
令和6年10月15日の朝10時、僕は島根県松江市八雲町熊野鎮座の出雲国一之宮「熊野大社」に来ていました。
それは念願の鑽火祭『亀太夫神事』(かめだゆうしんじ)を拝見するためです。

前もって申し上げておきますと、今回、神事の写真は一切ありません。
なんでも今年から拝殿内の入場は有料となり、神事の写真撮影は一切NGなのだとか。なるほど、出遅れちゃいましたね、どんまい。
写真が『偲フ花』に残せないのは残念ですが、神事とは本来、そのくらい厳粛でも良いのかもしれません。

熊野大社は、火の発祥「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも言われています。
祭神は日本に初めて火をもたらした神として、非常に強い霊験をもつのだそうです。

出雲大社で11月23日に行われる「古伝新嘗祭」(こでんしんじょうさい)の際には、神聖な火を熾(おこ)すための「燧臼」(ひきりうす)と「燧杵」(ひきりぎね)を熊野大社からもらい受けなければならず、この時に出雲大社の宮司、国造家は献上品として餅を持参するしきたりがあります。
古伝新嘗祭とは、古来は陰暦の11月中卯の日に出雲国造自らが松江市大庭の神魂神社に参向し、その歳の新穀を神前に供え、 国家の繁栄と五穀豊穣を祈念するというもので、国造の奉仕する最も重要な祭儀の一つとされていました。
その様式から、古代出雲王家と国造家の関係を伝える貴重な神事であったはずですが、明治5年より出雲大社の神前で行われることになり、同6年より陽暦11月23日と定められ、新嘗祭の夜の神事として行なわれるように変えられたため、今では本来の意味が分かりにくくなってしまいました。

(画像はイメージ)
古伝新嘗祭に先だって行われる熊野大社の「鑽火祭」(さんかさい)は、この出雲大社国造家が、燧臼と燧杵をもらい受けるための神事で、熊野大社における最も重要な神事のであると伝えられます。
国造家が持参した餅を受け取った熊野大社の神官「亀太夫」は、献上品の餅を検分し、その出来栄えについて様々な文句を言い、最終的にしぶしぶ受け取るというやりとりが行われます。
この口上は決まったセリフがあるのではなく、毎年「亀太夫」役の神官が考えるのだそうです。
今年は餅をみた亀太夫が「昨年のものに比べて出来が向上したとは言えません。シワがあるし、色が黒くて、表面には凸凹がある。今すぐ作り直してきなさい」というようなことを言っておられました。出雲大社側はこれをひたすらうな垂れて、黙って聞いているだけ。
このやりとりを見た参拝者からは、笑い声が沸き起こっていました。

(画像はイメージ)
その後、亀太夫は「とは言え、11月には神在祭もあることだから、そこで能登の大震災、および水害の復興を一心に祈念すると約束するならば、大神様に取り次いでやろう」と言って餅を受け取ります。
ここで、出雲大社の宮司が拝殿に上られ、「百番の舞」を舞うことで、喜びを表します。
この一連の神事を「亀太夫神事」と呼びます。

僕はこの日、島根在住の富家伝承を広めようと尽力されている数名の方とお会いし、なんと拝殿内での神事見学、参列までご用意いただきました。
思いがけないおもてなし、今日という、とても貴重な1日をご用意くださった方々、TAMAchanさんに、感謝の気持ちが溢れます。
拝殿内では琴板による演奏と神楽歌が鳴り響き、とても神聖で、少し懐かしいような、不思議な時間を感じていました。

亀太夫神事でお叱りを受ける役は、今は出雲大社の下級神官が請け負っておられますが、かつては宮司が直接、その役を担っていたとのことです。
榊を次々と手にして弧を描く「百番の舞」も、その名の通り100回繰り返していたそうですが、今は50回ほどに減らされているのだとか。
人手不足と高齢化、またはその他の事情があって、神事も簡略化されてきているのでしょうが、それでもこの亀太夫神事が今に残り続けられていることは奇跡的なことです。
“出雲大社国造家よりも格上の存在である旧出雲王家がここにあったのだ”ということを伝える、世にも希少な祭りであるからです。

Mさんから頂いた広報誌には、面白いことが書かれていました。

火を起こす聖なる鑽火器「燧臼」(檜板)「燧杵」(卯木幹)の用材採取地について、明治25年(1892年)の当社史料『古伝祭取調書』には、「熊成峯」すなわち熊野大社の元宮があった「熊野山」(天宮山)へ用材の確保に出かけていたと記されていました。
ところが、この鑽火器の用材採取の場所が他にもあったようで、享保2年(1717年)の『雲陽誌』には熊野大社の「上の宮跡」の裏山である「御笠山」から切り出したとあり、延宝2年(1674年)の『拱北試筆抄』には熊野大社の北方1500mほどの地にある「恩部山」がそうだったとあるそうです。
この御笠山と恩部山は天宮山を遥拝する場であった可能性が濃厚で、人里近い遥拝山から、より神聖な聖山へ鑽火器の用材を求めていった経緯が窺い知れます。
また、今年の亀太夫神事で能登復興祈念について触れられていたことを、能登珠洲市の羽黒神社T宮司にお伝えすると、「実は、能登町にソックリな”いどり祭り”というのがあります」と教えていただきました。
なるほど、アレンジはされているものの、祭りとしての特異性は確かに同じものがあります。
T宮司は、「古代から、能登と出雲の繋がりは深いですが、数千年を経て、能登の復興を祈念してくださるのはありがたいです」とおっしゃっておられました。

「上の宮」は紀伊系熊野大社の勢力が建てた分社であるという話を目にしたことがありますが、背後の御笠山が天宮山の重要な遥拝所であることから、上の宮が天宮山と関係のない紀伊系の祭場である可能性は極めて低いと思われ、やはり上の宮こそ富家本家の重要な本拠地であったと考えざるを得ません。

また、神事の間ずっと僕は、「熊野大神」の正体について考えていました。
熊野大社の元宮である天宮山山頂付近の磐座には、代々の富家王族が埋葬されています。
そして富家伝承には、本家の屋敷に祀られていた小祠が、熊野大社の始まりであると伝えられていました。

現在の熊野大社の祭神を見ると
「伊邪那伎日真名子」(いざなぎのひまなご)=父神である伊邪那伎命がかわいがった御子
「加夫呂伎熊野大神」(くまののおおかみ)=熊野の地の神聖なる神
「櫛御気野命」(くしみけぬのみこと)=素盞鳴尊の別名
とあり、この三柱はすべてスサノオのことだとされています。しかし、
・イザナギ=クナト王がかわいがった、御子とも呼べる子孫王
・八雲山、須我郷を含む熊野の地を王都とした王
と捉えるならば、熊野大神の正体は、出雲王国初代「菅之八耳」王であると推察されます。
そう考えると、熊野大社本殿両脇に、稲田姫とイザナミ神(幸姫)が祀られているのにも納得できます。

これらのことを考えていると、ふと「出雲散家」の存在が脳裏に浮かびました。
旧暦10月、今では11月とされている「神在月」とは本来、各地に散った出雲族・出雲サンカが、サイノカミの母神・幸姫の墓参りに里帰りする月を意味していました。
「出雲散家は今もいるよ。もう本家に彼らが集まることはなくなったけど、割と最近まで散家は定期的に集まって、富家に挨拶に来てたんだよ」
富先生は僕にそう話してくださいました。
出雲の「神在祭」と「古伝新嘗祭」は別の祭りとなっていますが、時期的に同じ意味合いを含んでいると思われます。
古来の古伝新嘗祭は、熊野大社でもらい受けた鑽火器で熾した火で、その年収穫された作物を用いた食事を作り、神魂神社の本来の神に捧げるというものです。
僕は鑽火祭・亀太夫神事と古伝新嘗祭を作り出したのも、そのコピーを能登に伝えたのも、また鑽火器の用材採取地をより深い山に求めたのも、出雲サンカなのではないかと確信に近い推察をします。
“亀太夫”って名前もサンカ的ならば、なにより神事自体が「サンカ(鑽火)祭」なのですから。

古代出雲のことを書いた他の本では、出雲王家の末裔の人たちは日陰暮らしを強いられたと記されているのを目にすることがあります。国造家が力得た近代の出雲では、出雲族は迫害さえ受けたのだと。僕は失礼ながら、この事について富先生に尋ねてみました。
「いやむしろそれは逆だよ。穂日家の者たちが怪しい動きをしようものならね、全国から出雲サンカが集まって、彼らの前に仁王立ちになって睨みきかすんだ。想像してごらん、それはもう恐ろしいものだよね」
そう語る師匠の声は少し笑みを含んでいて、とても誇らしげに聞こえました。
熊野大社からの帰り際、偶然にも出雲大社の大宮司「千家尊祐」(せんげたかまさ)氏のお姿を拝見しました。
亀太夫神事、特にその「百番の舞」はかなりしんどい神事なのだそうですが、この日、尊祐宮司は杖をつきながらそれをこなしてありました。
歩くことも不自由な状態ながら、神事に臨む姿は凛として、俗人とは一線を画した漂う氣に、僕は見惚れていました。
一方、一緒に写真をと駆け寄る一般人に対しては足を止め、快諾されて一人一人に温かいお声もかけておられました。忙しい身であるでしょうに、次々と頼まれる撮影に、嫌な顔ひとつなく、穏やかに接しておられました。
日常においては、ひたすら神事に没頭することを生涯とし、生まれながらに厳粛な人生を歩んでこられた方が、これほどまでに穏やかであること驚き、感嘆します。
富家伝承を知ると、どうしても穿った目で見てしまいがちではありますが、古代から今の日本を作り上げてこられた大いなる一族の一雄であることには違いなく、日本人として低頭し、敬意が自然と湧き立つのを感じていました。


亀太夫神事参列を終え、富家伝承勉強会(?)の方々にお呼ばれをし、素敵な昼食をいただきました。
盛り上がる会話と出雲の大地の命をふんだんにいただく、まさしく直会と言って良い食事会でした。
会話の中で、僕が友人が少ないことを話すと、J嬢が「私たちが友達になりますよ」とおっしゃり、照れを隠すのが大変でした。

食事はどれもたいへん美味だったのは言うまでもありませんが、場所の提供と調理をしてくださった若ご夫婦と小さなお嬢さまの微笑ましい姿を見て、いにしえから続くサイノカミが、本当の幸せの教えなのだと改めて実感したものでした。

夜は夜でまた会食の場を設けていただき、たっぷり濃厚な時間を過ごさせていただきました。
この日お会いした皆さんとは、再会を約束してお別れとなりました。
僕は「勉強会のお役に立つことがあれば」と、まあ、その場の雰囲気に流されやすく、わりと安請け合いしてしまう口なのですが、こう見えても、受けたご恩の8割くらいは返す主義ですし、7割くらいはちゃんと約束を守るほうですし、6割くらいは誠実なんですよ。たぶん、ね。
