久山白山神社(首羅山遺跡)

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福岡県糟屋郡久山町に鎮座の「白山神社」(はくさんじんじゃ)を訪ねました。

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奥の山を白山と呼んでいますが、「首羅山」(しゅらさん)とも呼ばれています。

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元はこの首羅山山頂付近にあった社ですが、今は麓の少し階段を登ったところに社殿が遷されています。

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心地よい参道を抜けると、

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ありました。

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拝殿は大正9年、本殿は昭和2年の建立です。

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祭神は、元々は白山権現として、「菊理姫神」「伊弉冉尊」「泉道守神」(よもつちもりのかみ)が祀られていましたが、なぜか現在は「五十猛神」(いそたけるのかみ)となっています。

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五十猛については、今、B女史さんから色々と教わっていますが、単に海部という認識だけでは足りないのかもしれません。
九州に祀られる五十猛は、もう少し深く考察する必要を感じています。

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境内社を覗くと、

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出雲二王ズがいらっしゃいました。

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この境内社は「山ノ神社」で、祭神は大山祇のようです。なるほど、わかっていらっしゃる。

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伊野天照皇大神宮もそうですが、久山地区の神社の鈴は、味わいがあって良いです。おしゃれ可愛い。

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狛犬は普通のわんこでした。

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“きょうのわんこ”。そんなに愛らしいなりでは、魔は退けられませぬぞ。

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さて、麓に遷座された白山神社でしたが、山頂付近にも石祠が残されているそうなので、行ってみます。

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登山、っていうてもひっくい山です。楽勝でしょう。

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登山道に入ってすぐは、史跡になっていました。

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『筑前国続風土記』によると、この辺りはかつて「白山頭光寺泉盛院」(はくさんとうこうじせんせいいん)という寺院・大社で、350もの坊があったとされます。
しかし永禄12年(1569年)の大友・毛利両軍の立花城域における激戦と、天正14年(1586年)の薩摩勢の兵火により、全てが焼失しました。

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「夏草や 兵どもが 夢の跡」

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戦争は、多くの者が全てを失い、ごく僅かの者だけが富を得るもの。
されど人は、争わざるをえない生き物なのか。

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しかし、あれ?

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意外とキツいですな、この道は。

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予想外のキツさに気が変になりそうな時は、考察に耽って現実逃避に限ります。

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九州王朝説の方々曰く、この久山白山神社は、石川県の白山比咩神社の元宮なのだということです。
また、菊理姫は帰化神で、ここ首羅山に来てから加賀に行った、と考察されているようです。
つまり、白山信仰も九州から始まった、ということです。

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その根拠が、先の遺跡「白山頭光寺泉盛院」の創建が関係しているようです。
斉明天皇6年(660年)百済が唐と新羅により滅亡し、宝姫・斉明女帝は百済を復興すべく、大兵を擁して西へ出航します。
そして翌年661年7月24日、斉明女帝は遷幸先の朝倉橘広庭宮で崩御します。享年68。
この時、僧の道照が須良山(首羅山)に庵を結んで、女帝の追弔が為されたと伝えられます。

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道照は遣唐使として入唐し、我が国に初めて法相宗を伝えたとされる人物です。
道照は唐から筑紫に帰港したあと、久山の首羅山(白山)に留まっていた、ということでしょうか。
そのころ難波の某という者が須良山に鎮護国家の道場300坊を建てて、道照に帰依し、白山権現社の社僧として寺院の総号を白山頭光寺泉盛院と号したと云うことです。

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加賀の白山は、養老元年(717年)に越知山で修行をしていた泰澄が開山したと伝えられます。
つまり、年代で言えば、久山の白山権現の方が成立時期が56年ほど早いのです。

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それともう一つ、久山白山神社に伝わるところでは、天平2年(730年)、白山権現は百済国から虎に乗って、海を渡って当山にやって来たとしています。
その後、天平4年3月、源通和尚に聖武天皇の詔があり、当山に白山権現社を建立。
しかし白山権現が乗り捨てた虎の猛威を恐れた村人が、その首を切り落としてしまいます。
そうすると、虎の首は光を放つので沙羅に包み、埋めたところに祠を建てて二十一面觀世音菩薩を安置しました。

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故に「首羅山頭光寺」と呼ばれるようになったのだとか、どうとか。

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よ~~~うやく、山頂に着きました。

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そこには、なんとも意味深げに石の祠が置かれていました。

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白山権現が虎に乗って百済からやって来たのは730年で、加賀白山の開山717年の方が早いことになります。
それでも、これと道照の話を合わせ考えると、久山の方が泰澄よりも先に白山信仰を起こしたと考えることもできるかもしれません。

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しかし、と僕は思うのです。
これは越知山越知神社の大谷義鷹宮司が話してくださったことですが、越知山は泰澄大師よりもっと古い時代から霊山として信仰されていたのであり、それだからこそ泰澄大師はまずこの山に登って修行したのだということです。

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白山とそれを取り巻く聖域を巡礼してみて僕は、白山は越知山の古代越智族が信仰した神奈備であったと確信しています。
越知山の越智族とは、おそらく東国に逃れた豊来入彦の后「常世織姫」に従った一族であり、竹葉瀬ノ君と共に加賀に移り住んだ者達だったろうと思われます。
泰澄や道照よりも、仏教伝来よりも遥か昔から、加賀の白山は、白山比咩の鎮まり給う霊山だったのです。

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白山に鎮まる女神が、いつから菊理姫とされるようになったのかは定かではありませんが、その神の真の名が「常世」を冠する姫であるならば、現世を織り結ぶ菊理姫の性質に合うと思うのです。

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しかしまあ、真実はさておき、この首羅山白山神社の元宮は、誠に素晴らしい聖地でした。

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歴史的にも申し分ない、重要な史跡です。

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この首羅山は、神功皇后伝承でも重要な「伊野天照皇大神宮」が鎮座する山と峰続きとなっていました。
さらには、立花山三日月山もほど近い場所にあります。
志賀海神社方面から眺めた時、立花山・三日月山は夫婦の山のように見え、その間に首羅山が位置することになります。

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最初から白山の女神が祀られていたかは不明ですが、古代から意味深い聖地であったことを窺わせます。

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首羅山を下山して、麓の白山神社から少し離れた場所に「首羅観音堂」があったので、訪ねてみました。

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鬱蒼とした場所にあり、見つけるのに苦労しました。

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首羅観音堂は山頂の白山神社の下にあったそうですが、麓のこの場所に移されたのだそうです。
しかし昭和40年代に盗難にあったとのことで、バチ当たりな者がいたものです。

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白鹿権現が乗って来た虎を、なぜ村人は殺めてしまったのか。虎が荒ぶる神となってしまったからなのか。

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薄暗い御堂を覗き込むと、地元の方が奉納したという観音像が、キラリと光っていました。

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