
諏訪社 伊那富村宮木に在り 上古の祭神は刺国若比売命なり 幾多の星霜を経て社殿朽腐に及び 神亀三年再建し 又久安二年六月再々造営し 此とき建御名方命をを合祀す 抑も当地は官幣社諏訪南宮祖母神の霊域にして 西方に周囲十五間高七尺余の古塚あり 即ち太古其神霊を欽むる処なり
-『南信伊那史料』巻之下


上伊那郡辰野町宮木に鎮座の、「宮木諏訪神社」(みやきすわじんじゃ)を訪ねました。

紅を差した秋の女神が、僕を迎えてくれます。

諏訪神社なだけに、立派な御柱が目に留まります。
narisawaさんの情報によれば、御朱印などはやっておらず常駐の方もいない神社なれど、諏訪神社の中ではちょっとした格の神社とのこと。
諏訪の御柱の前に神事が行われ、形式上、当社の神事が終わらないと御柱が出来ないという位置づけになっているそうです。

つまり、御柱祭りは宮木に始まるということ。
宮木という地名は、これに由来するのではないでしょうか。

無人とはいえ、堂々たる社殿です。

そして、これみよがしに掲げる「諏訪梶」。

当社を司るのは、諏訪神社上社の神官家の一つである、矢島家なのだそうです。
権祝(ごんのほうり)の矢島氏は、「高部」が発祥の地と伝えられますが、そこは「御頭御社宮司総社」「神長官守矢家」が近くにある場所です。

社殿の一部に丸太があるなぁと思っていたら、

巨木が屋根を突き破っていました。



本殿の右奥に、階段があります。

階段の手前には溝が掘ってあり、まるで結界を為しているように見えます。

こちらからだと、本殿を少し見ることもできました。

階段の途中には、天満宮があります。

意外と、どこにでもいらっしゃる天神様。
しかしこれは本来、手間天神社だったのではないでしょうか。

階段を登った先には社が三つ。

祭神はよく分かりません。

宮木諏訪神社の裏手の高台にはパラパラと小さな社が点在しています。

それらの多くには、〇〇姓と掲げてありますので、当地の氏神さんたちを祀っているのでしょうか。

この不思議な丘の名は「月丘の森」といいます。
月の丘の杜。そう、常世を思わせる、そんな神秘的な社叢です。

その一角に、素木の鳥居と石碑がありました。

石碑には「刺国若比売命陵」とあり、陵とは背後の塚を指しているようです。
塚は「ウバ塚」または「オバ塚」と呼ばれ、刺国若比売の墓だと伝えられます。

「刺国若比売」(さしくにわかひめ)とは、『古事記』において刺国大神の子とされ、天之冬衣(あめのふゆきぬ)に嫁いで大国主を産み、建御名方の祖母であるとされる姫神です。

刺国若比売の名はあまり聞き慣れませんが、八十神たちに殺された息子の大国主神を見て嘆き悲しみ、𧏛貝比売・蛤貝比売を遣わして蘇生させた神として、鳥取県西伯郡に鎮座の「赤猪岩神社」(あかいいわじんじゃ)に祀られていました。

しかし実際は、彼女は大国主の母ではなく、事代主、つまり出雲王国8代目少名彦の八重波津身の母である可能性が高いということになります。
天之冬衣の后で、建御名方の祖母であるというなら、そういうことになります。
ところが、天之冬衣には宗像家の田心姫も嫁いでいますので、断定するのは尚早です。

先の刺国若比売命陵の碑文には、健御名方が出雲から信濃入りする時に、祖母である刺国若比売も同行し、この月丘の森に宮居して長寿のあと亡くなったと記されていました。
いやしかし、と僕は思うのです。
たとえ刺国若比売が長寿であったとしても、老いた体で息子・八重波津身を失った悲しみを背負い、そのまま孫の建御名方と一緒に越国に向かい、さらに諏訪までやってこれたでしょうか。
八重波津身の息子は他に、天日方奇日方や鳥鳴海もいたのに、なぜ建御名方についていったのか。
それに建御名方は、母の沼川姫も連れて越入りしています。彼は母と、年老いた祖母を連れて、そんな長旅ができたのか。
さらに諏訪入りに際しては、洩矢族と戦争までしています。

富家伝承で、天之冬衣の后として田心姫の話は伝えられているのに、刺国若比売の名が見えないのも不自然です。
そこで僕はこう考えます。刺国若比売は元々、諏訪の姫君で、そのまま当地で亡くなったのではないかと。
彼女は越国の王・辺突辰為(へつくしゐ)の后で、沼川姫の母だったのではないでしょうか。

そうすれば、八重波津身・事代主の義母となり、建御名方の祖母ということになります。
建御名方は母方の祖父・辺突辰為に導かれて越入りし、同じく祖母の刺国若比売を頼って諏訪入りしたのではないでしょうか。
なれば、そこに洩矢族との闘争があったということも考えにくいことになります。

宮木諏訪神社の位置を見てみます。
当社から天竜川を遡れば、建御名方と洩矢族が争ったという藤島神社・洩矢神社があり、またそれを起点に反対側には、諏訪大社 上社の本宮と、八坂刀売の御陵と伝わる前宮があります。
宮木諏訪神社から小野川(横川川)方面に遡ると、そこには弥彦神社。

弥彦とは弥栄彦で、八坂刀売は弥栄姫であったなら、建御名方は祖母方のはからいで、八坂刀売を当地で妃に迎えたのではないでしょうか。

『南信伊那史料』によれば、伊那富村宮木の諏訪社において、上古の祭神は刺国若比売命なりと伝えています。
この宮木諏訪神社こそが元諏訪と呼ぶに相応しく、故に大社に先駆けて、御柱を立てるのではないでしょうか。
では、「刺国若比売」とは、どういった姫なのか。
さしくに…刺国、、、し国、、、、、四国!

というのは、少々乱暴な気がします。
四国という呼称はいつ頃からなされていたか、そう古代の話ではないと思われます。
Wikipediaによると、「刺国」は「標」を刺すことで、領有を表し、「若」は父の「大」に対する娘の意で、「命」がつかないのは巫女性を表すとして、名義は「国を占有する子の巫女」と考えられるとのこと。ようわからん。
ただなぜか、兵庫にある但馬国一宮の「粟鹿神社」に伝わる古文書『粟鹿大明神元記』に「佐斯久斯和可比売」(さしくしわかひめ)として記されていました。
粟鹿、” あわ・が ”ねぇ。。。ニヤリ

妄想が過ぎてヤバいですね。この調子だといつか下照姫=玉櫛姫とか言い出しかねない(笑)
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突飛な発想から見つかるものもありますからね。
僕も突飛したり原点に戻ったりしながら、うろうろしています。
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あんの〜ですね。 諏訪市大和(オワ)の先宮神社。建御名方こと建宗像の君が来る前に先住していた姫が祀られてるような気配。
建御名方を高志の国から諏訪へと導いたのは母、沼河姫。。、ここ諏訪の先宮神社の祭神はなんと高照姫。
私は刺国若比売は田心姫命だと思ううのです。。沼河姫の母であり、高照姫の母でもある。
そして高照姫=沼河姫(少し賀夜奈留美も怪しく)の線がこの間からどうにも頭から離れません。突飛なようで、どこかで後の蘇我氏とも繋がるような気がしています。丹波丹後高志と影響力があった蘇我のルーツに絡むのが沼河姫と高照姫ではないかと。この解釈は長くなるしまだ、研究途中なんで割愛します(^_^;)
ここからは(も)突飛な私見です
高照姫は火明命とも八重波津身(高照姫とは異父兄妹かもですが)とも子を設け、それぞれの子である建御名方と天香語山命はこれまた異父兄弟。因みに、高照姫がイザナミモデルだと私は思えています、古事記のイザナミストーリーは、火明命(イザナギ)との子、カグヅチ(天香語山命)を生んだ火で、イフヤ坂=言屋坂=事代主を失ってしまった。その揖夜神社一帯を黄泉平坂、黄泉の國と呼んだ。。、と面白い解釈ができました。ツートップの哀しい事件も絡ませてる気がしています。何度も揖夜神社に通って、イフヤ坂は言屋坂、言代主の死を悼み建御名方が大和国譲りをタケミカグヅチこと天香語山命にした、と捉えてしまいます。
想像力がダジャレからきてます。カグヅチと天香語山命は語感が似てる。火明から生まれてるカグヅチことカグヤマ。タケミカヅチとの相撲に負けて諏訪に追い出されたという神話にされた建御名方は、建御香久土(タケミカグヅチ)に大君の座を奪われた。古事記ではイザナギが天之尾羽張の剣でカグヅチを切ったら、その血から武御雷が生まれたと。このストーリーは暗喩っぽく怪しいなあと思います。天香語山命と建御名方の関係性を表してそうで。つまり、タケミカヅチはタケミカグヅチのことであって天香語山命の暗喩かと。この妄想から沼河姫=高照姫に辿り着きました。
天香語山命と建御名方。どちらも祖母が宗像の田心姫命、母は翡翠と機織の女神である沼河姫=高照姫(じつは沼河姫は翡翠を司るとともに機織の女神でもあったようですね。)初代大和大君としてどちらも遜色ないハイブリッドな血筋の御子。
高照姫は沼河姫を同一視してみると、天香語山命の子、天叢雲と蹈鞴五十鈴姫の子に沼河という名前がつくのも、沼河姫が母ならばストンと落ちます。(ただ、クシヒカタと美良姫との子に渟名底がつくのはわかりません。三島血筋はもうすこし考えないといけません。)
ところで、なんで諏訪の先宮神社に高照姫が祀られ、高照姫はイナセハギとなってるのでしょうかね。先宮神社は鷺宮ともよばれるそうで、なんか出雲の御陵神社近くのイナセハギ神社を思い出しました。
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刺国若比売=田心姫命説は面白いですね。
沼河姫=高照姫説は、僕はあまりしっくり来ませんが。
ただ、高照姫の存在があやふやなのは同感です。
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narisawa110
五条先生・・今更ながらに事件に気づきまして
事代主のお父さん、富士林先生の本だと、兄八島になっていて、冬衣さんじゃなくなっていますww
高照姫のみの変更と思ったら事件が起きていました
神門化と何か関連があるのでしょうか?
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えー、そうでしたっけ😳
何も聞いてないですね。
それはなかなかな事件ですね😊
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五条さん、おはようございます。いつも有難うございます🙇♂️
五条さんの神社めぐり「紀行」素晴らしいです。写真にも感心しています。
いつも思うのですが、五条さんはこの神社めぐりだけのために旅をしているのでしようか。
うめ吉なんか、大阪府下だけにとどまっているのと比較すればほんと、凄いです。九州、信州、静岡などかなり広範な府県にまたがっていますよね。
相当な熱意がなければできないことです。いつも感心しまくりです。
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大阪のうめ吉さん、おはようございます。
フォローいただき、ありがとうございます😊
この『偲フ花』は、年老いて体が動かなくなっても、もう一度旅ができるようにという、タイムマシン的なものとして書き始めました。当初は日本の世界遺産を全て巡ろうくらいの志でした。
日本神話が好きで、幼少の頃より神社が遊び場だったこともあり、神社巡りもしていました。そこで神話に隠された、真の歴史を知るきっかけがあり、今のようなブログになっています。
日本は素敵な所で、どの県に出かけても、美しい景色と美味しい食べ物があります。僕はこの国の美しい風景と麗しい歴史を求めて、旅をするようになりましたが、そうすると必然的に、神社を訪れることが多くなりました。47都道府県はひとまず制覇し、今は3周目、と言ったところです。
熱意があると言えばそうかもしれませんが、僕はただ、行きたいところに行って、食べたいものを食べて、写真を撮っているだけです。仕事は最初、大手製薬会社に勤務していましたが、その後数回転職をし、30半ばで美容師になりました。美容師というのはご存知のように、一般サラリーマンよりも、収入も休暇も、限られたものです。が、子が早く手を離れたということもありますが、美容師になってからの方が僕は自由な人生を歩めています。僕の旅は基本的に1泊2日ですが、それで福岡を飛び立ち、東北から沖縄まで旅します。月一のペースで旅をしますが、時には月二ででかけることもあります。僕でさえこれくらいの旅ができますので、多くの皆さんなら、その気になればもっと好きなことができるはずだと思っています。
このように好き勝手をしてきただけですが、それに文句ひとつ言わない妻に感謝し、誰よりも敬愛する師に出会えた幸運に、神に感謝してもしきれぬ思いです。もし僕に、人にはない幸運があるとすれば、この2点につきます。
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narisawa110
結局、ミナカタのルートって謎過ぎて色々あるんです。
①四国の神社、ミナカタトミから来たルート
②イセツ彦と重なる秋葉街道ルート(大鹿村にはその伝承があります)
③上田の青木村近辺の生島足島神社から南下、美ヶ原から扉温泉→松本平里山辺方面(ススキガワ神社では御柱に×の印が入ります)
④姫からから言ったルート
⑤もうちょっと北側に行って、黒姫と結婚して長野入りしたルート(実は諏訪神社の個数で言えば新潟県が断トツで日本一です)
長野県における諏訪神社は、濃密さで言えば、上田とかの方が圧倒的に多く、逆に諏方はあまり分社がありません。
物部氏や忌部氏が持ち込んだのであれば、富家の×印の説明がつかなくなりますが、四国のミナカタ神社であれば鎌の交差紋になっていますので、その神社が富家系統であれば、刻まれていても矛盾はないことになりますね。
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タケミナカタが事代主の息子だというのは、富家伝承ベースでの、僕の違えようのない基点となります。
なので、彼のルートは出雲〜越〜諏訪というのは変えようがありません。上記の③のルートになるかと思います。
しかしタケミナカタは未到の地を歩いたのではなく、すでに安定した地盤をエスコートされて、諏訪入りしたと考えます。その根拠となったのが、narisawaさんに教えていただいた、宮木諏訪神社の刺国若比売陵でした。
その一族は、四国から和歌山を経て、天竜川を遡ったと思われ、さらに新潟まで勢力を広げていたと考えています。それが富家伝承でも語られながらも詳細に触れることはない、越の一族であったかと。
八坂と弥彦がつながれば、尚のことこのことが実証されるとおもいます。
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narisawa110
先生の注目されている天竜川水系ですが、河口の辺りは八坂神社と諏方神社だらけなんですよー
すんごい数が出てきます
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諏訪社はさもありなんですが、八坂も出てきますか。徐福が祭神だとするなら、七坂神社じゃないとおかしいですよね。
八坂=弥栄=弥栄彦=弥彦だと思うー😳
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narisawa110
河口のあたりは、忌部氏、越智氏、阿部氏、豊国、物部、八井耳が入り乱れ、判断が難しいですが、諏訪の今井野菊さんはこの近辺の矢坂の姫がミナカタと結婚という説をとっています。そして長野県の麻績村(おみむら)と、出雲口伝の様に、田舎で関係者が臣を名乗ったと。
で、その姫は忌部氏の中でもカモス系の物部寄りの系図に出てきます。しかし、それは物部氏が後年に追加した神魂(イザナギイザナミ)と考えられますし、カミムスビとして解釈しなければならない点がある事、そして系図から言って八坂彦の娘のヤサカトメは、事代主の息子とは時代的に結婚できません。
天竜川河口において、南方系諏訪一族(正体は物部氏?)と八坂一族(忌部氏?こっちが物部氏?)は結束を強め、それが記紀に出て来ない、イソラと同じで、追加された、記紀にぶら下がる様な形での地域伝承に変化したと思われます。
諏訪神社は、どう考えても南の方は、別の一族が諏訪神社に名前を変えている様な様にしか見えません。ミナカタの神様信仰はは南から入り、本物のミナカタの、本来祀っていたクナト神は上書きされている。
あんな勢いでクナトの神様から、ずいぶん経た50世以上の孫のミナカタの名前に、全員一気に社の名を変えるなど不自然すぎます。
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八坂神社が弥彦系だとすると、新潟の彌彦神社があの規模なのもうなづけますね。
また弥彦は、熊野彦、揖屋彦、祖谷彦なのかもしれません。
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narisawa110
矢坂神社はよく考えたら面白くて、社家は孝元天皇の曾孫である武内宿禰を祖とする皇別紀氏を称して居ます。
男系物部の矢坂入彦、物部武内彦が関係している割には、執行社家が母系の大屋姫系というw
大彦と、物部は基本的に仲が悪いですが、新潟の弥彦神社は、二田物部のお供で新潟入りしてる形になり、その社家は三島家・越智家。
同じ様なカラクリが別の形の解釈で説明出来る様な気がしますが、難しいm
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う〜ん、どんどん頭が混乱していきますね😅
二田物部神社には、行かねばならないようです。
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narisawa110
八坂=弥彦の考え方はとても面白いですね。下社は安曇族が持ってきたと、大社の歴史案内の方は言いますし、最近は、忌部氏の一部に大彦系が入ってる可能性。長野の安曇族も仁科という点から見ると大彦の投影が埋まっています。
四国や千葉では膳出臣が忌部氏の古い系統に出てくる事が多く、そういった意味では八坂姫は安倍系の姫だったという解釈も実にアリな気がしてきます。
いずれにせよ、忌部氏、若しくは物部氏などの一族によって桓武期以前には持ち込まれたであろうミナカタによって、諏方の神様はクナトの神様から上書きさているとしか思えず、諏方族の本家筋のような物が力を持っていたら尚更、ミナカタになるのは不自然です。
四国のミナカタ社の交差した鎌や、四国の忌部や、物部の三つ柏紋からみても、神改めのような物があってから現在のような祭祀体が定着したんじゃないかと考えられます。長野の歴史家は、海部系の分家の安曇族の定着は6世紀以前には遡れないという説が一般的です。やっぱり用明期の守屋の時代には色々あったんじゃないかと考えられます。
出雲口伝では、諏方には長くはとどまらず、最後には関東の方に行ったんでしたっけ?
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