
『神跡』
「神様井戸(みたらしの井) 重蔵神社祭神 天の冬衣命が始めて輪島に上陸された折にここに休泊され、その時命がこの井戸水をお使いになられたと伝えられています」
たぶん、そう書いてある。

令和6年元旦の能登半島地震。
輪島市内では、倒れるはずのないビルが倒壊し、話題となりました。
耐震についての知識を改めざるを得ないこの倒壊ビルの傍に、

天之冬衣の神跡がありました。


石川県、奥能登の中心地である輪島市河井町に鎮座の「重蔵神社」(じゅうぞうじんじゃ)を訪ねました。

当社は平安時代中期に編纂された「延喜式」の神名帳にある「鳳至比古神社」(ふげしひこじんじゃ)、あるいは「辺津比咩神社」(へつひめじんじゃ)に比定されており、河井町の産土神として、また鳳至一郡の総社として重きをなしています。

2007年(平成19年)の能登半島地震で倒壊した鳥居は4年前に再建されましたが、今回の地震で再び損壊しました。

輪島市は珠洲市と並ぶ最も被災が酷かった地区であり、震災から8ヶ月経った今も、復興が進まない地区でもあります。

重蔵神社は、崇神大君の時代に創建されたと伝えられており、天平勝宝8年(756年)に泰澄によって寺院が建立され、以後、神仏習合の社として重蔵権現・十蔵大権現・重蔵宮とも称せられていました。

当社境内には、学生ボランティアの拠点となるユニセフのテントや、支援物資配給のためのテントなどが張られており、震災の生々しさを感じます。

しかし、神社自体もかなりの損壊を受けており、

目を覆いたくなる有様です。

重蔵神社の西の参道の先は、

朝市の露店で賑わう「朝市通り」が続いています。
輪島の朝市は日本三大朝市の中でも最も歴史の古い朝市で、物々交換の市が平安時代から開かれていたといいます。

重蔵神社の本殿内陣の扉は、明治43年(1910年)の大火で奇跡的に残ったもので、輪島市最古の漆工芸であるとのことでしたが、今回の震災では無事だったのでしょうか。

当社主祭神は、「天冬衣命」(あめのふゆきぬのみこと)と「大国主命」(おおくにぬしのみこと)で、相殿神には五男三女神が祀られます。

当地にて、天冬衣命は出雲から来臨して能登半島を平定したと伝えられており、大国主はその子とされていました。
天之冬衣は東出雲王国・富家出身の7代大名持だった人物。
平定とは穏やかではありませんが、富家は越国と交流が深かったので、実際に当地に足を運んで政治的なやりとりを行ったと考えられます。

彼の息子が大国主・八千戈だったというのは間違いで、本当の息子は東出雲王国8代少名彦の事代主・八重波津身になります。
越のヌナカワ姫を后にしたのも、八重波津身でした。

つまり重蔵神社は、本来は天之冬衣と八重波津身を祀る神社だったのかもしれません。

ところで、奥能登の神社を調べるのには、珠洲市正院の羽黒神社宮司様のブログがとても有用です。
羽黒神社宮司様の話によれば、輪島には、福岡宗像の海女たちが移住したと伝えられている「海士町」(あままち)という集落があるとのこと。海士町の成立は慶安2年(1649年)に加賀藩より拝領したもので、それより以前 は、多くの海女たちは冬場にアワビ等の漁の為にやってきて、秋口にはまた九州へ帰っていく、という移住生活を繰り返していたようだとのことです。

その宗像から来ていた海女たちが漁場にしていた島が「舳倉島」(へぐらじま)や「七ツ島」で、そこには宗像の神々が祀られているのだそうです。
舳倉島には奥津比咩神社があり、宗像沖ノ島と同じく、田心姫神が祀られています。
七ツ島は「中津島」がなまったものとの説もあり、七つある群島の最大の島を宗像の大島と同じく「大島」といい、そこには市杵島姫神を祀る中津島神社が鎮座しているそうです。

それで、延喜式神名帳の能登國鳳至郡の項には奥津比咩神社と辺津比咩神社が記載されており、奥津比咩神社は舳倉島の神と確定しているものの、辺津比咩神社に関しては論社が多く、いまだ確定していない状況なのだそうです。
しかしこの舳倉島と七ツ島を結ぶラインに鎮座するのが重蔵神社であり、重蔵を「へぐら」と呼んでいたという説もあって、ここが辺津比咩神社であった可能性が高いとされています。

実は「輪島」の地名も、宗像の辺津宮が鎮座する「田島」からきているという説もあるとのことですが、これらの神社を宗像の海洋民族が建立したのかといえばそうでもないようで、延喜式が成立し た昔から能登の民に大切に祀られていたのは間違いないのですが、前述のように宗像の民は近 世まで能登に定住する事は無く、移住生活を繰り返していたのでした。

ここで僕が気になったのは、出雲国風土記に記載された、ヌナカワ姫の出自の件です。
「古志国に坐す神で、オキツクシヰの子である、ヘキツクシヰの子」
これを僕は、ヌナカワ姫の父がヘキツクシヰ、祖父がオキツクシヰだと言っているのではなく、珠洲の沖津宮、糸魚川の辺津宮を治める一族の姫巫女であるという意味ではないかと考えました。
つまり、舳倉島と重蔵神社の関係はこれにあたり、古代に重蔵神社に天之冬衣を祀り、舳倉島には后の田心姫を祀ったのではないでしょうか。
そう、富家の伝承によれば、宗像の田心姫は、富家の天之冬衣に嫁いでいるのです。

すると、これは少々微妙なタイミングにはなるのですが、宗像族が三女神を「沖・中・辺」と三地を祀るよりも前に、糸魚川・珠洲や輪島の方が先に「沖・辺」あるいは「沖・中・辺」の二地祭祀、三地祭祀を行っていたのではないかと思われるのです。

「沖・中・辺」の三地を祭祀する形態は、日本の各地に少なからず見かけるものですが、その大元は宗像ではなく、能登にあった可能性が見えてくるのです。

しかしそんな重要な聖地である重蔵神社も心が痛む有様です。
潰れた社の上で寂しげなダイコクさん。

そして、「トホホ」と苦笑いが聞こえてきそうなエビスさん。
まずは個人宅の復旧・復興が優先されますが、神社は日本人の心の拠り所、お早い復興を祈ります。

能登の各神社には、白山社の影響を見ることができますが、重蔵神社では本殿の真横に大きく祀られていました。

なんと秘められた素晴らしき聖地であることか、能登とは。
被災された方々に対する節度は最大限に配慮しなければなりませんが、一人でも多くの人の心を動かすためにも、今、足を運び、心から応援差し上げることも、一つの道だと思う次第です。

あんでぃです。
隠岐の島の海士町も九州ー能登間の通り道ですね!
五条説に乗っかるのであれば、
富⇒十三⇒重蔵
と妄想してしまいます。
大阪の十三周辺の神社を調べてみますと、、、
さいの木神社
富島神社
が鎮座しておりました。
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富⇒十三⇒重蔵はあり得ると思いますが、現地では神仏習合時に地蔵尊を祀っていたからだと聞きました。
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