長浜神社:八雲ニ散ル花 45

投稿日:

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「お、大名持様、物部の大軍が小田を超え、王宮近くまで迫ってきております。」
「なにっ、」

真幸ヶ丘の北方にある神門臣王宮で山崎帯王は、驚きを隠せず立ち上がっていた。

「馬鹿な、奴らはこんなに早く堀を突破したというのか。」

248年、ついに物部・豊連合王国軍は、山陰側と瀬戸内方面とに分かれて進軍した。
軍の一方を受け持った田道間守は、出雲王国を攻めると称して、黄色幡4本を持って軍船に乗り、日本海を東へと向かった。
田道間守は、出雲王とその親族を皆殺しにすると宣言し、これを伝え聞いた富王家と神門臣王家の親族は震え上がった。

当時の出雲主王、大名持は第17代神門臣家の「遠津山崎帯」(トオツヤマサキタラシ)であった。
東を富王家が守り、神門臣王家は西から攻める物部軍を防衛することになった。
その付近は平野なので、王官の西側と東側に幾重にも堀を作つて防衛線としたのだった。

物部・豊連合軍は石見国に陣を敷き、さらに多伎の小田を通って出雲平野を目指した。
ところが物部軍は、出雲兵が待機する防御用の堀をかわすように、北方から神門臣王宮に向かって進軍してきた。

後で分かったことであるが、この物部軍の攻撃の道筋は、穂日家の「甘美韓日狭」(ウマシカラヒサ)と息子「宇加都久奴」(ウカツクヌ)が、物部軍におもむき、あらかじめ教えた道筋であった。
穂日家はまたしても、出雲王家を謀ったのだ。

「山崎帯様、ひとまず久那子の丘へ退避ください。そこを最終の陣とするのです。」

将軍「振根」は主王を、出雲王国の祭場「久那子の丘」に避難させた。

「さて、これで憂いもない。物部の兵どもよ攻めてくるがよい、一人でも多く道連れにしてくれようぞ。」

振根は兵を率い、王宮で最後の戦に望んだのだった。

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出雲市西薗町、美しい海岸のそばに「長浜神社」があります。

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参道は上り坂になっており、

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竹林や雑木の杜の中を進みます。

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長浜神社の祭神は、「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」の主人公「八束水臣津野命」(ヤツカミズオミツヌノミコト)です。

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臣津野は出雲の土地を広げようと、海のむこうの土地に綱をかけて引き寄せ、大地を造ったと伝えられる、出雲神話の神です。

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この事跡から、綱引きの祖とされ、スポーツ上達・不動産守護の神、勝利を引き寄せる神、または幸せや結婚、お金などのお願い事を引き寄せて下さる神様として、今に崇敬されています。

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実在の八束水臣津野とは、古代出雲王朝第6代主王で、西出雲王家「神門臣家」の大名持でした。

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長くきつい参道をようやく昇り終え、神門が見えてきました。

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そこにはやや広めの境内があります。

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この一帯は神門臣王家の領地でした。

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東征軍の主流は、物部イクメ王が率いる軍勢で、瀬戸内を進み、まずは吉備王国を目指しました。
吉備王国の抵抗は激しく、瀬戸内地方での戦いは、8年以上も続いたと云います。
その戦さの途上で、豊玉姫は病気になり、厳島で亡くなりました。
女王豊玉姫は死の直前、物部イクメ王を東征軍の最高指令官に任命し、先に進軍させました。

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田道間守の軍勢は、一旦故郷の但馬に戻り、兵と体制を整え、出雲王家と親戚を根絶やしにすると宣告して東出雲王宮へ進軍しました。
富王家の祭りの庭「田和山神殿」では、壮絶な戦いがあったと伝えられています。

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田道間守の進軍より少し遅れて、物部「朝倉彦」の軍勢が日本海を東に進んできました。
朝倉彦には豊彦の息子「八綱田」と「菟上王」が、豊国軍を率いて続きます。
この部隊は西出雲王国を攻めるため、山陰海岸を東征しました。

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山崎帯王は物部軍が斐伊川の南方から出雲平野に侵入し、神門川を渡って攻撃してくると予想しました。
そこで神門川西岸の古志本郷から西出雲王官にかけて防御用の深い溝を幾重にも造ったと云います。

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境内に「厳藻かけ」というものがありました。
「出雲」の語源となったと記してあります。

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忌明けの後、海で身体を浄めた証に海岸の海草をもって神社にお参りし、この海草は神聖なる「いづも」と呼ばれたと云うことです。

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境内の奥には、なんと三輪の三ツ鳥居がありました。
その奥に祀られているのは「斉の神」です。

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中央には夫婦石が祀られており、

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横には岐神社(くなどじんじゃ)の名で夫婦の斉の神が祀られています。

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奈良の三輪山は、もともと出雲王家のクシヒカタが、斉の神を祀ったことに始まります。
三輪山の神聖なる三ツ鳥居の原型は、ここにあると云うことなのでしょう。

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物部・豊連合軍はは不意に、神門水海(神西湖)から侵入し、まるで防御用の堀のない所を知っているかのように、北方から西出雲王宮を目指して進撃してきました。
この裏には、穂日家の「韓日狭」と息子「宇加都久奴」が東征軍側におもむいて、その道を教えたと云うことです。

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古代出雲において、秦国から渡来した徐福の一団の中で、穂日とその子夷鳥(ヒナドリ)は野心と狡猾さを有していました。

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彼らは出雲王家に住む場所などを世話してもらっておきながら、王国の権利を乗っ取らんがため、当時の主王「大国主・八千戈」と副王「事代主・八重波津身」を拉致・幽閉し、枯死させたのです。

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そしてその子孫は、今度は王国に物部勢を引き入れ、ついには王家を滅ぼそうと画策したのです。

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物部・豊連合軍の激しい攻撃に、神門臣家の将軍「振根」は、神門臣王の官殿を守るために、宇佐「八綱田」の軍勢と戦いました。
山崎帯王は、西出雲王国の霊時である久奈子の丘に避難しました。
そこはサルタ彦大神がこもる聖なる神名備「鼻高山」の遥拝地で、丘上の新しい宮を陣営と決めて、防備を固めることにしたのです。
振根は、西出雲王宮に残って奮戦しましたが、その付近で戦死し、王宮はついに物部軍によって占領されました。

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長浜神社の先には、美しい「薗の長浜」がありました。
国引き神話や国譲り神話の舞台となった長浜は、神話のロマンあふれる神跡として今に伝えられています。

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しかし実際は、ここは大国主・八千矛王を猪の目洞窟に幽閉するために拉致した現場であり、多くの出雲人が血を流した屈辱の長浜でもあります。
物部第2次東征で西出雲王家の振根将軍が戦死した事件を、記紀は誤魔化すため、架空の人物ヤマトタケルとイズモタケルの神話に変えてしまいました。
爽やかな朝の空に響くさざ波の音、僕はただそこに、いっときの間立ち尽くしていました。

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15件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110
    本日の爆弾〜ww
    抜粋。サホヒコは神門が匿ったのか?
    古事記には、サホ彦王が死んだと書かれたが、実際は丹後から先祖の血縁を頼って、出雲国の神門家に行き、ナガホ(長穂)ノ宮に住んだという。そこは、園のナガハマ(出雲市)にあり、以前から大国主ノ命とオミツヌノ命(六代目・大穴持)とをまつる建物があった。今は、長浜神社になっている。
    斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版
    → 久佐加神社 島根県出雲市日下町731

    抜粋。まるで襲津彦の様ですね
    サホ彦王は先に九州に移り、日向国の西都原を中心にして、王国を造ったと伝えられる。
    斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版
    → 「西都原さいとばる古墳群」の男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳を別の形で説明しようとしていたのかもしれない。

    抜粋。いまはこんな感じですよね。
    三輪山の霊留女貴(太陽の女神)を奉じてサホ姫は、サホ彦軍とともに近江に逃げたが、尾張国の丹羽郡に隠れたという。
サホ彦はさらに東に移り、甲斐国に行き日下部連と苗字を変えた。
    勝 友彦 著 『魏志和国の都 -伝承の日本史-』 大元出版 

    抜粋
    「二股杉の木で、二股舟を作り御子を乗せて」という語句は、ホムツワケが大㑨王の子孫であることを暗示している。大㑨王の子が明立王だ。サホ姫は明立王と結婚し、ホムツワケを生んだとの言い伝えがある。
    斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

    抜粋。
    『古事記』では、曙立王が「うけい」をした後、垂仁天皇は彼に「倭者師木登美豊朝倉曙立王」(やまとはしきとみとよあさくらの あけたつのおお)の名を授けたと書かれています。
    大和磯城家と和仁家は、登美家の分家だった。始めの言葉は、明立王が登美家と和仁家を受けていることとを示す。次の語句は、「豊」の国の宇佐家を頼って、そこに住んだこと、その後で筑後の「朝倉」に住んだことを示している。弟の菟上王は豊国の菟狭王と血縁を結んだらしい。
    斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

    抜粋
    明立王の弟の菟上王が続いて出雲に来て、Aの話の「神の宮」を築いた。そこに明立王と、ホムチワケを連れたサホ姫らの一族が、共に住んだ。サホ姫は稲積の中で死んだのでは、なかった。この時の宮は、後の知ノ宮(今の智伊神社・出雲市神門町)だと伝承されている。
    智伊神社は、神戸川の中流にある。当時は斐伊川下流は、西へ曲がって海に出ていた。神戸川は斐伊川下流と平行して流れていたから、古事記に斐伊川とあやまって書かれたもの、と思われる。
    斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

    抜粋
    この一族も後にサホ彦王を追って、東九州に移住したと言う。そしてホムツワケの子孫が宇佐家と血縁を結び、ナカツ彦大王になったと伝えられる。

※ナカツ彦大王・・・仲哀天皇
    斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

    仲哀天皇、中津臣家ではなかった説ww
    欲しい、欲しいぞこの本ww

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      ずいぶんたくさんの抜粋ですが、本は借りられたのでしょうか。
      最近、別の方からサホ姫のとある考察を伺ったばかりでした。その話も、なかなか面白いものでした。

      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        narisawa110

        古代出雲への道

        に昨年あたりから焼き直しの記事が掲載されはじめている様です
        「ホムチワケ伝承と沙穂彦一族をかくまった神門臣」
        で検索してみてください。

        びっくら描きました。

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          蘇える出雲王朝の方でしたか!
          富家伝承考察においては、大大大先輩になられますね。
          大元出版の書籍が手に入りにくい現状、富家伝承を後世に残すためには、こうした啓蒙する人たちの努力が今後はさらに重要になります。

          1. 不明 のアバター 匿名 より:

            narisawa110
            長浜=長穂ですが、長穂ノ宮で検索したらもうひとつ出てきました。
            富能加神社
            ttps://genbu.net/data/izumo/honoka_title.htm

            長穂の宮の古跡とあるようで、ちょっと複雑ですが、小野神社と合祀になり、小野神社があったところに現在の富能加神社があります。

            また、富能加神社には更に旧跡地があり、磐座の様な処に小さなお社があった様です。
            まるで仏教山の磐座みたい

          2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            富能加神社は先日参拝しており、そのうち記事にします。
            松江に富能加姫を祀る星神社もあり、星信仰と関係があるようです。

    2. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

      爆弾の答えはKAKA様でしたか。納得です。
      最近両ブログ伺ってなく失礼したので読ませていただこうと☺️

  2. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    こんにちは。年始に長浜神社と久奈子神社、智伊神社をセットでお参りに行きました。また、本来はお盆や大晦日、彼岸に行くべきところであり、年始に行くべき場所ではないのかもしれませんが、なぜかどうしても素通りできず、御陵神社にお参りもしました。畏れ多くも。。そして失礼がないよう感謝の気持ちを込めてお参りしに行ってきました。

    本題です。長浜神社でかなり気になったことがあります。妙見信仰です。ある一説によると、このお社は
    江戸時代までは妙見社だったと。私的には出雲国開拓の神様であるオミツヌさんが御祭神であり、三輪山の三ツ鳥居がある(山陰ではもしかすると淀江の三輪神社とここだけかもん)貴重なお社だと思ったのですが。。

    妙見信仰?北斗七星や北極星を崇めていたのは、徐福を祖神とする一族だったのではないでしょうか?
    だとしたら、なぜそれが西出雲王家の大切なこのお社に、まるでメインであるかのようにドーンとあるのでしょうか、もしもご存知でしたら経緯が知りたいです。ネットや出雲風土記みてもあまりピンときませんでした。

    そうだ、調べてみても分からないから五条さんに頼ろう、と思った次第です(すみません)

    私としては。。このお社近くの都我利神社、また、阿太加夜神社、揖夜神社や天神垣神社等、その他、多く山陰のお社に残されているアラハバキ信仰、サイノカミ信仰の名残である藁蛇さんが巻き付いてる斎の木等があったりすると嬉しいなあと勝手に思ってました。(三ツ鳥居でサイノカミと岐神の字を見たときはテンション上がりました)

    なぜ、妙見信仰??なのかがわかりません。攻めてきた物部、豊連合国がここにそれを広めたのでしょうか?特に宇佐は、月への信仰があったのですよね。。

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      こんにちは😊
      長浜神社で三つ鳥居を見た時は、興奮しますね。
      以前、長浜神社を参拝した方から、宮司さんの話をうかがったことがあります。なんでも、こちらの方が大社に相応しいのに残念だ、という旨の話だったと思います。長浜神社は王宮跡ですので、宮司さんのお気持ちを察するところです。しかしそれはまた、長浜神社宮司家に、真の歴史が語り継がれていることを示しているのかもしれません。
      智伊神社も王宮跡ですが、物部東征以降、宇佐王家の菟上王が居住したといいますので、長浜神社にも物部の息がかかっていた時期はあるかもしれません。しかしかの三つ鳥居とサイノカミが残されている点から、信仰はそのまま残されたのではないでしょうか。妙見信仰は仏教伝来以降のことでしょうから、物部とはまた別の由来で、信仰され始めたのではないかと思います。

      1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

        色々と貴重な情報をありがとうございます😊

        長浜神社の宮司さんにお会いできたのですね。
        神門臣口伝が代々語り継がれていたらいいなあ。。と思いました。 

        私が行ったときはお若いお兄様宮司?禰宜さん?がおられて、 
        すごく達筆な金色の四種類の御朱印を選ばせてくれて(やり手だ。。令和にしっかりご対応)うさぴょん、猫にゃんを
        描いてくださいました、可愛い🐈🐇内神社(高野宮)とここの御朱印が金色や朱色が入ってお気に入りです。

        拝殿のとこに縄で巻いてある2つのトグロがありました。
        蛇のような。。上賀茂神社のトグロの縄バージョンみたいな。これまた少しテンションあがりました。

        確かに長浜神社は
        すごく立派で何か威厳を感じ、大社に相応しい気がしますね!
        王宮跡なのもピッタリのような気がします。ここが真幸ケ丘の北方の王宮のことなのでしょうか。

        私はてっきり、
        西出雲王家は智伊神社のとこに王宮があるのかと思って降りました。
        そして東出雲王家が神魂神社に王宮があり、前者が兎上王、後者が物部千十根に占領されたという風にはセットでなんか覚えてました。

        鳥取県西部なもので、
        松江、安来の方向感覚はあるのですが、出雲市の地理にはかなり弱いです(^_^;) 質問ばかりですみませんm(_ _)m

        1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

          あ、申し訳ありません。私の読解力がありませんでした。長浜と智伊、両方王宮があったのですね。ふむふむ。

          物部の息がかかった、というのが、特に智伊神社の方に感じました。小高い丘のとこの出雲系の小さな少し寂しい祠、金毘羅と春日、2つを併せてある社(T_T)

          妙見信仰は仏教伝来以降なのですね! なぜかホッとしました。

          1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            長浜神社の宮司さんのお話は、人から聞いた話ですので、私は直接お会いしたことはなかったと思います。確か早朝の参拝で、無人だったと記憶しています。
            郷戸家の宮は、当主が変わるたびに移っていたと聞いています。三屋神社もそうですね。

  3. nakagawa のアバター nakagawa より:

    こんばんは。
    「厳藻」に反応しました。
    これは海藻の種類的には「ガラモ」でしょうか。
    「いづも」の語源だとしたら興味深いです。

    1. CHIRICO のアバター CHIRICO より:

      こんにちは。
      この厳藻かけ、出雲の神社では時折見かけるということなのですが、僕は他に佐太神社で見ることがありました。
      そこの看板では「ジンバ草」(人馬藻)と書いてありました。
      僕は海藻の種類に詳しくないのですが、ジンバ草とはガラモの一種かもしれませんね。
      富氏は、出雲人の故郷であるインドに多い濃緑色の常緑樹に対して、日本では春に芽吹く木の色が、目にしみるように美しく感じられたので、「出づ芽の国=出雲」と呼んだと記してありました。

      1. nakagawa のアバター nakagawa より:

        ありがとうございます。
        佐太神社の記事も改めて読ませていただきました。
        とてもとても参考になりました。

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