
高木の神が言った。
「天つ神の御子よ、これより奥に行ってはならぬ。数多の荒ぶる神がそこにはいるのだ。今、天より八咫烏を遣わす。その八咫烏がお主を導くので、後について進みなさい」
それで教えに従い八咫烏の後をついて行くと、吉野河の下流に着いた。
時に筌(うえ/漁具)を作り、魚を取る者がいた。
そこで天つ神の御子が、「そなたは誰か」と問うと
「私はこの土地の神で、名は贄持之子(にえもつのこ)です」と答えた。
これは阿陀(あだ)の鵜飼部の祖先である。
そこから進むと、尾の生えた人が井戸から出てきた。
その井戸の中は光っていた。
「そなたは誰か」と問うと
「私はこの土地の神で、名は井氷鹿(ゐひか)です」と答えた。
これは吉野首(よしののおびと)の祖先である。
さらにその山に入ると、また尾の生えた人に会った。
その者は岩を押し分けて出てきた。
そこで、
「そなたは誰か」と問うと
「私はこの土地の神で、名は石押分之子(いわおしわくのこ)です。今、天つ神の御子がおいでになると聞いて、お迎えに参りました」と答えた。
これは吉野國巣(くず)の祖先である。
- 古事記 -


ぷるんぷるんの食感と、優しい甘さ。そして体にも良い。それが「吉野葛」。
しかし奈良の吉野には、国栖(くず)と呼ばれた一族がいました。

そもそも、吉野とは何故に吉野なのか。
吉野川という川が流れていますが、それは吉野に流れているから吉野川なのではなく、吉野川が流れているから、吉野と名付けられたのではないか。
吉野川は和歌山で紀ノ川と名を変えるのでわかりにくいですが、実は紀伊水道を挟んで四国と繋がる一本の川と捉えることができます。
その全長は360kmを超え、日本一長い川とされる信濃川(367km)を超える可能性すらあります。
しかも吉野川は四国の2/3を流れており、日本一の大きさの川中島「アワ島」もそこにあります。

四国の越智地区には国栖族の王である「天石門別安国玉主天神」を祀る神社があり、この神は「天石門別神」(あまのいわとわけのかみ)と一般には呼ばれ、玉主命、大国栖玉命、大刀辛雄命、櫛石窓神、豊石窓神、天石都倭居命などの別名があるとされます。
そして奈良側の吉野川、その吉野山周辺には、この国栖族の里と呼ばれる場所があるのです。

さらにそこに、越部(こしべ)、阿知賀(あちが)という誠に興味深い地名に挟まれた一角があり、国栖神神社が鎮座しています。

ちなみにこの阿知賀は、JK麻雀アニメ『咲-Saki-』の聖地だそうな。
『咲-Saki-』は見ておりませんが、ヘーソウナノカー。今度見てみようかな。

「国栖神神社」(くずがみじんじゃ)は奈良県吉野郡下市町阿知賀字西中村の住宅街裏の丘の上にありました。

祭神は不詳。しかし石押分命とも云われます。

伝承では、ここより吉野川上流の「国栖の里」にあった國樔八坂神社が、洪水によって当地まで流され、これを奉斎したとされます。

『土佐国式社考』の「朝倉神社」の項では、その祭神である「天津羽羽神」の別名が「天石帆別」であり、『日本書紀』でいうところの「磐排別神」(石押分)と同神である旨を記しています。
さらに同書は、天津羽羽の”はは”は波宝神社の「波宝」の音に通じ、吉野三山の波宝神社は吉野国栖の祖神を祀ると続けていました。

とすると、当社祭神は、天津羽羽神なのでしょうか。
当地が越部(越智部)で阿知賀(越智賀)であるなら、天津羽羽神は國樔八坂神社の地から、故郷に由来のある地名の場所に流れ戻ってきたということになるのかもしれません。

国栖神神社の社前には、「白伯大明神社」が鎮座しています。

中にはかつての御神木であっただろう樹の幹が御神体として祀られています。
これは楠の木でしょうか。
「白伯」とは白川伯王家のことかもしれません。



奈良県吉野郡下市町阿知賀字中屋、国栖神神社から東に200mほど歩いた住宅の隙間に、「白髭神社」(しらひげじんじゃ)があります。

白髭神社は全国にちらほらありますが、祭神は主にサルタ彦だったりします。

しかしここは「豊受稲荷明神」、そう、伊勢稲荷です。
白髭神社に豊受大神が稲荷神として祀られているという、この意味深さ。
やはり先ほどの「白伯」は、白川伯王家で間違いないのではないでしょうか。

社殿の隣には、白い肌をチラ見せする、セクシーな御神木が。
これは、椋の木だそうです。



奈良県吉野郡吉野町矢治、この先の「国栖の里」と呼ばれる吉野町国栖の入口に鎮座する「岩神神社」(いわがみじんじゃ)に来ました。

目の前を吉野川が流れます。

岩神神社の神体は、社殿背後にある超圧巨体の岩で、祭神は「岩穂押開神」(いわほおしわけのかみ)と伝えられます。

この王蟲のような磐座は、境内から見える範囲で高さ13m~14m。全体でもっとも高い部分は22m30㎝あるのだということです。
岩倉の中央あたりが大きく割れており、東征する初代天皇を迎えるため、国栖の祖が岩を押し分けて出てきた神跡だと伝えます。

しかしその伝承は、記紀の話に忖度して、後に組み込まれたものであろうと思われます。
本来は境を守るサイノカミやアラハバキのような存在の磐座であったと考えられます。



天智帝には父親の違う兄がいた。宝姫と石川臣武蔵との間に生まれた大海人皇子である。
天智は年上で、才に長けた大海人の協力を得るため、彼を皇太兄とし、天智の4人の娘を大海人に与えた。これは天智帝の次に、大海人皇子が大王になることを意味していた。
ところが妃が生んだ大友皇子が優秀であったので、天智帝は兄の大海人ではなく、息子の大友皇子に位を譲りたくなった。
669年、中臣鎌子が亡くなる前日に彼を内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
671年、大友皇子を太政大臣とした。
同年10月17日、病床の天智帝から大海人の元へ使いがやってきて、皇位を授けるので宮廷へ出向くように伝えられた。その使いは、かねてより大海人が目をかけていた蘇賀臣安麻呂であった。
安麻呂は「用心くださいませ」と大海人に耳打ちをした。その言葉で大海人は全てを察した。
「私は出家し、帝のために功徳を修めたいと存じます。どうぞ大友皇子を皇太子となされますよう。」
そう天智帝に告げ、即座に吉野宮へ向かい出家した。
この様子を見たある官人は、「これじゃあまるで、虎に翼をつけて放したようなものだよ」と、つぶやいたと云う。
その10月には、藤原鎌足の三回忌があったが、天智帝は床に伏していた。
帝の体調が少し良くなった12月3日、仕えの者が申し上げた。
「少々遅くなりましたが、鎌足様の法事にお出かけになられてはいかがでしょうか。天気もよろしく、きっとお気分も晴れましょう」
確かに寒空久しい晴れ間に、清々しい気分ではあった。
「馬を用意せよ」
天智は馬に跨り、数人の供をつけ、藤原邸のある山科の郷へ向かった。なんとも健やかな日であった。
これまで流し続けた血の怨念は、天智の心に澱のように溜まっていたが、今日は空の彼方に広がる雲のように軽く感じられた。
「我が世はここから、芽吹く花のように謳歌し続けるであろう」
だが、帝がふたたび帰京することはなかった。宮の者は永く山林を探したが帝の姿は見つからず、木幡山の細道に履かれた沓だけが残されていた。
ついに天智帝は帰らぬものとされ、672年、大友皇子は大津宮で弘文大王となった。そして翌年の673年6月、壬申の乱が起きた。
- 『人麿古事記と安万侶書紀』(写真:お好み焼き 恵)

吉野の深部に、山と吉野川に挟まれた小さな集落、「国栖(くず)の里」があります。
天智帝が兄の大海人ではなく、息子の大友皇子に位を譲りたくなり、それに危機を感じた大海人(のちの天武帝)が逃げ込んだのが吉野でした。
そしておそらく彼を匿ったのが、国栖族だったと思われます。

国栖の小高い丘の上に、「犬塚」があります。
大友皇子は追手として鷹の「ミルメ」と犬の「カグハナ」を放ちました。
この時、大海人皇子をひっくり返した船の下に匿ったのが「国栖の翁」という人。しかしカグハナが船のまわりを嗅ぎまわったので、翁はカグハナを打ち殺し、大海人を救ったのでした。
そのカグハナの遺体を葬った場所が犬塚だったと伝わります。(しかし実は大海人の愛犬を誤って殺してしまったとも伝えられます)
この犬塚は、もともと古墳の上にあったものを移築したという話もあるので、カグハナは人だったのかもしれません。

カグハナを撃ち殺した石は御霊神社に奉納されていると伝えられ、狛犬も置かれていないのだと云います。
当地区では、今も犬を飼わないようにしているそうで、犬を飼ったり、犬の形をした置物を置いたりすると、不幸にあうのだそうです。

さらに吉野川上流に、大海人(天武)が数日間住んだと伝える場所があります。
そこは天女が衣を掛けたと伝わる「衣笠山」を見る、深緑を映す「天皇淵」の先にありました。

記紀に記される、初代天皇東征の折、当地に現れたという有尾の国栖族とは、いったい何者か。
当然、尾のある人間などはいるはずもなく、それは龍蛇神の信仰を表しているのではないかと思われます。

国栖(くず、くにす)は「国巣」「国樔」とも書かれ、栖は鳥の巣を意味します。
つまり、この字は蔑称である可能性が高い。
なので以後は極力「国主」と書くことにします。

クズの由来は、葛であったり、楠であったり、国須・国蘇・久須・玖珠・九頭などであったりしたのではないでしょうか。
葛城も本来は「クズ来」で、彼らが定住した地だったのかもしれません。僕の考察である、阿波族(ワナサ)が出雲にドラヴィダ族を呼び寄せたというように、国主族がクシヒカタを葛城にエスコートしたのかもしれません。
葛城にはツチグモ伝承がありますが、クズ族もツチグモ族とたびたび同一視されています。

高知県高岡郡”越知”町に鎮座する天石門別安国玉主天神社の祭神「天石門別神」(あまのいわとわけのかみ)は、その別名に「大国栖玉命」と呼ばれるものがあり、国主族の祖と伝えられます。
天石門別神は古来より、天皇の宮殿の四方の門に祀られていたという、由緒ある神の一柱でもあり、さらにこの神は、天の岩戸神話の「手力男命」(たじからおのみこと)とも伝えられ、高知の朝倉神社祭神「天津羽羽神」(あまつははのかみ)の父とされます。

『土佐国式社考』の「朝倉神社」の項では、天津羽羽神の別名が「天石帆別」であり、『日本書紀』でいうところの「磐排別神」と同神である旨を記しています。
古事記で初代天皇が吉野で出会ったという尾の生えた人は、「石押分之子」(いわおしわくのこ)とされますが、これは、彼らが天津羽羽姫の子孫であることを意味しています。

時代は下り応神帝の頃、『日本書紀』によれば、帝が吉野宮へ行幸したときに国主族が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝えます。
また彼らは、人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたということです。
これが大和朝廷から珍しがられ、その後国主族は栗・年魚(あゆ)などを御贄(みにえ)に貢進し、風俗歌を奉仕するようになります。
『延喜式』には、宮廷の諸節会や大嘗祭において、吉野国主が御贄を献じ歌笛を奏することが例であったと伝えています。

さらに後の時代、大海人皇子が吉野で挙兵したとき、国主族の人は皇子に味方しました。
彼らは一夜酒や腹赤魚(うぐい)でもてなし、歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて「国栖の翁よ」と呼ばれたので、この舞は「翁舞」と呼ばれるようになりました。

壬申の乱で勝利した大海人皇子は「天武」として大君に即位し、大嘗祭などで翁舞を奏奉することを制定しました。
国主族の宮中への参勤はやがて途絶えますが、翁舞は南国栖村に継承され、明治10年(1877年)に今井町行在所(称念寺)において天覧に供され、やがて舞は国栖奏(くずそう)と呼ばれるようになります。

国栖奏は奈良県吉野郡吉野町南国栖の天王淵の先にあるこの神社、

「浄見原神社」(きよみはらじんじゃ)で、今も毎年、旧暦1月14日に奉納されています。

ここが天武帝が一時期住まわれたという社です。
祭神は天武天皇。

「世にいでば 腹赤の魚の片割れも 国栖の翁が 渕にすむ月 」
「み吉野に 国栖の翁がなかりせば 腹赤の御贅 誰れか捧げむ 」
「鈴の音に 白木の笛の音するは 国栖の翁の 参るものかは 」
「橿(かし)の生(ふ)に 横臼(よくす)を作り横臼に醸(か)める 大御酒(おほみき)うまらに 聞(きこ)し持ち食(お)せ まろが父(ち)」

さて、この国栖奏は、旧暦1月14日に奉納されるということ。
つまり新年初の満月の日ということです。

その日は月読みの神事で最も重要な日であることは、福岡久留米の赤司八幡宮の「竿例し」(さおためし)神事でも分かりました。
吉野三山・波宝神社の由緒から、月読みに長ける一族がそこにいた可能性を感じとりました。おそらくは皆既日食さえ予言したであろうカリスマ的月読みの巫女。
その一族がさらに東に移り住み、当地をその聖地としたのです。

「世にいでば 腹赤の魚の片割れも 国栖の翁が 渕にすむ月 」
国栖奏で最初に歌われるこの歌にある「渕にすむ月 」、これは天皇淵に映る満月を指しているのでしょう。
やはり彼らは、月を知る一族なのでした。

あ。。。誠に。。かなりかたじけないです。
本のネタバレをしたかもしれないということに、今気が付きました
m(_ _)m
あの、これから読まれる方、お願いですから↓のコメントの後半部分はどうか読まれないようにしてください。
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大丈夫です😊
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壬申の乱のことを最近よく考えるのですが。。大友皇子は母親が本当は伊賀の采女宅子?だったから弘文天皇として少しの間、即位したにも関わらず。。ほとんどの地方豪族から味方になって貰えずあっけなく壬申の乱で敗れて、天武天皇へという流れになったということはないのでしょうか。口伝とはちよっと違いますかね、この説は。
それから天武の父は石川臣武蔵だったのですね。なるほど。
天皇の出自は、その当時の皇位継承で結構大きな問題になるのかなと。また、大海人皇子こと後の天武天皇の、史上類まれな現天皇が現政にあるときの、クーデター的な要素を天武天皇に背負わせないために、天武天皇系の舎人親王が紀を編纂ということで、そう書かざるを得なかったのかなとかも考えてしまいます。まるで人麻呂や太安万侶のように。
天智天皇と天武天皇は腹違いの兄弟で天武の方がかなり年上だったようですね。記紀を見ると、中大兄皇子時代より以前から用心深く疑り深い天智天皇、自分の敵とみなしたらことごとく残酷にも排除しようとする天智天皇が、最期にあんな死に方するかな?とか、宝姫が天智天皇の死の間際を思わせるように詠んだ歌とか、人麻呂の詠み返しの和歌にもなにかの暗号があるのかなとか、結構なミステリーを感じてしまいます。天智天皇は誰かに暗殺されたのか。。宝姫は何か秘密の鍵を握ってるのかと妄想してしまいました。
近江京の軌跡を巡るために石山寺や三井寺へ次回は行ってみようかなと思いました。三井寺には、ひっそり隠されたかのように大友皇子を祀っている神社が奥のほう?にあり、近くには弘文天皇陵墓があるのですよね。何か分かればいいなあと。
五条さんのブログにも壬申の乱のことがあって楽しく学ばせていただきました。確か、五条さんは、舎人親王とルーツ的にクロスする可能性があるのですよね。 それは、語家として、私はアリ!に一票ですね☺
そして、血筋よりも何よりも、富家の口伝に行き着き、このように出芽🌱に愛おしさを感じる人には、みんな出雲人の血が流れてるということでいいのだ、そんな感じのことを書いておられて、それに私は激しく同意致します🙇 このブログで皆さんのコメントを見ながら、あ、ここにも出芽人が、ここにもあそこにも出芽人がと嬉しくなってしまいます。
特に大国主大神や大彦なんて子孫たくさんなんだから人類みな兄弟かも。でも本音を云えば、限りなく近ければ超絶嬉しいですよね(笑)私もウィキペディアで旧姓を出雲源氏の概要で見たり、家紋が沙沙貴神社にある四ツ目ぬい系で同じってだけでも嬉しい😄
↑こういうのって恥ずかしいことだと思うけれど、嬉しいから仕方ないんです。調べた兄貴やうちの曾祖父ちゃんにも、ナデナデしてあげたいくらいです。だから、五条さんの人麻呂古事記。。を読んだときの巻末の手記は、結構染みましたよ。
染みました(T_T)
ここが一番好きな場面です。何回も読み直しました。特にこのシーン、神紋を見て思わずアハッと笑ってしまうとこ。なんだうちの家紋とおんなじやないかと。(ここは映画のワンシーンみてるみたいでした)
染みましたよー
なんかわかるから。
沙沙貴神社で四つ目ぬいシリーズの神紋見て涙でましたよ。
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日本人としての感性を忘れていない人は、皆何処かで、偉大な出雲王に繋がっているのだと思います。そして野望を持って渡来した人たちが皆帰化したのも、日本という国土に、浄化というか、そういった力があるからなのだろうと思います。
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👏染みました
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