貞婦 玉主売の墓

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『壱岐牛』
それは壱岐島の繁殖農家で生まれ、肥育農家で育てられ、島を一度も出ずに育てられた壱岐生まれ、壱岐育ちの牛。
壱岐では、紀元2~3世紀初頭と推定される牛骨や牛歯が発見されており、古代人も愛した神の島の和牛、それが『壱岐牛』。
鎌倉時代の文献に「筑紫牛に優ぐるものなし」と記された、それこそが『壱岐牛』。
潮風によって海のミネラルを豊富に含んだ牧草を食べ、やわらかく、コクがあり、キレがある最上級の名牛へと育った『壱岐牛』。
年間8~900頭ほどしか出荷されず、市場へはほとんど出回らないという、幻の和牛『壱岐牛』。

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ああ憧れの『壱岐牛』よ、今こそ我も、万感の思いを込めて食そうではないか!これぞ本物の『壱岐牛』というものを!

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ほっほう、なるほど、そうきたか。
だが、我は恐れまい。オヤジ、おすすめを!

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きた~っ!ナニコレ、しゅごい。

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メニューのお写真よりも、ロースの枚数が少ないようだが、気にするまい。これはいいものだ!

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あ、あぶらが、ジュンってしてきた。

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うほひょぃ、お肉が、お口の中で溶けたよくぁwせdrftgyふじこlp

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壱岐島の「原の辻遺跡」(はるのつじいせき)にやって来ました。

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原の辻遺跡は、壱岐島東部・幡鉾川下流にある、紀元前2~3世紀から紀元3~4世紀(弥生時代~古墳時代初め)までの、大規模な多重環濠集落です。

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『魏志倭人伝』に記された「一大国」(一支国/いきこく)の国都とされており、「登呂遺跡」(静岡県)、「吉野ヶ里遺跡」(佐賀県)と同じく、国の特別史跡に指定されています。

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敷地内を歩いてみた感じは、コンパクト吉野ヶ里、と言った印象でしょうか。

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大社造り、いや、「神魂造り」を思わせる神殿もありました。

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出土品は国の重要文化財に指定されていますが、中でも3~4世紀頃に作られたと考えられる「人面石」が一躍有名になりました。
この面を付けると、触手が後頭部に突き刺さり、スタンド能力が覚醒する仕組みになっています。

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壱岐のことを知りたければ、「壱岐市立一支国博物館」(いきしりついきこくはくぶつかん)に来たらいい。
常設展示室では、原の辻遺跡をはじめ、島内に点在する遺跡や古墳から出土した貴重な実物資料を約2000点展示されています。

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でも今日の僕のお目当ては別のところ。
どのみち、美術・博物館系は、月曜休館だもんね。

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博物館の敷地に祀られる石祠。

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おお、すごいな。

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なんだか出雲的な雰囲気を感じさせますが、祀られていらっしゃるのは、どなたでしょうか。

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そこから数分ほど降りていくと、

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「比売神社」(ひめじんじゃ)が鎮座しています。

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当鎮座地は、太古に目の前が海岸(湿地帯)であった時、真埼(まさき)の渡所であったので、「砥宮」(とのみや/渡ノ宮)と呼ばれていたそうです。

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ここには、比売大明神として、「玉主売」(たまぬしめ)を祀っています。

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玉主売とは、天児屋根の子孫とされる姫君です。

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天児屋根の11代後に「中臣烏賊津」(なかとみのいかつ)がいます。
彼は「雷大臣」(いかつおみ)とも呼ばれ、神功皇后の二韓征伐に付き従った重臣のひとり。皇后の神懸かりにおいて、審神者を務めたとされます。
その烏賊津の子が「壱岐直真根子」(いきのあたいまねこ)であり、真根子から数えて16代後に「壱岐直玉守」(いきのあたいたまもり)がいます。
この玉守にどのような功績が伝わっているかは分かりませんが、彼の娘が玉主売です。

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白塗りの簡素な社殿は、どことなく高貴な姫君の気配を感じさせます。

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姫が見ているのは、かつては海で湿地であったと言う風景。

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今は平和な、田園の景色が広がっていました。

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比売神社から西に少し歩いたところに、

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貞婦「玉主売の墓」があります。

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玉主売は15歳で夫を失いましたが、その後も再婚せず、30余年の間、夫の墓を守り続けました。

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やがてこのことが、朝廷の耳に入り、玉主売は宝亀3年(772年)12月に爵2級を賜り、一生田祖を免じられ、表彰されることになりました。

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江戸時代の安政年間初期に、平戸藩親衛士隊長の葉山高行が、この墓のいわれを藩主に進言。それを聞いた平戸藩主は感動し、安政2年(1855年)に葉山に命じて碑文を作らせ、この地に石碑を建てさせました。

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若い身空で亡き夫に操を立て続けた、姫君の物語。
熟年離婚も多い世知辛い世に、沁みるお話です。

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それにしても、壱岐の古い墓も、対馬の裏八丁郭に似ているなと思いました。
やはり二つの島は、古来より繋がっていたのでしょうね。

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