
能坐淵
小口川(赤木川)の淵なり 此淵を指して宮本と云ひて相須の産土神として川端の岩を神體と崇むと云ふ
- 『紀伊続風土記』巻之七十九 牟婁郡第十六の三 村郷日足村相須神丸


和歌山県新宮市熊野川町日足にあるという「高倉神社跡」が気になり、立ち寄ることにしました。
が、そこは神社跡ですから、先にその合祀先である日足625番地の「高倉神社」を参拝します。

国道168号沿いにあるこちらの神社は、石垣で補強された壁面を上っていきます。

意外にきつい階段。

上り切った先の開けた場所には、これまた立派な神社が鎮座していました。

祭神は「高倉下命」(たかくらじのみこと)。
当社は明治末頃旧村社であり、大正末期頃、志古・相須・田長・椋井・日足浦地の神社等を合祀したと伝えられます。

祭神が一柱のみということは、合祀元の神社は全て高倉神社だったのでしょうか。
熊野川支流の赤木川沿いには、高倉神社が今も点在しています。
この辺りは、高倉下の支配域であったことは、間違いなさそうです。

高倉下は、徐福の息子「五十猛」を父に、大国主の孫「大屋姫」を母に持つハイブリット・エリートです。
普通なら難なく一国の王となれる立場でした。
しかし父・五十猛は出雲から天橋立・籠神社のある丹波(現・丹後)に移り、海王国を建国すると、九州の物部穂屋姫を新たに妻として迎えました。
穂屋姫の父親は徐福であり、姫と五十猛は異母兄妹にあたります。
母親も、五十猛は宗像家次女「多岐津姫」の娘「高照姫」であり、穂屋姫は宗像家三女「市杵島姫」ですので、二人の血は非常に近いものとなります。

五十猛と穂屋姫の間に皇子「村雲」が生まれると、大屋姫と高倉下は肩身の狭い思いをしたのでしょう。
やがて二人は葛城に移り住む決心をします。
その時には、大屋姫の弟「多岐津彦」を頼ったことと思われます。
葛城で平穏を得た母子。
しかし彼らにとって忌まわしいことに、今度は海家の村雲が軍勢を率いて葛城にやってきました。
そして自らを大王と称し、大和王国を建国したのです。
日本古代史にとっては歴史的な記念すべき日ですが、母子にとっては悪夢以外の何物でもなかったでしょう。
高倉下は、行く先々でねっとりと纏わりつく徐福の血統に憎悪を抱いたに違いありません。
高倉下は、老いた母が亡くなると、大和に未練はないとばかりに、紀伊半島方面へ一族を率いて南下しました。



和歌山県道44号「那智勝浦熊野川線」を熊野川町日足から小口に向かう途中、道路の端に素朴な鳥居があります。

鳥居の先に見える景色は、オー・マイ・ゴット。
陽光を受けて輝く、熊野ブルーの翡翠がありました。

ここが、僕が気になっていた「高倉神社」跡。
少し急な石段を下った先に、石舞台があります。

翡翠色の聖域は、川の流れも穏やかで、夏には子供達の遊び場になります。

顔を上げれば、対岸の砂州に、こんもりとした森。
当地はかつて日足村(ひたりむら)と呼ばれており、小名(小字)として、相須神丸(あいすかんまる)という、興味深い名前が付けられています。
『紀伊続風土記』の日足村相須神丸の項には、この淵を「能坐淵」と称し、「小口川(現・赤木川)の淵である。この淵を指して宮本と言って、相須の産土神として川端の岩を神体として崇めると云う」とあります。

川端に神体である磐座があるということですが、対岸はとても神秘的ではあるものの、磐座らしき姿は見当たりません。

で、僕が降りて来た石舞台側には、ゴロゴロと、一応岩らしきものが転がってはいますが、

この絶妙なバランスで支えられている岩が、神体岩でしょうか。

『み熊野ねっと』さんの情報では、「とある神主さん」からの情報として、熊野川町教育委員会2003「町史研究資料 その12 熊野川町の民俗 地域の行事編」に、
「…この場所はミヤノモト(宮の元)と呼んでおり、相須の一番上にある。小口へ向かう道と赤木川の間に位置する。かつては川岸に2メートルほどの石がそびえていた。若い人はそこから川に飛び込んだ。少し下に上流から流してきた木材を貯めるアバ(網場)があったが、この丸太で石がひっくり返されて今は小さくなっている。お宮はもともと現在地にあったが、いったん山の上に移り、「ありずらい」ということで、また川沿いに降りてきたという。山の上には今でも白い石を敷いたところが残っている。祭りは旧暦の霜月1日にしていた。…」
と書いてあるとのことです。
この辺りの岩が、かつては2mほどそびえていて、倒れて割れたりして、今のサイズになったということでしょうか。

そして『紀伊続風土記』にも記されていましたが、この辺りの淵を「能坐淵」と呼び、また宮本、宮の元とも呼ばれていたといいます。
能坐淵の読みはなんと言うのかイマイチ分かりませんが、能ではなく、熊だとしたら、それは神を意味するのでは無いかと思われます。
つまり、「神の坐す淵」で宮の元なのではないかと思うのです。

これらの情報をまとめて考えると、2mあったという岩は、磐座というよりは神の坐す目印のようなもので、神籬に近いものだったのではないかと思われます。
神体はむしろ、この翡翠色の川であり、淵であったのではなかろうか、と。

また、日足は日下とも書き、または日垂とも書かれるそうで、『紀伊続風土記』には「いずれも借用したもので正字ではない。いつも水に浸される地なので”漬”の意味であろう」とありますが、僕は陽光と川の色の関係を表す地名ではないかと考えます。
日が差すからこその翡翠色であって、曇りの日には、くすんだ色になるだろうからです。

関連はないと思いますが、大分にも日足村があり、こちらは「ひあし」と呼ばれています。
大分最大の聖地「御許山」を水源とする日足川の最上流域の谷間にあり、その川は常世織姫の墓と伝わる橋津村の貴船神社付近に注ぎます。
いずれも、非常に神聖な川であることが似ています。

古代に当地に移住した高倉下の子孫たちは、時に増水して恐れされ、日が差せば稀に見る透明度の翡翠色を示す聖なる川に神を見いだし、そこに祖神を祀ったのでしょうか。
そして彼らは、祖神・高倉下に辛い思いをさせた物部一族を、熊野川上流の中洲「大斎原」に追い詰めました。
相須神丸の「高倉神社」跡地は社殿を失ってむしろ、原初の祭祀の形を取り戻したようにも見えます。
旧暦の霜月1日に行われていた祭りは、今は11月3日に行われ、当地で祭典を斎行した後に、合祀先の高倉神社で祭典がなされているそうです。

高倉神社跡はとても心地よく、立ち去るのが名残惜しくなってしまいますが、
鳥居の入口あたりから振り返ると、

突き出た岩が、亀の頭のように見えたのでした。

narisawa110
紀伊国の立ち位置からすると、タキツヒコ以外の奈良の勢力は、全てが好ましい存在ではなかったと思います。
前600年台に飛ばされた第一次物部東征ですが、参加者は地名が主になっていると考えられます。つまり、ヤマトでの呼ばれ方と九州での呼ばれ方が違うのでは?と言うことが挙げられます。
出雲口伝では、当初はウマシマジは架空の人物で、額田宿禰の旧名、ウマシウチを借用したとあります。
これは最初の東征が紀伊国を通過した事、つまり地名とは無縁ではないように思えます。
甘、味→珍彦(宇治、埋橋)
記紀は倭国大乱期の事を物部で終わらすのか、太田氏のクーデターまで書いて終わるのか立ち止まって考えたのかもしれません。
太田氏は三輪君とも呼ばれ、大王経験者呼称でも呼ばれていますので帝記編纂委員会に呼ばれていたら上位の序列になってもおかしくはない家柄です。記紀ではそれを隠す必要があります。(何かと引き換えに)
出雲口伝に立つのであれば大彦はヤマトでは切られておらず、神代で事績が長髄彦として再利用されていますので、なんでもアリの方ですが、少なくとも追い出されたのであれば追い出した人達もいる訳です。
果たして、太田氏は紀伊国の助けを借りずに単独で東征軍を和歌山の山奥経由で引き入れる事は出来たのでしょうか?
珍彦は前政権側に付いたようですが、他の紀伊国の人たちは太田氏と組んだような気がします。
もしくは垂仁の時の出雲族の様に、講和後に物部氏に付いた可能性もあるかなと思います。(記紀では珍彦がヤマト政権側に書かれたので、紀伊国の敗れ方は書かれていない気がする)。適当に戦ったフリをして奈良の領地の安堵や勢力拡大を目論んでも不思議ではありません。
古事記と日本書紀の大彦関連の書かれ方の違いが、出雲口伝での、それぞれの先生の本におけるウマシマジのまとめ方の違いになったように思えます。
この様な経緯を想定するのであれば、二度目の東征の際にも太田氏は物部の攻撃対象にはならなかった可能性があります。
故に、三輪山の近くにトヨの祭祀場を許したのかもしれません。
太田氏は腹違いの物部氏が分裂状態になって困ったでしょうね。
最終的に金印は垂仁がトヨから奪った気がしています。
ウマシマジにはロマンがいっぱい詰まっていると思います。
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今まであまり興味が湧きませんでしたが、改めて思うと、ウマシマジはロマンですね。
ウマシマジ、珍彦、太田田根子、この辺りがもう少し見えてくると面白いのですが。
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東征の際に、淡路島(ハエイロドなど)や、四国に縁があり、纏向型前方後円墳の担い手、更には物部氏のふりをすることが出来、古来のヤマトの銅鐸祭祀に関わり、和歌山から四国に開拓に入っていた一族は、大彦系と、よく考えれば太田氏もあげられますね。太田家が大王家とも婚姻関係を結んでいたら、物部のフリも出来なくはありません。
忌部氏と呼ばれる前の氏族の候補は、大王家と、よく考えたら太田家も挙げられる様な気がしますね。
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narisawa110
ウマシマジが誰であるか?そこには新しい答えがある気がして、いちパタカベット中の私。
いつかその答えが出るその日まで。
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