白山神社(宇佐):常世ニ降ル花 越智弦月篇 09

投稿日:

b021546-2022-02-1-09-50.jpg

宇佐神宮の元宮、大元神社の正覚寺登山口に向かう途中、「左用之神」という場所がありました。

b021547-2022-02-1-09-50.jpg

左用之神?
ああ、サイノカミか。

b021548-2022-02-1-09-50.jpg

一応、鳥居のようなものが立てかけてあり、

pb021548-2022-02-1-09-50.jpg

こんなとこにもサイノカミ。
これはちょっとやりすぎじゃ?!

b021549-2022-02-1-09-50.jpg

しめ縄代わりのねじれた枯木がすごい。

b021550-2022-02-1-09-50.jpg

c1d-2022-02-1-09-50.jpg

b021551-2022-02-1-09-50.jpg

さらに進むと道の脇に、ひっそりと社殿が佇んでいます。

b021565-2022-02-1-09-50.jpg

これは「白山神社」。

b021552-2022-02-1-09-50.jpg

どうやら先程の左用之神あたりから参道が続いていたみたいです。

b021554-2022-02-1-09-50.jpg

厳かな鳥居の先には

b021557-2022-02-1-09-50.jpg

石仏群が。
道祖神でしょうか。

b021556-2022-02-1-09-50.jpg

これらのものが大元神社と関連して鎮座していることは明白であり、宇佐と出雲の結びつきを感じます。

b021558-2022-02-1-09-50.jpg

やはり宇佐家、ひいては豊王家は出雲に近い一族だったのか。

b021555-2022-02-1-09-50.jpg

下った参道を戻っていくと

b021560-2022-02-1-09-50.jpg

先程の社殿が見えてきます。

b021563-2022-02-1-09-50.jpg

そこに建つ鳥居の扁額を見て驚きました。

b021564-2022-02-1-09-50.jpg

「三嶋宮」とあります。
ここは白山神社ですが、たくさんの道祖神が鎮座し、三嶋が関わっているのです。

b021566-2022-02-1-09-50.jpg

宇佐公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』によると、宇佐稚屋は伊予国の越智氏と数年にわたって戦ったと伝えられ、その時に彼は、越智宿禰の娘ですでに夫も子供もあった「常世織姫」(とこよおりひめ)を拉致して凱旋し、そのまま結婚をして宇佐押人が生まれたのだと記してあります。

b021567-2022-02-1-09-50.jpg

この稚屋とは富家の伝承に照らし合わせると、「菟狭津媛(うさつひめ)=豊玉姫」の息子「豊彦」となります。

b021568-2022-02-1-09-50.jpg

豊彦は物部イクメの裏切りによって大和を追われ、上毛野国(群馬)に彼の王国を築きます。
その子孫「竹葉瀬ノ君」は長野を経て新潟の「居多神社」(こたじんじゃ)から滋賀に渡り、そこで秘密裏に神功皇后の養子となり、応神帝として大和の15代大君に就任したと考えられます。

b021572-2022-02-1-09-50.jpg

その竹葉瀬ノ君のルート沿いに越智神社が鎮座しており、滋賀の越知山越知神社では当社が白山神社の大元社であると伝えられていました。

b021573-2022-02-1-09-50.jpg

つまり豊王家と伊予国の越智家は親戚関係であり、白山信仰は越智家に由来しているということです。
先の月神磐座信仰の痕跡があった白山神社遺跡やこの白山神社が、豊家の最大聖域・大元神社が鎮まる「御許山」(おもとさん)を遥拝するように鎮座しているのはとても興味深いです。
白山神社遺跡の磐座群は、御許山の埋め墓に対する拝み墓なのかもしれません。確かに神魂神社裏の東出雲王墓に似た雰囲気があり、太陽信仰を主とする丸みを帯びた石がそこに多かったのに対し、白山神社遺跡のそれは月読の巫女に相応しい月形をしていました。

b021571-2022-02-1-09-50.jpg

あとは三嶋がこれにどう絡むのか。
僕は三嶋家の祖に越智家が関わっている痕跡を、わずかながらに得ていました。

b021576-2022-02-1-09-50.jpg

白山神社の脇に、池がありました。

b021582-2022-02-1-09-50.jpg

美しい、明神の池です。

b021584-2022-02-1-09-50.jpg

これは月読祭祀の水鏡でしょうか。
そして顔を上げた先には、白き月の山、女王・豊玉姫の眠る禁足の聖地が見えていたのでした。

b021577-2022-02-1-09-50.jpg

c1d-2022-02-1-09-50.jpg

b021587-2022-02-1-09-50.jpg

御許山のふもとにもう一社、白山神社がありました。

b021588-2022-02-1-09-50.jpg

やはり拝殿は、御許山山頂を遥拝するように建てられています。
宇佐公康氏は宇佐家と越智氏は数年にわたって戦ったと伝えていましたが、彼らの仲を取り持ったのが越智宿禰の娘「常世織姫」だとしたら、彼女こそが菊理姫の正体であると思われるのです。

b021586-2022-02-1-09-50.jpg

10件のコメント 追加

  1. 暖々空間 より:

    初めてコメントさせていただきます。最近古代の歴史に興味を持つようになり、ブログを拝見して勉強させていただいている者です。私の地元は、兵庫県の佐用町というところで、佐用都比売神社という神社があります。昔は鉄もとれた地です。出雲王朝のことを知ってから、佐用もどのように影響を受けているのかを一人思い巡らせるのが楽しいです。この記事で「左用之神」がサイノカミ、というところに反応してしまいました。拙い質問ですが、讃容(佐用)もそうなのでしょうか?サヨヒメ(玉津日女)なので幸姫様でしょうか?播磨風土記では、「讃容」となります。讃容の行は伊和の神との国とりや、農業神事に関係して色々と考察されています。地名や姓などにも面白い話があり、妄想は尽きません。

    ところで別件ですが、茨城県の御岩神社(後編)に出てくる山頂の、一つのお岩の写真を、個人的に保存させていただきました。勝手に、また御岩神社のところでコメント欄を見つけられず申し訳ございません。
    このお岩、昨年?あたりから知る人ぞ知る秘密の御神体、スフィンクス、イザナミ様などと言われています。実は先日山頂に登ったのですが、降りてからそのことを知りました。多分あの岩かな?と思ってはいたのですが、このブログで再確認すると、やはり、しかもバッチリお撮りになられていまして、やっぱりそうかと納得いたしました。大岩が幸神とすると、そのお岩が幸姫なのかなと思いました。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      暖々空間さん、『偲フ花』へようこそお越しくださいました。
      兵庫は伊和神社があるように、出雲と深い繋がりがある土地だと思います。佐用津姫は幸姫(さいひめ)だったのかもしれませんね。ただ玉津日女という名前が気になります。玉は勾玉の他に月を意味するのではないかと僕は考えており、玉の津の姫=月読の巫女でないかとも思います。『昔,伊和大神と玉津日女命の兄妹が国の占有を争ったとき,妹が鹿の腹を割いてその血を用いて稲を蒔いたところ,一夜にして苗が生えたので,兄は「五月夜に植えたな」といって別地へ去った。それで,そこを五月夜郡と呼び,妹の神を賛用都比売命と呼ぶようになった,という地名起源説話が讃容郡の条の冒頭にみえる。』という話から、伊和大神=出雲族、玉津日女命=豊もしくは越智族ではないかなどと思ってしまいます。佐用の語源を五月夜としていますが、五月=皐月の皐とは『白と、夲(とう)とから成る。白光が放出するさまにより、しろい意を表す』とあり、白光とは月を表すのではないでしょうか。まあわかりませんが。
      佐賀にも佐用姫伝説があり、佐用姫が鏡山のちょっと面白い場所に鎮座しています。やはり豊・越智系を匂わせる場所です。

      佐用姫伝説

      御岩神社に関しましては、コメント受付ができなくなっていましたね。たまにそんなふうになることがあって申し訳ないです。今は修正させていただいております。あの岩はイザナミ様と呼ばれているのですか。僕は全く意識していませんでしたが、確かにパッチリ撮ってますね😁。

      いいね

      1. 暖々空間 より:

        ありがとうございます!CHIRICO様 五条様に氏神様を解説していただけて感激です!
        なるほど、玉津日女は月読の巫女かもしれないんですね。佐用都比売神社は裏参道の方角に向かっている?気がしていまして、裏参道の先は地元の愛宕山(池もいくつかあります)があり、その辺りには広島(安芸)、福岡、諏訪を思わせる珍しい苗字の方がいらっしゃったりして、とても気になっていました。確かに夕日、お月さんの方角だと思います。
        神社から北西、さらに奥の地域は、播磨風土記では吉川(えがわ)、元の名を「玉落川」と言います。これもまた豊につながるのかもしれませんね。そういえば、そこに豊福という地名もあります。現在の江川周辺は少し面白い地域で、たたら跡もあれば安倍晴明と蘆屋道満の宝篋印塔があったり、ひっそりと伊勢岩と亥の子行事があったりします。また美作との境に「末包」=末兼という地区があり、藤原鎌足の末子が何故か住んだのが名前の由来だそうで、その子孫がこれまた何故か讃岐に移り住まわれているそうです。
        山に囲まれた小さな町ですけれど、いろんな歴史、つながりを見せてくれるようで面白いです。このようなことに目を向けさせていただいた、CHIRICO様とこのブログにとても感謝しております。うれしくて、長々と申し訳ありません。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          こちらこそ詳しい神社のご紹介をいただいて、佐用都比売神社にとても興味が湧いてきました。いつか訪ねてみたいです。
          保護中の記事は検索対策でロックがかかっていますが、omouhanaでご入場いただけます。良かったらご覧ください♪

          いいね

  2. narisawa110 より:

    五条先生のおかげで私も越智病にwwww

    やっぱり人の話は何回も、何回も、何〜回でも聞かなければならないんですね。

    ここの豊彦との話は、非常に重要ですよね
    前に二田物部氏を社家が三島家と言うことで、越智にたどり着くという話になりましたですよね。
    何げに、物部系の三島と唐でないものがあって、迷ってると。

    よく考えたら、豊彦って、男系で言ったら物部豊彦になるわけでwwww

    当然に物部系の三嶋と、集合してない方の三島に分かれるわけですよね。
    宇佐公康さんの伝承は非常に重要だと再認識しましたです。

    こんな見落としってww

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      そうですね、豊彦も物部なんですよね。
      魏志和国の都でもイニエと豊玉姫の息子のように書いてあったと思います。
      ただ、僕には豊彦に物部の印象は限りなく薄く映ります。豊彦も連れ子だったんじゃないのかなぁ。
      まあどちらにせよ、物部の父親を持った豊彦と越智家が習合した三島という線は成り立ちますね。なるほどそれとは別に、純粋な越智系の三島が別にあると。ありうると思います。

      いいね

  3. nakagawa より:

    三嶋にびっくり!!!

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      記事をアップするまで、すっかりこの写真のことを忘れていました😅
      そう、驚きですよね、社殿の扁額は白山神社なのに、鳥居には三嶋宮。
      鳥居の扁額は比較的新しいもののようなので、誰かがそう言い伝えられているのだと思います。

      いいね: 1人

  4. 匿名 より:

    ふぉおおお♪───O(≧∇≦)O────♪

    三嶋でありますか。
    それも九州の。
    三島家は九州の出自の一族ということなのですかね。

    紀元前10世紀からの水稲遺跡がある九州

    三島は一族発展のために、出雲より先にヤマトに入植していたのでしょうかね。

    いいね: 2人

    1. CHIRICO より:

      でしょでしょ、ムネアツですよね〜♪
      九州も九州、あの豊玉姫の御陵のお膝元ですよ。
      御許山ふもとに3つの白山神社があって、そのひとつが三嶋とも呼ばれていたと誰かが伝えたくて残しているわけですよ。
      越知山越知神社の御神職は「白山の大元は越智じゃ〜」とおっしゃてて、宇佐の公康さんは「豊彦っぽいやつが越智の姫をかっさらったんじゃ〜」と言ってて、御陵のそばに白山だけど三嶋だよっていう神社がひっそり隠されていたんですからね。
      どうします、これ、誰か本にできませんかね、たすけてドラ○も〜ん!!

      この白山神社は半年前くらいに訪ねていたのですが、鳥居のことはすっかり忘れていました。こんだけしっかりアップで撮っているので、その時は「ん?」ってなってたんだと思うんですけど。
      それでnarisawaさんと三島じゃ越智じゃと盛り上がっていて、なんとなくブログ書いていたら、あ、あったよこんなのが、って感じですよもう。

      思うに、越智ってオロチっぽいですよね。龍蛇神族じゃないですかね。出雲に来たドラヴィダ族のうち、やっぱ出雲は寒いよって人たちが中国産地を越えて、瀬戸内・九州方面に拠点を広げたんじゃないですかね。その大三島の人たちが三島じゃ〜って名乗り出したんじゃないですかね。ああロマンが広がる。。

      いいね: 1人

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください