
千葉県館山市洲崎、御手洗山(みたらしやま/110m)中腹に鎮座する「洲崎神社」(すさきじんじゃ/すのさきじんじゃ)を参拝しました。

式内社(大社)論社で、江戸時代に安房国一宮とされた神社です。

参道にある大鳥居、そのしめ縄にはこっそりと「久那土大神」と書かれています。

実は洲崎神社からは富士山を遥拝することができ、マックイーンさんもおっしゃる通り、富士山の真の祭神は久那土大神だと言いたいのではないかと推察されます。

ただし、富士を遥拝する鳥居は別にあって、この大鳥居や社殿は富士山を向いていません。
辿ってみると、伊豆半島の「比波預天神社」「廣瀬神社」「長浜神社」「大瀬神社」といった僕の言う越智・安房ファミリーの聖地に繋がっていて、これはこれで飯ウマです。

というのも、当社祭神は「天比理乃咩命」(あまのひりのめのみこと)で、安房神社祭神である「天太玉」の后神だからです。

ドイヒ~💦💦

急勾配の階段を、膝を励ましながらせっせと登ります。

まあ、この階段は仕方ない。
kanekoさん曰く、この辺りは往古、水位が15mほど高かったらしく、低い位置の神社は新しい神社なのだそうです。
つまり高い位置にある神社こそ、古代から祀られていた場所となりうるのです。
まあこれは、日本全国の神社に言えることでしょうが。

趣深い社殿。

大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、初代天皇元年に初代天皇の命を受けた天富命が、肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓した。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとされています。
天富命は天太玉の孫とされ、同書および『先代旧事本紀』には、天富命が良い土地を求めて阿波忌部を率い、黒潮に乗って東遷してそこに麻・穀(カジノキ)を植えたと記されています。
榖が実った地は結城郡(茨城県結城市)、麻が良く実った地は総国(上総・下総)と呼ばれるようになり、安房忌部の居る所は安房郡(安房国)となって阿波族祖神である太玉命を祀る安房社を建てたと伝えられていました。

宝暦3年(1753年)に成立した洲崎神社の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、初代天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが洲崎神社の始まりであるとしています。
また同書には養老元年(717年)大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので役小角が7日7夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたのだとのこと。
当地には修験道の開祖である役小角にまつわる伝承が多くありますが、役小角は出雲散家の一族ですので、出雲族もこの南房総を古くから霊地であると認めていたのでしょう。

延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では、安房国安房郡に「后神天比理乃咩命神社 大 元名洲神」と記載されていました。
洲崎神社はこの「天比理乃咩命神社」の論社の1つですが、もう1社の「洲宮神社」と、どちらが式内社であるか江戸時代から激しく争われてきました。

論争は明治になって決着しますが、明治5年(1872年)には洲宮神社が式内社であると定められたものが、翌6年(1873年)にこれをを覆して洲崎神社が式内社となります。
ただし、その決定の論拠はあまり明白で無いようです。

拝殿の右側の小高い場所に境内社群があり、そこに登ると

洲崎神社の赤く雅な本殿を見ることができました。

祭神は一柱と聞いていましたが、扉が三つ。天太玉と天富命を配祀しているのでしょうか。
天比理乃咩は元の名を「洲ノ神」(すさきのかみ)と称していたといいます。
天比理乃咩の名称は『延喜式』神名帳によるものですが、これよりも古い『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』などには「天比理刀咩命」(あめのひりとめのみこと)と記されています。
刀咩とは戸畔(とべ)のことでしょうから、当地方を統べていた姫巫女王であった可能性が高いと思われます。
実際に天比理乃咩神の名は南房総半島及び関東の一部にしか見られません。
つまり彼女は、天太玉の妃ではなく、当地にやってきた忌部族と和合のため、婚姻もしくは習合した女神であると推察されます。

慶長2年(1597年)の『金丸家累代鑑』によれば「安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する洲宮后神社は、後に洲宮明神と称し、それを奥殿とし二ノ宮と曰う。また、洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮と曰う」とあることから、洲崎神社と洲宮神社は「洲の神」を祀る2社一体の神社で、天比理乃咩神は安房神社の天太玉よりも、大々的に民衆によって敬愛を受けていた様子が窺えるのです。



拝殿向かって左手にある稲荷社の先に、富士山遥拝所があると言うので、行ってみました。

この鳥居がそれのようです。

が、生憎と、この日は霊峰の姿を見ることはできませんでした。

鳥居の横には、「源頼朝公笠掛けの松」と言う立て札がありました。
もっとも、その松は枯れてしまっている様子。

治承4年(1180年)8月に石橋山の戦いに敗れた頼朝は、海を渡って安房国へ逃れました。
『吾妻鏡』には、頼朝が洲崎神社へ参拝している様子が記されています。
さらに彼は当社へ神領を寄進しており、その後、頼朝が平家討伐を成したことから、「天下統一の願いを聞き入れてくれた神」と評判となり、その後の多くの武士の崇敬を受けることになっていきました。

この富士見の鳥居のそばから、洲崎観音養老寺に降りる階段がありました。
「南総里見八犬伝」ゆかりの寺だそうです。里見八犬伝といえば、若かりし頃の薬師丸ひろ子と真田広之のイチャラブな物語が思い出されます。

洲崎観音養老寺は洲崎神社よろしく、真っ赤な御堂ですが、その境内壁面に、

「役行者の岩屋」とよばれる横穴があり、祠の中には役行者の石像が祀られているそうです。
里見義実(よしざね)の娘・伏姫(ふせひめ)がこの岩屋に参拝した時、役行者が化身した翁が現れ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が浮かぶ8つの数珠を授けました。



洲崎神社の境内図を見ると、

参道の先の海岸にコーヒー豆があるようなので、行ってみましょう。

少し歩くと、鳥居が見えてきました。

ほうほう、ここからも富士山を遥拝できるようですが、

ぐぬぬ、

ムゥ~っ、煩悩退散!六根清浄!

み、見えた!…気がする

さて、アレがコーヒー豆でしょうか。

おおー、こんな感じ。

これは「神石」と称されており、龍宮から洲崎大明神に奉納された2つの石とされていました。

ではもう1つの石はどこにあるのかというと、対岸の三浦半島にある安房口神社に祀られているとのこと。
洲崎神社の神石は裂け目の様子から「吽形」とされ、安房口神社の石は口を開いていることから「阿形」とし、阿吽の2石で東京湾の入口を守っていると伝えられています。

僕からしたら夫婦のサイノカミにしか見えませんが、どうなのでしょうね。
いつ頃、誰が置いたものやら。役小角が置いたとも伝えられるので、出雲散家が関わっているのかもしれません。

案内板には、この辺りの海岸が元鎮座場所とありましたが、それもどうなのか。
この辺りは往古は海の底。まあ、龍宮にお宮があったというのなら、それもそうなのかもしれませんが。


narisawa110
なんと、四国と同じで、おふなとさんが居るんですね。
富家の神門化って、小野家以外にも起きてる?
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富家の神門化、疑わしいですよね。
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遥か先端の洲崎までお疲れ様でした💦 東京からも同じ房総の我が家からも120-130キロ、この辺りも縄文期の移住民が上陸しやすい場所ではあったそうです。長ーい階段登っての富士遥拝は残念でしたが、コーヒー豆(くるみにも)からはあれは富士です!六根清浄効果出てます。 伊豆の大瀬崎も好きで何度か行きましたがしっかりリンクしているのは納得。 房総エリアの隆起、海面低下は数度あったそうで、紀元前のあとの大々的なものは元禄地震。その合間に建てられた神社も微妙に地域別で細かな変化の狭間の痕跡が地層に出ていると、県内の地学者から聞きました。
>>つまり彼女は、天太玉の妃ではなく、当地にやってきた忌部族と和合のため、婚姻もしくは習合した女神であると推察されます。
このお言葉にスッと腑に落ちるものを感じております。
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いや、遠いですねー。それだけに海岸に立った時の思いはひとしおでした😅
今思えば、洲宮神社の存在に気が付かなかったのが悔やまれます。
でもまあ、弓削宮司にはまた改めてお会いする事になっているようなので、その時にでも参りますかね😊
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narisawa110
弓削氏の宮司様ですか。物部系とも忌部系とも言われ、守屋の母系のお宅ですよね。
そこでクナトの大神様が祀られるとは・・
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弓削様は、いすみ市中原の玉﨑神社の宮司さんです。
物部氏の聖地とされながら、豊玉媛を祀っています。
さらにその聖域が琴平宮跡という不思議。
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