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなしています。
よって、伊和神社の祭神は「大己貴神」となっており、 「少彦名神」と「下照姫神」が配祀されています。

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下照姫は、因幡国の曳田家・八上姫と大国主の間に儲けられた姫で、「木股姫」とも称せられます。
健葉槌(天稚彦)と結ばれ、倭文神社の祭神となっています。

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『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社」(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ/伊和に鎮座する大己貴神の社)とあり、正暦2年(991年)、正一位の神階に叙せられました。

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『風土記』では、伊和大神は出雲から来たと記され、語源は、神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和」(おわ)と呟いたためとしています。

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伊和神社の拝殿内は、立派な絵馬が多数掲げられていました。

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当地の伝説として、次のようなものがありました。

伊和の大神には三人の息子がいました。ある時、姫路から遷座の誘いがあり、三人とも姫路へ行くことを望みました。
そこで伊和大神は「お前達の中で、一番鶏が鳴かぬ間に一番早く姫路へ着いた者を認めることにしよう」といいました。
それを聞いた二番目の息子が、家の下男に頼んで鶏の口をくくらせておき、それで姫路へ一番に着くことができました。
よって、二番目の息子が伊和から姫路へ遷ることが決まり、この時から伊和神社の鶏は時を告げないということです。

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この伊和大神について。
出雲には古くから、特殊な形状の巨岩を、男神の岩女神の岩などと呼び、サイノカミに由来する岩神信仰がありました。
それが、出雲王と関連づけられて話がつくられるようになり、その結果、大国主(大名持)が伊和(岩)の神と呼ばれるようになっていきました。

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出雲・大和連立王国時代には、播磨の地は出雲王国の一部として、重要な地域でした。また播磨は、出雲・大和両国の政治と文化の中継地としての役割も持っていました。

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それで両国のシンボルである銅鐸が、伊和神社のすぐ西方、閏賀(うるか)の地から出土しています。

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播磨地方は、古くから出雲文化の影響を多く受けていたので、出雲の岩神信仰もさかんに行われていました。それで当地に伊和の地名がついたと考えられます。

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『播磨国風土記』の宍禾(しさわ)の郡・伊和の村に、次のような記事が記されます。
「伊和の村、もとの名は神酒(みわ)である。(伊和の)大神が酒をこの村でつくった。それで神酒の村と言った」

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これは大和の三輪山の神が酒の神であるので、伊和の神も酒つくりの神と言われるようになったことを示しています。
手柄山(姫路市)の南側はもとは三和山とも呼ばれ、その山麓にある生矢神社(いくやじんじゃ)はもとは三輪明神だったとされます。

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ある時、但馬北部を海部族に奪われたヒボコ勢が、播磨ヘ侵攻するという事件が起きます。
ヒボコ族は、辰韓国から渡来した天之日矛(アメノヒボコ)の子孫でした。彼は当初、出雲に上陸する予定でしたが、出雲王の提示した法律・八重書きの順守を拒んだため、上陸を禁じられ、海を彷徨うこととなりました。
辿り着いたのは円山川のほとりで、そこは沼地でした。天之日矛らはその場所を開拓し、自らの生活する土地を確保できましたが、相当な苦労がありました。

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その結果、ヒボコの子孫らは出雲王に恨みを持ち続けていたのです。
もちろん、とんだ逆恨みなのですが、その恨みの気持ちが、彼らの播磨侵攻の原因の一つであったのは事実です。

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『播磨国風土記』に、次の記事があります。
「八千軍(やちぐさ)というのは、ヒボコノ命の軍勢が八千人いた。それで八千軍野と言う」
八千という人数は比喩ではありますが、当時ヒボコ軍の数が多く、勢いが盛んであったことが記録されたものと考えられます。
八千軍野は、中国自動車道の福崎インターのすぐ南のあたりだそうで、今は地名が八千草(福崎町)に変わっています。
そのさらに南方の粳岡(ぬかおか)という場所について
「粳岡で、伊和の大神とヒボコノ命の二柱の神が、おのおの軍をおこして、あい戦った」
とその戦の記録を書いています。

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突然のヒボコ勢の侵攻に、出雲軍は後退を余儀なくされました。
「客神の神(ヒボコ)の武勇の盛んなことを恐れて、主の神(オオナモチ)は先に領地を確保しようと巡り、粒丘に登りついて食事をされた。そのとき、口から飯粒がこぼれた。それで粒丘という。その丘の小石は皆、米粒によく似ていた」

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さて、通常神社というものは、神様が太陽に向くよう、東か南向きに造られるのが常となります。
しかし伊和神社の本殿は北を向いています。なぜか。

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それは当社創建の由来となった、磐座「鶴石」が北を向いているからだということです。

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鶴石は、本殿の真裏に鎮座しています。

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「我を祀れ」と伊和恒郷の夢に現れた大己貴神。西の野で一夜にして木々が群生し、大きな白鶴2羽が北向きで眠っていたという石が、

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これ。鶴石です。

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うむ、そうですか。
これはあれですね、いわゆる要石などと呼ばれる信仰と同じではないでしょうか。

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安政2年(1855年)の同神社の境内絵図には、鶴石を「やうがふ石」(影向石/ようごういし)と記されているそうで、また、明治28年(1895年)には、「降臨石」と呼ばれていたともあります。

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本当にこの石の上に鶴が寝ていたとは考え難く、鶴・亀(ツル・ギ)の信仰を当地で行っていた一族がいたのではないかと疑ってしまいます。

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伊和神社の裏参道、「西参道」にも

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隋神門があります。

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隋神門を潜らず右手に行くと、

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池に浮かぶ、「市杵島姫神社」がありました。

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当社の鎮座地「宍粟市」(しそうし)は、古い呼び名の「宍禾」(しさわ)からきたものだろうと思われますが、「粟」の文字が当てられているのも気になります。
「粟」って「そう」なんて呼び方、しますかね。

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境内の北参道側には、変な岩積みがありました。

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これは磐座遺跡とかいうのではなくて、オブジェ的なものでしょうか。

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伊和神社にも射楯兵主神社と同じく、「三つ山祭」・「一つ山祭」が伝えられています。

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しかしこちらは、三つ山祭は61年に一度、一つ山祭は21年に一度、催行されることとなっています。
三つ山とは白倉山・高畑山・花咲山、一つ山とは宮山のことで、これら四つの山は伊和神社を囲む位置にあり、それぞれに岩磐と祠があって、祭礼では山々を遥拝するのだといいます。

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磐座信仰ばかりでなく、山岳信仰の片鱗も残す伊和神社。
まだまだ隠された謎があるのかもしれません。

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3件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU より:

    こんにちは🌱

    来月下旬に、伊和神社は、ここの近くにある野見宿禰神社、生石神社、生矢神社とセットで予定しました。野見宿禰神社の近くに素敵なお宿を見つけました☺ 竹とか梅玉とかいう名前がついてました。(曖昧)

    やはり鶴石。。これは要石的なものなのでしょうか。気になります。。

    ところで野見宿禰神社、野見大田彦のお墓(松江の分骨されたお社も含む)はこのブログで探したのですがありますでしょうか。私の検索が下手でできてないだけかな。。先にこの伊和神社とか、他の兵庫県のお社がヒットしました。

    たしか、兵庫県のほうの野見宿禰神社はこのブログで読んだような気がしています。松江のほうは探せませんでした。

    また、以前、五条さんの人麿古事記。。を読んで知ったのですが、巻末近くのページに、菅原道真公をとても敬愛されていて(こんな陳腐な言い方しかできなくてごめんなさい)、なるほど、なんかわかるなあと思ったことを思い出しました。

    生誕地である、松江の菅原天満宮は、雲州氏の大元本に書いてあってとても感動しました。彼の出生秘話は切ないけれど。。是善とその案内役の乙女とのストーリーを想い描いてしまいました。その乙女=道真公の母が、道真公の父に案内したのが野見大田彦の分骨された菅原天満宮の上にあるお墓ですよね。

    私は以前、あそこでボーッとしていたら、太陽の光柱がちょうど御神木?の真上から真下にまっすぐさして来てきて、あそこの御神域に圧倒されました。その後に、太陽の光がちょっと下の石碑を照らしだして、あの石碑はなんだろな?と思って降りて見たら、その石碑には大巳貴命と書かれていました。思わず、野見大田彦と八千矛の最期のことを想い、手を合わせました。

    菅原道真公は、以前自分が病気をしたときのお守りと、生誕地にある私の名前がひらがなで書いてある、◯◯守り、を今でも必ずカバンに入れて持ち歩いています。生誕地の梅は、ご飯で炊いて食べます。

    菅原道真公の誕生秘話や野見大田彦がイクメの命で、田道間守を淡路島に追いやり、軍を率いて出雲に帰るまでの複雑な心境と悲話が、かなりの確率でこのブログにあるのではないかと思って探しているんですけど、ブログ内でサーフィンしてる感じですが、未だに探せません(T_T)

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  2. 匿名 より:

    narisawa110
    伊和神社って松本市にもありましてね。
    天武天皇期に信濃に遷都しようかどうかみたいな計画があったらしいです。
    結局は実現になりませんでしたが。
    たしか美ケ原温泉はその時からの伝承だった気がします。

    松本市の国府があったのではないかと言われるのがその地ですが、惣社の地籍になっています。
    大きなエリア名だと里山辺。山野辺の道みたいな名前になっています。

    ただ、諱が山部って桓武天皇なんですよね。
    お母さんが半島系
    須々岐水神社のそばの針塚古墳は朝鮮系王族のケルノマオイが来たという伝承があります。

    平安時代初期の桓武天皇年間(781年~806年)に諏訪の御柱祭実施の記載があり、語り部矢島さんの先祖(安倍清明の家系)も入ってきていますので桓武期までは少なくとも遷都しようかどうかの動きが続いていたのだと思います。

    それでみんな諏方に来たんじゃないかとw

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 より:

      日本のヘソだから、皆んな来たかったのかなぁ🤔

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