物部東征軍将軍「朝倉彦」は、軍を率いて出雲王が篭る丘を攻めた。
急造の宮殿では、出雲兵も必死の抵抗を見せた。
両軍とも苦戦したが、やがて、出雲王国の最後の主王「山崎帯」は降伏した。
最後の戦地となった丘に、山崎帯王と物部朝倉彦との間で、講和条約が締結される。
山崎帯王最後の王宮は、講和条約が締結されたことから、「和評宮」(わはかりのみや)と呼ばれた。
ここに、ついに第2次出雲戦争は締結する。
それは同時に、出雲の主王・大名持「遠津山崎帯」と副王・少名彦「富大田彦」両名が降伏したことにより、太古より700年続いた出雲王国が終わったことを意味した。
八雲立つ、麗しき出づ芽の王国が、終焉を迎えたのだった。
出雲市古志町、栗栖山にある「久奈子神社」(くなこじんじゃ)は、正しく、古代出雲王国終焉の地でした。
小高い山を車で登り、そこからまっすぐに伸びた参道の階段を昇ります。
王宮を攻めらた西出雲王国軍の大部分は、あわてふためき南方の古志町に敗走し、久那子の丘に集結しました。
そこは西出雲「神門臣家」が信仰する「幸神三神」(さいのかみさんじん)の「サルタ彦」大神のこもる鼻高山を遥拝する祭りの場でした。
幸神三神とは太古に出雲に渡ってきたインドのドラヴィダ族の「クナト王」と、その后「幸姫」(サイヒメ)、そしてその子神とされたインドのガネーシャ「サルタ彦」のことです。
サルタとは猿田ではなく、長いもの(鼻)を意味するドラヴィダ語でした。
つまり久那子とは「クナト王の子」という意味で名付けられたのです。
神門臣家の重鎮「振根」将軍は北の王宮に残って奮戦しましたが、丘の付近で戦死します。
ついに王宮は物部東征軍に占領されました。
東征軍は次に久那子の丘を攻め立て、これに出雲兵も最後の死闘を繰り広げます。
両軍とも苦戦したと云いますが、最後には西出雲王家が支配権を失う形で、講和となりました。
講和を締結したのは、出雲王朝最後の主王「山崎帯」(ヤマサキタラシ)でした。
講和締結の場となった久那子の官は、江戸時代ごろまで「和評官」と呼ばれました。
今は久奈子神社となった当社の祭神は「伊邪那美命」です。
神紋に、熊野新宮の神木である「梛」(ナギ)が用いられています。
ところで日本書紀では出雲の神宝の献上事件を作り、出雲王国滅亡を、それとなくほのめかしています。
しかも神宝を大和の大王に献上したのは、裏切りの穂日家「甘美韓日狭」と「ウカツクヌ」とされています。
崇神天皇(物部イニエ王)は群臣をあつめ
「武日照(タケヒナテリ)が天から持って帰った神宝が、出雲大神の宮殿に収蔵してある。ぜひこれを見たいものだ」
と仰せになりました。
そこで矢田部造の遠祖「武諸隅」(タケモロスミ)を派遣して、これを献上させることにしました。
出雲臣の遠祖にあたる「出雲振根」が神宝を管理していましたが、武諸隅が訪れた際には筑紫国に出かけていて会うことが出来ません。
そこで振根の弟である「飯入根」(イイイリネ)が、天皇の命を受けいれ、神宝を弟の「甘美韓日狭」(ウマシカラヒサ)とその子の「鸕濡淳」(ウカヅクネ)に持たして献上しました。
帰国した出雲振根は弟に対して
「なぜもう少し待たなかった。何を恐れて神宝を差し出してしまったのだ」
と責めました。
そうして何年たっても怒りがおさまらない振根は、策略でもって弟を撃ち殺してしまいました。
甘美韓日狭と鸕濡淳は朝廷に参上して、事の次第を報告し、「吉備津彦」と「武淳河別」(タケヌナカワワケ)を派遣して出雲振根を攻め滅ぼしました。
それゆえ出雲臣一族は、このことを恐れ、出雲大神(オオクニヌシ)をしばらくの間祭りませんでした。
その時、丹波の氷上の「氷香戸辺」(ヒカトベ)という人物が皇太子の「活目尊」(イクメ王 / 垂仁天皇)に
「私の子供が、自然に不思議なことを言いました。これは子供の言葉としては不自然で、あるいは出雲大神が取り憑いた言葉かもしれません。」
と申し上げました。
皇太子がそのことを天皇に奏上され、勅を下して再び、出雲大神を祭らせることになったと云います。
東出雲王家の直系の子孫とされる富家の伝承が正しいとすれば、日本書紀には、勝者と裏切り者に都合の良い、改ざんされた歴史が記されていることになります。
また『出雲国造家文書』には、出雲国造世系譜が収録されていますが、この中には完全な誤りが2箇所以上あると云います。
甘美韓日狭は国造家11世「阿多命」(出雲振根)の弟で、ウカツクヌは第12世「氏祖命」の別称であると記されているのです。
甘美韓日狭とウカツクヌは穂日家の者であり、出雲王家に仕えていながら、裏切って、物部・豊勢力による侵略の手助けをしたのです。
しかも穂日家はその後「出雲臣家」を名乗るようになりました。
「臣」という称号は出雲王家だけが名乗れる称号で、本来出雲臣を名乗っていたのは「富家」でした。
穂日家は出雲臣の称号をも乗っ取り、今に我は出雲の祖であると称していることになります。
結局のところ、真の史実は一部の人たちの思惑通り、闇の中に失われ、正確にそれを知ることは不可能になってしまいました。
それでもこうして、歴史のポイントとなった場所に足を運ぶと、その土地や空気が、何か訴えかけてくるような気がしてなりません。
屈辱の歴史が刻まれた当地も、今は地元の方に愛され、賑やかな祭りも執り行われるようになりました。
その神社から望めば、出雲平野の向こうの晴れ渡った空の下に、出雲北山の最高峰「鼻高山」が往古の時を超え、悠然とそびえ立っていました。