
熊野にやって来たら、一度は歩いてみたい熊野古道。
でも、調べれば調べるほど、熊野古道を歩くのは大変そうだと感じるものです。
プチ熊野古道ウォークをあなたが楽しみたいのであれば、僕は「高野坂」(こやのざか)をお勧めします。
古道の楽しみを、ぎゅっと詰め込んだ宝箱のような、プチ古道だからです。

熊野古道「中辺路」は熊野速玉大社がある新宮から、那智へ向かう道で、高野坂はその一部となります。

時間に余裕があれば、速玉大社から浜王子を経て、高野坂まで歩いてみるのも良いでしょうが、今回僕は高野坂のみを歩くことにしました。
車であれば、駐車場は少し離れていますが、丸のところを利用します。
高野坂入口付近は、駐車場がありません。

こんな感じの、ちょっと怪しげですが、ちゃんと駐められる無料の駐車場があります。

ちなみに展望所とありますが、展望はこんな感じ。
見えんやないかい。

無料駐車場から5分ばかり歩いて高野坂入口を目指します。
入口付近は、ね、駐められないでしょ。

素朴な民家の道を抜けると、

一気に古道感が増します。

途中、紀勢本線の線路に出会いました。
海とのコントラストが素敵です。

ただし線路敷地内には立入り禁止なので、注意。

この辺りの海岸は「御手洗海岸」(みたらい海岸)といいます。
初代天皇が熊野に来た時、丹敷戸畔を討って、そのとき手に付いた血をこの磯の海水で洗ったと伝えられています。

が、実際には、戸畔ちゃんたちが禊をしていた浜ではなかろうか、と思われます。

さて、いよいよここからが高野坂なのですが、

トイレが用意されていますので、準備を整えましょう。

高野坂は標高100mに満たない程度の丘に、1.5kmほどの道が続く、お手軽プチ古道です。

普通に歩くだけなら、1時間もあればクリア可能かと。
旅のおまけに、ちょうど良いね。

しかし、

侮ってはなりません。

一気にあなたを、異世界へと引き込むそこは、いにしえの玉手箱なのですから。



すぐ傍には、日常の世界があるはずなのですが、

一体ここは何処よ、常世?

そんな興奮が沸き起こります。

熊野古道は祈りの道だとは言いますが、ここはむしろ、古代の祭祀場なのでは、と感じてしまいます。

隣には海が見えていて、潮騒が響く森です。

「御手洗の念仏碑」と呼ばれる三体の石碑が建っていました。
真ん中が地蔵さんで、三体とも江戸時代中頃に建てられたものと伝わります。

まだ日は高いはずですが、この鬱蒼感。

まるで黄泉比良坂を歩いている気分ですが、片側がちょっとした崖になっていますので、踏み外せば黄泉比良坂への近道となっています。
そのうち、川のせせらぎが聴こえて来て、水の氣がいっそう濃くなりました。

美しい世界。
そうして僕はいつも、イザナギの棲まう常世の国へと、迷い込んでしまうのです。



高野坂は土の道あり、石の道あり、木の根道あり。

海があって、雑木の森があり、竹林があり、川がある。

ずっと昔から、この道はここにあって、人は祈りと共に歩いて来たのでしょう。

以前僕は、お手軽熊野古道として「発心門王子から熊野本宮大社」に至る道を紹介しましたが、あれはあれで良いですが高野坂はまた格別。
もっとメジャーになって良さそうですが、インバウンド化しても嫌なので、あまり広めなくて良いですね。

詳細不明の「孫八地蔵」。
こちらは江戸時代初期に作られたようです。

そして謎の石垣が現れました。
この石垣は「熊野列石」または「熊野猪垣」(ししがき)と呼ばれるもので、地元では江戸時代以降に作られた猪よけの垣根だという認識が定着しているそうです。
しかしこの石垣は、新宮と那智を取り囲むように、60kmにわたって築かれており、7世紀以前に作られた城壁ないしは聖域の境界であるとする、いわゆる神籠石的なものと主張する説もあるようです。



空が青い。

孫八地蔵が高野坂のちょうど中頃と聞いていましたが、

急に個人の敷地のような場所が現れ、古道の終わりかと思われました。

が、道はまだまだ続いています。

急に現れた赤い鳥居は、「金光稲荷神社」(きんこういなりじんじゃ)の鳥居。

奥には二つの社がありました。

手前のこちらは摂社でしょうか。

米子大神。

ここから眺める森の氣配がまた一段と濃厚です。

そして一段高いところに祀られるお社。

石垣に囲われ、そこが重要な聖域であることを示しています。

金光稲荷神社で検索すると、広島東照宮の境内社がヒットしますが、当社との関連はなさそうです。

どういった謂れの神社なのかと考えていると、

まだ設置されてさほど時を経ていない、手書きの由緒が掛けられていました。
なるほど、岡山城主 金光宗高(かなみつむねたか)ゆかりの神社でしたか。

金光宗高は宇喜多氏の家臣でしたが、かねてから備前国を領有し、岡山の地に城下町を建設したい野望を持つ宇喜多直家に、毛利氏と内通していると言い掛かりを付けられました。
宗高は、死後は子供ら所領を与えることを条件に、石山城を明け渡すと一筆をしたため切腹したといいます。
元亀元年(1570年)のことでした。

宗高は信仰心が篤く、保護していた金光山岡山寺に比叡山から高僧を招いた程であったとのこと。
そこの御神体を、家来たちがここに遷したということです。

横の方にある石の祠のようなものは、「羽指中建立の石祠」(はざしちゅうこんりゅうのせきし)と呼ばれるものです。
羽指とは、江戸時代初期から始まった古式捕鯨において、銛を打ち込んだ鯨に、海に飛び込んでとどめを刺す危険な役目を負う人たちのことです。
この石碑は、当地三輪崎の羽指たちが奉納したものと考えられています。

さて、気になるのは先の金光稲荷神社由緒書きの最後に書かれた「旧、女神明神社の跡でもある」という一文。
さりげなく書かれていますが、とても気になります。

というのも、この金光稲荷神社の杜は、「おな神の森」と称されていたとも伝わるからです。
一説には、初代天皇が東征の際、当地にて海を「お眺め」になったことから「おな神」になったとするものがありますが、ちょっとそれは美しくない。
当地は丹敷戸畔が支配していた土地であり、往古は海に突き出た聖域だったのではないかと思われます。

この金光稲荷神社は「ニシキトベの塚」とも称されており、

「おな神の森」とは「女神の森」であったとする説に、僕も一票を入れたいと考えます。

そしてやはり、丹敷一族の持つ雰囲気というのは、出雲3、南国系7という感じなのでした。



金光稲荷神社から元の道に戻り、少し歩いたところに大きめの丸い石があります。
これは「弁慶の力石」だそうですが、何の説明もありません。

当地は武蔵坊弁慶の誕生地を謳っています。

やがて道は、美しい石畳へと変わります。
古道らしい、良き道です。

途中で道が分かれていて、上に何か書いてあります。

「縄文人住居跡」とあります。

登ってみると、「ニシキトベ屋敷跡」と書いてあります。
なんと、スルーしなくて良かった💦

案内板によると「初代から3代目まではここに住む 4代目からは北にある女神城に住む」とあります。

ここに、縄文人の住居遺跡があった、ということなのでしょうか。
そのような研究・発掘があったという情報は得られませんでしたが、今は草が茂っており、よくわかりません。

奥に「日時計」という案内板があったので探してみると、

なるほど、杯状穴のような穴が縦に並んだ石がありました。

この記事を書いていると丁度、先の「丹敷戸畔の墓」の記事に、このニシキトベ屋敷跡の情報を下さった方がいらっしゃいました。
「そこの説明によれば3代目ニシキトベのとき神武と戦い、17代目のとき景行天皇と戦い、北海道に追いやられたとあります」
気になって調べてみましたら、Googleマップの口コミ欄に「女神城跡」の情報が書かれていました。

なるほど、これのことですね。
女神城跡は金光稲荷神社あたりから行けたようですが、また機会があれば訪ねてみます。
しかし、この内容、ぐぬぬ、となります。
まず景行軍が紀伊國を攻めたというのは、富家伝承的にあり得なさそうですし、そのとき敗北した丹敷勢がアイヌ人になったというのも、時代的に無理があるように思います。
しかし、初代天皇東征軍を「物部軍」と表現している点は、正しい歴史に則していると言えます。
この情報元であろう『熊野三苗伝』とは何でしょうか。ネットでは見つかりませんでした。

う~ん、気になる。

これはアレですね、この看板は比較的最近、新しく架け替えられたもののようですし、作った方がいらっしゃるはずです。
その方を探し出してアポイントを取るのは僕にはハードルが高いので、アレですよ、天女さんのお仕事ではないでしょうか。
その辺りが詳しく分かれば、今回女神城跡に行けてませんし、また高野坂を歩くのも良いかなと思います。

とにかく情報がほぼない丹敷戸畔ちゃんですが、調べると、強大な一族の媛巫女であった可能性が見えて来ました。
紀伊半島南部の広大な土地を支配し、その中心部である新宮から那智にかけた一帯に60kmに及ぶ神籠石を築き聖域とした戸畔。
さらに、丹敷は「にしき」ではなく、「にふ」と呼ぶのだという説もあるようで、ここに「丹生都比売」が絡んでくるとどえらいことになりそうなので、今回はこのくらいにしておきましょう。

ともあれ、古道巡礼ファンも、古代史ファンも、たんなる旅行者も大いに楽しめ満足できるプチ熊野古道「高野坂」。

川のせせらぎと海の潮騒に、最後まで心洗われる旅なのでした。

6年前、19年4月にここを歩いております(・・;) 件の丹敷戸畔ちゃんよりずーっとあとの17代目の話はうーん🤔なのでありますが、媛巫女が何代もというのはこの土地から感じさせるに十分なものがありました。 もし、にゅぅ~が関わってくると北側の丹生都比売神社&そのあと高野山への道から離れ貴志川沿いに美里・紀美野と下るルートと有田川沿いに下るルート共に走ってみたら、まるで宮崎の五ヶ瀬川と耳川の線のように辿った道々にグイグイ引き込まれる何かを感じたのも同じ6年前の出来事でした。
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やはり、にゅぅ〜が関わってくるのでしょうかね。
記紀では敢えて隠しているのかもしれませんね😌
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動画拝見いたしましたが、山伏が通るかのような、すぐ脇が崖の道ではありませんかー(プルプル(高所恐怖症))。でも、ほんと雰囲気がありますねぇ。写真と画像のアップ、ありがとうございます😊
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まあまあな崖っぷちですねー😅
鳥の声に気を取られてよそ見してると😇ですね。
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へー へー凄いなぁ またまたこんな場所に行かれたかぁと読んでいて 天女の文字。。ドキッとしました。畏まりですーお調べ致します。カタカタカタ。。少々お待ちください
(^ω^)
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かしこみかしこみもまおす〜ぅ🙇♂️
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