須須神社 奥宮:常世ニ降ル花 潟姫眉月篇 04

投稿日:

9030185-2024-09-13-17-30.jpg

真の式内・須須社である「奥宮」を参拝します。

9030186-2024-09-13-17-30.jpg

奥宮は標高172mの山伏山山頂に鎮座しています。
山伏山は「山容優美にして海上からの景観は、鈴をさかさにしたような典型的な神奈備の霊山で、原始時代から北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期(約1200年前)には海上警戒の設備を置き、烽火(のろし/狼煙)が一たび、あがると郡家で受継ぎ国府、そして京の都へ伝達されたと云われている」とのこと。

9030187-2024-09-13-17-30.jpg

まあ、15分くらいのトレッキングですかね。

9030188-2024-09-13-17-30.jpg

もちろん行きますけども、🐻、出ないよね。

9030190-2024-09-13-17-30.jpg

山伏山は、元は「珠洲ヶ嶽」と呼ばれていたそうですが、平安時代の昔から修験者の往来をみるようになって、今の名で呼ばれるに至ったとのこと。
珠洲ヶ嶽の方が風情があって良いのにね。

9030191-2024-09-13-17-30.jpg

さすが聖地、あれが天橋立というやつか。

9030192-2024-09-13-17-30.jpg

途中で分岐がありました。
三叉路だと思っていましたが、帰りに見てみると四叉路になっていて、間違わないよう注意が必要でした。

9030193-2024-09-13-17-30.jpg

やはり笠石が落ちていますが、こちらは貫も落ちています。
よう柱だけで立っておりましたな。がんばれ。

9030194-2024-09-13-17-30.jpg

痛々しい扁額の残骸。

9030196-2024-09-13-17-30.jpg

さて、なだらかだった参道も、ここから山道へと変わってゆきます。
常世感、増し増しです。

9030198-2024-09-13-17-30.jpg

奥宮と高座宮、金分宮は、全く別の神社であるという説があります。
その根拠として珠洲市史等によれば、

①本社(高座宮)の位置が山伏山を背にしておらず、また遙拝するような場所にもない
②歴史的にみて、本社と奥宮に奉仕する神官が異なっていること(明治13年以降は、高座宮の宮司・猿女氏が奥宮を合わせて奉仕している)
③本社と奥宮の氏子が全く異なっている(奥宮の氏子は、山伏山を隔てた北方の狼煙町)
④本社と奥宮の祭神を同一とする記録がない。(山頂の宮本来の祭神は美穂須須美命で、今、高座宮にも合祀されているが、これは山頂の宮が高座宮の奥宮とされた後のこと)
⑤神事・祭礼に共通点がない

ということです。

9030199-2024-09-13-17-30.jpg

そうすると、僕が違和感を感じていた猿女氏の社伝羽黒神社宮司家との関係も説明がつくのかもしれません。
元々、奥宮須須神社の宮司家は、現在の羽黒神社宮司家であり、猿女氏は高座宮のみを奉斎していたのではないかと。
金分宮も裏手に羽黒神社宮司家の墓があることから、本来はこちらが祭祀していたのかと。

9030200-2024-09-13-17-30.jpg

何にせよ、高座宮が須須神社本宮となり、山頂の宮が奥宮となったのは、そう古い時代のことではないと思われます。

9030201-2024-09-13-17-30.jpg

光が差し込み、そろそろ目的地につく予感がします。

9030202-2024-09-13-17-30.jpg

が、気のせいでした。道はまだ続くよどこまでも。

9030204-2024-09-13-17-30.jpg

逆さにした鈴のようだという山伏山は、海上からはっきりと確認でき、古来より信仰の対象であり、また航行の目標とされてきました。
平安時代には、海上で異変があれば直ちに狼煙が上げられ、都まですぐさま伝達される仕組みになっていたとも伝えられており、狼煙町の地名はこれが由来だとされています。

9030205-2024-09-13-17-30.jpg

位置的には、大和国の鬼門にあたり、日本海の守護神として能登半島は重要視されてきたのかもしれません。

9030206-2024-09-13-17-30.jpg

そしてやはり15分ほどのトレッキングの果てに、ついに僕は、目的の場所に到達したのでした。

9030207-2024-09-13-17-30.jpg

c1d-2024-09-13-17-30.jpg

9030209-2024-09-13-17-30.jpg

石垣の上に建つ荘厳なお社。
無事辿り着けてホッとしました。
道中、土砂崩れが起きていたり、社殿が崩壊していたりしないか、心配していました。

9030211-2024-09-13-17-30.jpg

社殿はまあ、ちょっとナナメっていますし、

9030219-2024-09-13-17-30.jpg

中はけっこうアレな感じではありますが、それでも十分に神々しい。
むしろ激震を耐え抜いた御姿に、感動を覚えます。

9030220-2024-09-13-17-30.jpg

さて、ここにミホススミが祀られているわけですが、少々疑問も生じます。なぜここに彼女が祀られているのか。
まずは島根美保関の美保神社に祀られるミホススミから考えてみます。
ミホススミは渡来人集団に殺された父・八重波津身の御魂を、美保関に祀りました。それが「市恵美須社」になります。
その市恵美須社が元となり、今の美保神社の創建となりました。

9030222-2024-09-13-17-30.jpg

その美保神社ですが、右殿に事代主、左殿に三穂津姫が祀られており、この三穂津姫がミホススミであると師も本に書いておられるわけですが、僕は最近別の考えを抱いております。
記紀編纂後、ホヒ家の廣島が監修した出雲国風土記、それゆえに信憑性に欠ける部分は多々あるわけですが、当書は美保という地名について、次のように記します。

「美保郷 郡家正東(まひむがし)廾七里一百六十四歩。
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)命、古志国に坐す神、意支都久辰為(おきつくしゐ)命の子、俾都久辰為命(へきつくしゐ)の子、奴奈宜波比売(ぬなかわひめ)命に娶(みあ)ひまして、産みまし神、御穂須須美(みほすすみ)命、是の神坐す。故、美保と云う」

この所造天下大神は一般に大国主と解釈されていますが、富家伝承に添えば、これは事代主・八重波津身のことということになります。
出雲国風土記は美保の地名由来として、そこには事代主がヌナカワ姫を娶って生まれた娘のミホススミが住んでいた。だから美保というのだと説明しているのです。
これはおかしいのではないか、と僕は考えるようになりました。

e59bbde5bc95e3818d-2024-09-13-17-30.jpg

同じく出雲国風土記の国引き神話は、出雲王国6代大名持のオミヅヌが、

栲衾志羅紀の三崎の余った土地を引き寄せ、佐比売山につなぎ止め、綱は薗の長浜になって、杵築の岬ができた。
北門の佐伎国の余りを引いて縫いつけ、佐太の国ができた。
北方の良波国の余りを引いて縫いつけ、闇見の国ができた。
高志の都都の三埼の余った土地を引き寄せ、火神岳につなぎ止め、綱は夜見島になって、美保の岬ができた。

と書かれています。
島根は”あんでぃ”さんによると、半島側と本土側で風土の違いを感じるとのことですが、おそらく初期の出雲王国領は本土側のみであり、半島側には別の4つの勢力が居たのではないかと僕も考えています。

efbc91-2024-09-13-17-30.jpg

旧家によると、オミヅヌは、郷戸家に養子に迎えられた人であったと伝えられていますが、彼が王位を継いだことで出雲王国は外交によって大きく勢力を拡大したことを、国引き神話は語っているのではないでしょうか。
高志の都都の三埼ですが、これが珠洲の岬であると考えられいることからも、珠洲に居た古い時代の勢力は美保の地にも移住しており、そこへ越国のヌナカワ姫が輿入れしてきたということになろうかと思われます。

efbc92-2024-09-13-17-30.jpg

ヌナカワ姫の出自についてですが、風土記には
「古志国に坐す神で、オキツクシヰの子である、ヘキツクシヰの子」
と表現されています。
これはヌナカワ姫の父がヘキツクシヰ、祖父がオキツクシヰだと言っているのではなく、珠洲の沖津宮、糸魚川の辺津宮を治める一族の姫巫女であるという意味ではないかと思われるのです。

efbc93-2024-09-13-17-30.jpg

当時は妻問婚でした。
本来なら事代主・八重波津身が越国まで通わなくてはなりませんが、流石にそれは無理がある。
そこで珠洲の旧領地である美保の地にヌナカワ姫は輿入れし、彼女の屋敷をそこに設けたのです。
こうして偉大な越の姫巫女が美保の地に定住したにも関わらず、なぜか美保関にヌナカワ姫を祀る社がありません。
いや、美保神社に祀られる「三穂津姫」の正体こそが、彼女であろうと思われるのです。

9030217-2024-09-13-17-30.jpg

三穂の「三・美」とは「御」で美称、穂は「実り、豊穣」のことではないでしょうか。
偉大なる姫巫女が、偉大なる出雲王に嫁いだことで、その土地が豊かになったのでミホと名付けられたと解釈するのが、自然です。
また美保神社の祭神も、父娘神が祀られているよりも、夫婦神が祀られている方が、より出雲的なのです。
ミホススミは三穂津ヌナカワ姫の住まう美保の岬で生まれたので、ミホススミと名付けられたのでしょう。ススは岬を意味するそうです。

9030215-2024-09-13-17-30.jpg

話が長くなりましたが、つまりこの山伏山・珠洲ヶ嶽は原始時代から北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝されたと云われますが、そこに祀られた神はミホススミよりももっと古い神であったろうと考えられます。
その神こそが「オキツクシヰの神」であり、越国的サイノカミであったのではないだろうか、そう考えます。

9030216-2024-09-13-17-30.jpg

ミホススミに光を!プロジェクト』の調べによれば、ミホススミを祭神とする神社が「島根県に1社(美保関)、石川県に1社(珠洲市)、富山県に1社(氷見市)、新潟県に13社(出雲崎町に2社、長岡市に11社)。このほか長野県に5社(中野・上田・千曲市に各1社、佐久市に2社)、群馬県に8社(中之条、東吾妻に各1社、渋川に2社、前橋に4社)、埼玉県に1社(岩槻)あります」とのことです。
これらの祭神は、のちの修験者が広めたものではないでしょうか。
長野の越智神社にある彼女の名が豊国文字で刻まれた石が、それを感じさせます。

9030225-2024-09-13-17-30.jpg

この奥宮の祭神は、「美穂須須見命」に加えて、「武甕槌命」と「経津主命」が配祀されているようです。
まるで取って付けたような国譲りのヒーロー神、この辺りにも大人の事情を感じざるを得ません。

9030229-2024-09-13-17-30.jpg

生き残るために忖度したか、押し付けられたかは分かりませんが、神社における暗黒期が明治にはあったのだろうと推察します。
羽黒神社の宮司様はこうおっしゃります。
神仏習合期に本地垂迹によって神が権現化、神の位置に本地仏が置かれ、今度は明治の神仏分離令が発せられます。
すると、この権現様は元はどの神様だったろうか?となり、とりあえずまあ、記紀かそこらから、それっぽい神を当てがっておこう、となったのではないかと。
いやまったく、困ったものです。そんな感じで充てがわれた祭神がごろごろあったら、もはや歴史は闇の中。

9030228-2024-09-13-17-30.jpg

当・奥宮も今は高座宮の猿女家が管理するところではありますが、本来は髙山家の領するところだったのでしょう。
珠洲にお住まいのK氏は、奥宮に訪れて「ミホススミさま~*・’\(*゚▽゚*)/.’・*キラキラ」するスピ系の人たちを見て、「海から来た人たちが神を祀るなら、山伏山ではなく珠洲岬の方だったのではないか」と冷めた頭で思ったそうです。
確かにその通りかもしれません。

e382b9e382afe383aae383bce383b3e382b7e383a7e38383e38388-2024-09-11-8.24.42-2024-09-13-17-30.jpg

しかしこの須須神社奥宮の向きを見てみると、珠洲岬を聖地として拝した人たちが、さらにその先の珠洲ヶ嶽を神奈備とした可能性もまた高いと思われます。
よって、この奥宮の地が重要な聖域であることには間違いありません。
ただ、そこに祀られていたであろう真の神は、ミホススミよりも古い時代の神であったと推察します。

9030232-2024-09-13-17-30.jpg

奥宮の覆屋の中を覗くと、哀れにも本殿は崩れ落ちていました。
朽ちてなお美しきは我が国の社ではございますが、一日も早い建て直しを望むところです。

9030233-2024-09-13-17-30.jpg

往古に陸路では辿り着けなかったであろう沖の宮、珠洲。
この奥宮が見つめる先に、もう一つの最大聖地が、ひっそりと眠っていたのでした。

9030235-2024-09-13-17-30.jpg

12件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    伏という字に私は阿部を感じます。オカルト的には和歌山の田伏ですかねw

    さて、氷見市に戻しますが、google先生でもヒットしない布勢神社が何と氷見市にあります。(魚津にもありますが)もちろん大彦さんも祀られており。

    長野、石川、岡山、そして香川は阿部か大彦が入ってる様です。四道将軍は結構テキトーだったりする気がしてきました。

    ミホススミは、出雲の事代主が大好きだった大彦の系譜や、その習合相手が持ち込んだのかもしれませんね。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      ミホスススミは瀬織津姫の代わりとして広められたような気がします。

      いいね: 1人

  2. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    再び失礼します。

    島根半島の勢力は別というのは妙に納得です。四十二社巡りをしていると肌で感じます。ヌナカワヒメ、御穂須須美命といえば翡翠ですよね。ずっとずっと気になるのが、風土記のオミツヌの国引きにあるここのくだり。

    北方の良波国の余りを引いて縫いつけ、闇見の国ができた。

    良い波の国とは、そこを往来するの交易の海路に適していたということなのではないでしょうか。その国引きの延長線に小波、野波(古代は小浪、野浪)地区があり、その周辺の川や浜辺、海、入江が個人的には気になり散策してます。日御碕神社もありますけど、ヌナカワヒメに漢字が似てる奴奈邇神社。御祭神は事代主と大国主大神。ヌナは翡翠を表すのですよね。。島根半島のここらへんって翡翠の交易でもひょっとしたらあったのかもしれないとか妄想しますけど、もう少し根拠が欲しいものです。氏子さんに聞いたところ、漁業を守る神社のようですけど、狛犬が玉を持っていて子持ち狛犬。風土記に載ってるから何度も気になり通ってしまいます。

    ところで国引きで活躍したオミツヌは、富家の口伝によると、鳥取気高の八束町にある姫路神社の辺りの出自だとありましたよね。ハイスペックな能力を持ち郷戸家に養子に入ったオミツヌは因幡からやってきて国引きをした神様なんですよね、この辺り地味〜な記述なので、スルーされがちですが、口伝によるとオミツヌは確かに鳥取が故郷なのですよね。。。

    大山の麓から1つどうか言わせて下さいませm(__)m 鳥取の淀江町近辺は、ものすごくそそられる神社だらけなんです。五条さんに以前からくどく(笑)オススメしている理由は、いつか巡っていただける機会がありましたらなんですが。。いつかぜひこのブログにアップして下さったら嬉しいなあと思っているからです。お忙しいのは重々存じておりますが(^_^;)

    謎だらけだからです。特に淀江に。三輪神社ある(小さい三ツ鳥居もあるし、大神神社から狼が2匹やってくるのはここだけ)佐陀神社ある。亀甲社ある。日吉神社ある。淀江町はすごい。サイノカミ、幸神信仰が全国的に見ても一番残っているようです。夫婦神、これはクナト大神と幸姫が象られた石がたくさんあります。亀甲公民館の裏のお社に。亀甲ですからね、亀甲。そして地区は佐陀。また、大和という地名もあり。妻木晩田遺跡もある。

    鳥取の南部町の手間山を囲む倭の地名も淀江にある大和の地名も、大和朝廷に平定された痛々しい痕跡なのではないかと思われます。そして至るところに残されている賀茂(もとは加茂だったと思われる)や鴨部という地名は、元々その地にいた出雲族のいた場所に残ってる地名なんだと思います。

    御穂須須美命から話が脱線してしまいましたね。すみません。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      大山のふもとですしね、淀江町は一度行かなければならないと思っています😊

      いいね: 1人

      1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

        ぜひぜひ☺

        なんと五条先生から、コメントで「淀江町」という地名を書いてもらえるなんて!とっても嬉しいです。(しかもですよ、淀江町に行かねばって書いてもらえた〜ヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。)ありがとうございます。今日は1日ハッピーになりました。介護疲れもなんのその。

        そうです、そうです。出雲族が住んだ妻木晩田、そして天神垣神社もあり、富士林先生の書籍にも写真があった石馬も見れるのですし、三輪神社⛩️に佐陀神社に日吉神社に蚊屋島神社(ここは正確には日吉津)。真名井もあるし。まるで出雲のミニチュア縮図的な地域。

        お忙しい五条先生ですが、またいつか機会あらば、淀江町出雲口伝大好き姐さんと、大山の麓の小生が、ガイドできるほど詳しくはありませんが、アッシー兼お連れすることが可能でございますよ。2人とも五条先生の本はもちろんのこと、大元シリーズに夢中になり、ここはクナト大神宿る地域なんだよねって、毎日朝日にそびえ立つ大山を拝めるって幸せなことだよねと、周りにはあんまり通じない感謝をしています。

        自称るるぶ出芽が美味しいとこも含めてご紹介m(__)mこちらの方は得意です。

        伯耆は出雲、ハハキの大地。

        いいね: 2人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          そろそろ11月の予定を立てなければなりませんね😊

          いいね: 1人

          1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

            ですね☺

            奈良の源郷出雲

            いいね: 2人

  3. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥真実を歴史に正確に残すべきなのかそうでないのか、悩むところがあったのかもしれませんな。何か深い理由(わけ)があったのでしょう。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      まこといつの世も、世知辛いことですな。

      いいね: 2人

      1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

        🐥世知辛いというより、何らかの含みがあった、という方が正解なのかもしれません…

        いいね: 2人

      2. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

        五条さんの新解釈面白いです。

        とすると。。。

        揖夜神社の本殿に向かって右が三穂津姫神社ですが、これまた玉櫛姫が住まわれ八重事代主が通ったであろう場所に、ヌナカワヒメを祀り、(謎の御札が消えた事件の)建御名方神が荒神さんの隣に祀られている。。ここはクシヒカタや玉櫛姫なのではないだろうかと思うところに建御名方神や三穂津姫ことヌナカワヒメが祀られている。

        そして、美保神社の奥にある、若宮社にはクシヒカタが祀られています。こここそ、建御名方神でないと辻褄が合わないのでは?とずっと思っています。ヌナカワヒメは今は大后社という見えないところにお隠れですが、三穂津姫であるならばドーンと祀られておられることになりますね。事代主、ヌナカワヒメとくれば若宮社は、クシヒカタではなくて建御名方神のはず。。

        が、建御名方神は美保神社の境外社におられますね。とても素敵な場所ではありますが。

        御穂須須美命は、幼少までの建御名方神の異名だという説も北陸にはあり、ここまでヌナカワヒメや御穂須須美命を謎にする意味は一体なんなのでしょうね。

        美保神社の境外にある末社、廟と書かれてるあれはお墓なのでしょうか。御穂須須美命のお墓だと思ったこともあります。婦人病にご利益あるとされてて地元で大事にされてますね。

        いいね: 2人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          母系は明らかに隠されていますよね。
          あそこはミホスススミ姫の墓かもしれませんね。

          いいね: 1人

Nekonekoneko への返信 コメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください