朝倉彦神社:八雲ニ散ル花 番外

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噂のからあげ棒「キラチキ」は見た目以上のボリュームで、食べ応えあり。
多岐町のいちじくを使った調味料が使用されているとのことでしたが、それはよく分からんかったな。
「海鮮たこやき」は蛸のほかに海老とホタテがそれぞれ入っているのですが、たこ焼きは蛸が一番美味しいのだと、改めて知らされた一品でした。

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さて、島根県大田市に鎮座の「朝倉彦命神社」(あさくらひこみことじんじゃ)を訪ねました。
こちらもこの日、秋季大祭とのことで、境内は賑わっていました。
集落の小さな神社が賑わっていると、ほっこりします。

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祭神は「朝倉彦命」(あさくらひこのみこと)で、「大物主神」と「素盞嗚尊」を合祀します。

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写真を撮っていると、氏子さんのお一人が話しかけてくださいました。

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僕が朝倉彦命とは、どういった神様ですかと尋ねると、「朝倉はマツリごとの中心地という意味があるから、その統治者だったんじゃないかな」とのことでした。
さもありなん。
実際にこのあたりには、市場などがあった形跡もあるようです。

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朝倉彦神社は小高い丘の上にあり、むかし、津波があった時の避難場所でもあったと教えてくれました。
当鎮座地は、今も重要な場所なのです。
しかし僕が「朝倉彦」と聞いて連想するのは、「物部朝倉彦」のことでした。

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『魏志和国の都』(親魏和王の都/勝友彦 著:大元出版)には、次のようにあります。

「タジマモリより少し遅れて、物部朝倉彦の軍勢が日本海を東に進んだ。
豊彦の息子・八綱田と菟上王が、豊国軍を率いて続いて進んだ。
この部隊は山陰海岸を東征し、西出雲王国を攻めた。
物部第2次東征に対して出雲王国が戦ったのを、第2次出雲戦争と地元では呼んでいる。

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西出雲王国の王家は、いわゆる大国主(第8代大名持)の子孫・神門臣家(郷戸家)であった。
当時の出雲王国の主王は第17代の遠津山崎帯王であった。
西出雲王宮は、真幸ケ丘の北(出雲市神門町)にあった。
神門臣家は、物部軍が斐伊川の南方から出雲平野に侵入し、神門川(今の神戸川)を渡って攻撃してくると予想した。
そこで神門川西岸の古志本郷から西出雲王宮にかけて(下古志遺跡)、防御用の深い溝を幾重にも造った。
石見国の静間川中流の川合(大田市物部神社の鎮座地)に集結した物部・豊連合軍は、多伎の小田を通って出雲平野に向かった。
物部・豊連合軍は不意に、神門水海(神西湖)から侵入し、防御用の堀のない所を知っているかのように、北方から西出雲王官を目指して攻撃してきた。
後で分かったが、物部・豊連合軍の攻撃に有利な道筋は、ホヒ家の韓日狭と息子ウカツクヌ(宇加都久奴)が東征軍側におもむいて、教えたと言われる。
神門臣家の将軍・振根は神門王の宮殿を守るために、宇佐八綱田の軍勢と戦った。
古志本郷方面の守備兵は、予想外にも背後から敵が迫ったので、大あわてで久奈子の丘に逃亡し、そこに新しい宮殿を建てた。

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-略-

物部東征軍将軍の朝倉彦は、物部軍を率いて久奈子の丘を攻めた。
新宮の防衛線も死闘を繰り返したが、両軍とも苦戦した。
そして出雲軍の防戦もむなしく、出雲王国の最後の王者・山崎帯は降伏した。
新宮において、山崎帯王と物部朝倉彦との間で、講和条約が締結された。」

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ということで、当社祭神の朝倉彦は、出雲を攻めた「物部朝倉彦」で間違いないと思われ、当地は東征の際に陣を敷いた場所であろうと思われます。

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この時の西出雲王家・郷戸家の王宮が「長濱神社」であり、郷戸家の出雲振根が奮戦むなしく戦死した場所だと考えています。
西王家最後の戦地となった久奈子の丘で、山崎帯王と物部朝倉彦との講和条約が締結され、そこは「和評宮」(わはかりのみや)と呼ばれるようになりました。
こうして出雲の主王・大名持「遠津山崎帯」と副王・少名彦「富大田彦」両名が降伏したことにより、太古より700年続いた麗しき出づ芽の王国が、終焉を迎えたのでした。

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ちなみに、この貴重な書物『魏志和国の都』はもう絶版になってしまったようで、多くの大元出版本と同じく、入手困難になってしまいました。
富家伝承の貴重な教科書『出雲王国と天皇政権』『出雲と蘇我王国』はまだ定価で入手が可能ですので、お早めに手に入れられることをお勧めします。

朝倉彦神社境内にある力石は、話しかけてくださった氏子さんのおじいさんが、海から自力で運んだ石なのだそうです。
この氏子さんは富家伝承のこともご存知で、
「確かに山側の人たちは穏やかなんだけど、五十猛神社がある海側の人たちは、ちょっと気が荒いんだよね。大陸系の気質を受け継いでいるのかもしれない」
と話されていました。
こうした地元民の素朴な話は、とても貴重です。

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また、大田人と出雲人は何気に仲が悪く、ことあるごとに張り合うのらしいですが、ちょうどその境目が朝倉彦神社の先あたりだと、教えてもらいました。
このぼこぼこの石は、海で貝などによって自然に作られたもので、杯状穴じゃないよ~。どんまい。

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朝倉彦神社の氏子さんが、この辺りは「国常立尊」(くにとこたちのみこと)を祀る神社が多いと話されていて、気になった神社をひとつ寄り道して訪ねてみました。

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「刺鹿神社」(さつかじんじゃ)です。

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境内には400本以上のソメイヨシノがあり、地元では桜の名所として知られているようです。

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参道にいらっしゃるのは、よくあるタイプの狛犬さんですが、

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玉を二つ咥えています。よくばりさんめ。

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丘を登ると、

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立派な社殿が見えてきました。

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当社は延喜式内社であり、延長5年(927年)には鎮座していたことになります。

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実際には元暦2年(1185年)鎮座の当・八幡宮に、刺鹿神社と西川大年にあった大元神社が合祀されており、それによって現社名の刺鹿神社というようになったようです。

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祭神は八幡系の「譽田別尊」(ほんだわけのみこと)、「息長足媛命」(おきながたらしひめのみこと)、「武内宿禰」(たけうちのすくね)の他に、「国常立尊」(くにとこたちのみこと)
が祀られており、こちらは大元神社の祭神であったようです。

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そして本来の社名を差し置いて現社名となった「刺鹿神社」の祭神が「大彦命」。
おおっ!
大彦命は貞観6年(864年)12月22日に字 宮垣(みやがき)に鎮座と伝えられます。

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西出雲王家領に、しかも物部東征軍の進路を阻むように大彦が祀られているのには、胸アツです。
偶然訪ねた神社で、大彦さんに会えるとは思いもしませんでした。

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社名の「刺鹿」は、当地の地名によるものらしいのですが、古代において鹿を狩で刺した場所ということのようです。
しかしこの社名は僕に、「刺国」や「粟鹿」といった名前を連想させました。

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兵庫県朝来市の「粟鹿神社」(あわがじんじゃ)に伝わる『粟鹿大明神元記』では、次のように記されていました。

「垂仁天皇の時、但馬国の粟鹿の嶺に大国主神の子・天美佐利命という荒ぶる神がいた。
姿を雲紫のように変化させ、自由に空中を駆けていた。
坂を通る人が10数人あれば10人を殺し5人を往かせた。
20人が往来すると、10人を殺し10人を往かした。
このような例は、1回や2回だけではなかった。
それから数年を経た時、大彦速命が、朝廷に天美佐利命を祭ることを望み、この神の様子を報告した。
そこで、朝廷より幣帛などを賜り、祭祀を行った。
また、粟鹿嶺の白鹿、その角の間に粟が生えていた。
それで、粟鹿大神と名付けた」

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大彦速命も、当地に大彦を祀った人も、大彦の子孫なのだろうと思われました。

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22件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    最近、神門家の関係で石見国の西方に興味が出てきて、特徴的な神社を探したら、何と大元神社が一番多いのが島根県である事がわかりました。それもほぼ西部に集中しています。

    ttps://www.saikouji.com/BukySaikou/Shrine/SameShr/Shrine275943515E793E79.html

    杵築大社から車で物部神社に行こうとすると1時間以上。

    更にその西側にかつての神戸かの領域があったのでいかに広い領地であったのかを知りました。

    豊彦の痕跡は物部神社より西方にある気がしてきました。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      大元神社の名の由来が気になりますね。
      豊家と繋がるんでしょうかね。
      大元出版も、なぜその名前になったのか🤔

      いいね: 1人

      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        narisawa110

        本日もポチポチ検索してみました。

        ttps://cultural-experience.blogspot.com/2015/10/blog-post_96.html?m=1

        神戸の土地においては、幸神信仰に加え、大歳教があった様に、もしかしたら大元教があったのかもしれませんね。雰囲気的に石見国も、東部と西部では何かが違う気がしてなりません。

        島根県江津市和木町の大元神社は、元大歳神社であった様ですね。

        これが四国の銅鐸の少ない土佐物部川流域に展開するわけですから成り立ちに関しては男系物部色が入る気がしています。

        ・・今ジワジワ来てるんですが、「中の人」ならちょっと会社の成り立ちをご存知だったりしてないかな〜とか思ってたら考えが甘かったですww

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      2. 不明 のアバター 匿名 より:

        五条先生

        先ほど目を皿のようにして、豊家の痕跡であれば、東日本にもある筈だと思い、調べたところ、福島県郡山、田村に大元神社ありましたwwww(グンマーでヒットしなかったときには少し涙目になりました)

        因みに東北の「守屋神社」も全て福島県にあります。(カタクラベ命系らしい)

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          上毛野王国にもう少しあっても良さそうですね、残念。
          守屋神社も何気に謎です。

          いいね

          1. 不明 のアバター 匿名 より:

            五條先生

            物部夏花さんですが、ホツマツタヱによると、八綱田のお孫さんとも出ています。

            ttps://hotumatutaye.com/gejirin/gsrc/mo/monohenatuhana.html

            男系物部の豊家とも、トオチネの子とも伝わる注目の人物~

            過去に、玉祖神社で先生も夏花さんに触れられていたんですね。人の縁とは本当に面白い。いつからこういう展開になる縁が太くなったのでしょうね。

            いいね: 2人

          2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            ご縁の国の神様のご末裔にお会いしてからですかね😌

            いいね: 1人

    2. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

      徐々に奥深く侵攻されていますね😂 物部神社のすぐ東が国境ですので石見國としては西側に独自文化が広がっています、近代でも方言違いますし。 波根から大田市・五十猛あたりは言葉も出雲言葉が入りますので、いわば緩衝地帯。西出雲との関係が深かった頃から余り変わっていないように思います☺️

      いいね: 1人

      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        narisawa110

        先ほど、グーグルマップにて大元神社を四国で検索していました。

        実は神社ランキングサイトでは全国70数社と出ていますが、「松山、徳島」以外、四国南部、西部、北部の全てにに唯一分布する特徴のある神社の様な気がしています。

        広島には宇佐大元神社というものがあり、厳島にも大元神社があります。

        安芸国からR9号線、R191を通って、石見の益田に抜けていってるかのようです。

        まるで「トオチネ+宇佐軍のルート」と言っても過言ではない分布になっていると思われます。まるでどこかの勢力圏内の神社が一気に宗旨替えしたかのような凄い分布になっていると思いました。

        いいね: 2人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          宗旨替えですか、なるほど。

          いいね: 1人

          1. 不明 のアバター 匿名 より:

            narisawa110

            岩見国のそれは確か、龍燐枠に大の字の神紋になっている様ですので。

            大社や千家と何らかの関係がある様に思えます

            いいね: 2人

  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    大元神社ですが、何気に長野県にも二つあるんですね。今度行ってみようかしら。

    いいね: 1人

  3. Ciao Chirico! Quanto tempo è passato! Spero tu stia bene! I posti che visiti sono sempre meravigliosi!!

    いいね

  4. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥刺鹿神社とはまた乙な名称ですな…狛犬がまるで魔界の魔物みたいな風貌なのも気になる🐤鹿を刺すというが、昔は鹿を何に例えていたのかというのが気になって仕方ない。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      気になって鹿たないですなぁ🦌

      いいね: 2人

      1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

        🐣鹿は可憐で美しくて逞しい生き物。これは気になって鹿たない🫎

        いいね: 2人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          た鹿に鹿は美しく可愛ら鹿いきものです。鹿に例えられた人とは、可憐な姫君であったかもしれませぬな。
          鹿し、鹿は捕食される生き物でもありますので、負けた側が鹿に例えられても鹿たないのかもしれません。
          かくがく鹿鹿”ありますが、これは、ますます気になって鹿たないですな🦌

          いいね: 2人

          1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

            🐥深いいですな鹿し…🫎

            いいね: 2人

          2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            いやいや、こんな鹿たないことばかり言っている僕を、たまには鹿ってくれてもよいのですよ🦌

            いいね: 2人

          3. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

            🐥この鹿ぁ‼️ムチをくれてやる鹿っ‼️ビシっビシっ‼️どうだもっと快い鳴き声を効かせてみろっ🐙

            いいね: 2人

          4. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            ありがとうございますっ!ありがとうございますっ🐙

            いいね: 2人

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