赤猪岩神社:八雲ニ散ル花 37

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鳥取県西伯郡南部町に、因幡の白兎神話の続きの舞台となった場所があるというので訪ねてみました。
「赤猪岩神社」(あかいいわじんじゃ)には、「大国主」が命を落とし、母の愛と二人の女神の力で生き返った「再生神話」が伝わっていました。

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イケメンで優男の「大穴牟遅神」(オオナムヂ / 大国主)は、「因幡の素兎」を助け、その予言通り世にも麗しき「八上比売」(ヤガミヒメ)と結婚することができました。
しかし八上比売に求婚していたオオナムヂの兄神たちは彼に嫉妬し、殺してしまおうと企んでオオナムヂを伯耆の手前の山麓へ連れて行きます。
そして「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。失敗したらお前を殺すぞ。」と言いつけました。
素直なオオナムヂは山の麓で待っていると、彼にめがけて兄神たちは火で真っ赤に焼いた岩を山の上から落とすという方法で彼を殺そうとしました。
転がり落ちてくる真っ赤に焼けた岩を受け止めようとしたオオナムヂは、身体がたちまちその岩肌に焼け付いて潰され、絶命してしまいます。
これを知った大穴牟遅神の母「刺国若比売」(サシクニワカヒメ)は嘆き悲しみ、高天原の「神産巣日之命」(カミムスビ)に救いを求めたところ、赤貝の神「𧏛貝比売」(キサガヒヒメ)と蛤の神「蛤貝比売」(ウムギヒメ)の2柱の女神を地上に遣わされました。
𧏛貝比売が赤貝を焼き削って作った粉を、蛤貝比売が母乳と清水井の水で練って薬を作り、オオナムヂの体に塗りつけますと、オオナムヂは火傷が忽ち治り、ますますイケメンとなって息を吹き返したと云うことです。

この後も兄神たちは大木で挟み殺すという方法でオオナムヂを殺しますが、イケメンはさらにスーパーイケメンとなって蘇りました。
イケメンは不滅なのです。

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真っ赤な扁額が異様な雰囲気の赤猪岩神社は、大国主命を主神とし、母神の刺国若比売命、素戔嗚尊、稲田姫命を合祀しています。

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この神社が祀っているものは、その名が示す神跡です。
オオクニヌシ殺害に使われた焼かれた大岩が封印されていると云います。
それは「厄の元凶」に対する注意を、子々孫々まで忘れてはならないことを教えていると云うことです。

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第一次出雲戦争にて、西出雲王国の神門臣家が恭順したことで、吉備王国との争いは、一時の平和を得ました。
しかし東出雲王国の富家が神門臣家と分離し、吉備に恭順していないことを知ったフトニ大王は、今度は東出雲王国の東の領土、伯耆国へ向けて進撃しました。
吉備軍は四十曲峠を越えて、伯耆国に侵入しました。
熾烈を極める吉備軍の攻撃に、東出雲軍は夜にゲリラ戦を行ってこれを防いだと云います。
吉備軍は出雲兵を「鬼」と呼び、彼らがこもった、日野川中流の長山の一部は、「鬼住山」と呼ばれるようになりました。

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次に出雲兵は、西方の要害山(西伯郡南部町天万)に陣を構えてゲリラ戦を繰り返し、徹底抗戦を行い続けました。
しかし敵兵に囲まれ、要害山の出雲兵は一人残らず戦死します。
この要害山の麓に、赤猪岩神社が鎮座していました。
東出雲軍はここより西の国境の母塚山を防衛線に死闘を繰り返したと云います。
この溝口と要害山の攻防戦が、出雲王国時代での最大の戦いであり、実に東出雲王国軍の兵士の3分の1が、戦死したと伝えられています。

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恐る恐る、境内の奥に足を運びますが、ねっとりとした重い空気に押しつぶされそうです。
大地を絡め取るように張り巡らされた木の根に守られて、その神跡が姿を現しました。

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オオクニヌシを火傷をさせた「猪に似た石」は、地上にあってはこの地にを穢れをもたらす恐れがあると、土中深く埋められ、大石で幾重にも蓋ふたがされていると云います。
その蓋がこれだと云うのですが、これはおそらく、支石墓(ドルメン)だったのではないでしょうか。
であれば、この小さな丘は古墳である可能性もあります。

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ここには、亡くなった3分の1の出雲兵、もしくはそのリーダーだった人の墳墓であるのかもしれません。

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赤猪岩神社縁起の一文に「大國主神は出雲、伯耆を根拠として専ら山陰、山陽、北陸までの国土を御経営になりましたが、・・・幾多の辛酸をなめられつゝ国土の開発に終始せられた」とあります。
ここに記されるオオクニヌシが受けた幾多の辛酸とは、嫉妬した兄神たちからの仕打ちのことで、これは出雲王国が、親戚であった大和のフトニ王軍から熾烈な攻撃を受けたことを比喩していると、富家の後継者は言い伝えています。

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また、オオクニヌシが受けた幾多の辛酸、つまり兄神たちによるオオクニヌシ2度の殺害は、当時センセーショナルに伝わった大国主・八千戈王と事代主・八重波津身の穂日らによる暗殺を比喩しているのではないでしょうか。
幾多の辛酸をなめつつも、幾度も蘇り、出雲・伯耆を根拠に山陰・山陽・北陸までの国土の開発に終始したというのは、その後も立ち上がり続けた歴代の出雲王と副王、つまり大名持と少名彦を中心とした西出雲・神門臣家と東出雲・富家の功績を謳っているのかもしれません。

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結局、吉備軍は母塚山を越えることはできませんでした。
フトニ大王の元に筑紫王国の物部軍が大和王国に侵入してきたとの情報が入ったのです。
この時、フトニ大王は出雲の播磨領を素早く救援し、大和と出雲両王国連合を中心として、和国統一をするべきであったことを悟ったのです。
留守にした大和王国では、物部軍に対抗するため、新たな大王が即位し、フトニ王は吉備の地方の王に成り下がったのでした。

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その後フトニ王は大山西北の「孝霊山」の麓に来て住み、そこで没します。
その山の名は、フトニ大王の死後の贈り名に由来していました。
フトニ王は、晩年を官内の館に住んで過ごしましたが、伯耆地方の若い美人を朝妻姫と名付け、館に迎えて寵愛する日々を送ったと云います。
正妻で、フトニ王に伯耆までついてきた「細姫」は無視され失意の日々を送ったそうですが、やがてあきらめ、息子の大吉備津彦の許に去ります。
フトニ王の邸宅跡には高杉神社が建てられ、フトニ命と細姫命が祭神となりましたが、細姫が没した頃、大山町では飢饉が続きました。
これは地元の娘がフトニ王の愛を奪ったことによる細姫の崇りであると、地元の人は考え、細姫命の霊をなぐさめるために、後妻の村娘役をたたく神事を考えました。
これが今に伝わる「ウワナリ(後妻)打ち」神事であり、これを行ったところ、天災がやんだと云います。

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『当社は「受難」「再生」「次なる発展への出立」の 地として、千数百年以上の長きの間知る人ぞ知るところの神社であり、大国主命存命中は言うまでもなく、亡き後も、 この地を訪れ再起に御神性の御加護を願う人は数多であった』と縁起は締めくくっています。
それは今も続く王国の意思を代弁しているかのようでした。

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