高積神社:常世ニ降ル花 抓津夏月篇 12

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和歌山市禰宜村に聳える「高積山」(たかつみやま/237m)。
写真では見切れていますが、左側のピークが高積山となります。

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Wikipedia(運動会プロテインパワー )からお借りしました。
紀ノ川側からだと、きれいな三角錐の山に見え、その美しい山容から「和佐富士」とも呼ばれます。

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高積山の西麓に鎮座するのが「髙積神社」(たかつみじんじゃ)下ノ宮です。

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創建は不詳ですが、『延喜式』神名帳の紀伊国名草郡に載る名神大社「都麻都比売神社」(つまつひめじんじゃ)の論社のひとつとされます。

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また同項の式内小社に「高積比古神社」「高積比売神社」の名があり、こちらに比定する説も存在します。

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祭神は「都麻都比売命」(つまつひめのみこと)、「五十猛命」(いたけるのみこと)、「大屋津比売命」(おおやつひめのみこと)となっており、
「天照皇大神」「須佐男命」「八王子神」「大山祇神」「気津別神」「応神天皇」「神功皇后」「比賣大神」を配祀します。

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江戸時代後期に和歌山城下の書肆・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された『紀伊国名所図会』(きいのくにめいしょずえ)は、「高津比古神」、「高津比売神」、「気鎮神」(けちのかみ)を三柱神に充てており、式内社「高積比古神社」「高積比売神社」に比定しています。
当社には明治43年(1910年)に気鎮神社をはじめとして和歌山市和佐地区内の10数社が合祀されており、配祀神が多いのはそのためかと思われます。

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一方、「都麻都比売神」としての史料の初見は、『続日本紀』大宝2年(702年)の「伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社を分遷した」という記事となります。
日前神宮・國懸神宮と当地・和佐荘との間で起こった水論(日前国懸神宮と高大明神の用水相論)では、永享5年(1433年)の言上状に当社が古くは日前宮の地にあったと記されており、のちに鎮座地を山東(伊太祁曽神社)へ移り、さらにのちに和佐山へと遷座したとする伝が載せられているとのことです。
この伝と『続日本紀』大宝2年(702年)の記事との一致を、『紀伊続風土記』では高積神社が都麻都比売神社である根拠としています。

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髙積山は元々、「和佐山」「和佐の高山」と呼ばれており、高積比古・高積比売の二神が祭神であるというのは、高山「高」の一字が同じであることからの付会にすぎないと『続風土記』は主張します。

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高積神社下ノ宮には3つの境内社があり、それぞれ、「金山彦神」「五十猛神」を祀る社、「水波能売神」「宇迦之御魂神」を祀る社、「金比羅社」となっていました。

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さて、高積神社下ノ宮というからには、上ノ宮もあるわけで、それは当然高積山の山頂にある、ということになります。

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車で登っていけそうな気配もあるけど、やめておいた方が良いよね。

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はい正解。
道は途中から荒れており、倒木なんかも普通にあります。
Uターンする場所もなく、入り込んだら抜けられない蟻地獄。観念して歩いて登りましょう。

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『続日本紀』によれば、元は1箇所に祀られていた伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社を分遷した、ということでした。
そして日前神宮・國懸神宮が垂仁天皇16年に、名草郡の浜宮から現社地に遷座したと伝えられています。
それに伴い、日前神宮・國懸神宮の現社地に鎮座していた五十猛・大屋津比売・都麻都比売の三神は山東の「伊太祁曽神社」に遷座しました。

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さらに大宝2年(702年)に三神分遷の勅命があり、大屋津比売と都麻都比売が分かれて別々の場所に祀り鎮まったとあります。
この時、都麻都比売が祀られたのが「和佐高山」(高積山)であるとのことです。

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伊太祁曽社、大屋都比売社、そして都麻都比売社の位置関係ですが、都麻都比売社を高積神社であるとすると、元宮である日前神宮・國懸神宮からそれぞれ約5.5kmの間隔で鎮座していることになります。
一方、吉礼や平尾の場所は伊太祁曽神社に近い場所であり、大屋都姫神社だけが遠く離れた場所に鎮座していることになります。

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三神分遷において、三兄姉妹のうち、1人だけを遠く離して祀ったというのも変な話であり、紀ノ川を見守るように姉妹神を両岸に祀ったと考える方が自然だと思います。
つまり、式内社の「都麻都比売神社」は、和佐高山の「高積神社」であったろうというのが、僕の感想です。

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道は、車で来たならば、もはや絶望しか感じない様相になってきました。

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途中の脇道にあった、石祠の残骸。

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足元の小花に励まされつつ、坂道をひたすら歩いていきます。

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下ノ宮から15分ほど登ってきたでしょうか、

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「一丁」と彫られた石のところで分かれ道になっていました。

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ここには案内板もなく、ともすれば道なりにまっすぐ進みそうになりますが、

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正解は右に折れた、こちらです。
まっすぐ進むと森に迷い込むので要注意。

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味のある石段の道が、地味にふくらはぎにダメージを蓄積させます。

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もうちょい!がんばれ桐彦!

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と、何かいます。
天を仰ぐ大蛇でしょうか。

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なるほど、神仏習合の名残りでしょう。そこかしこの石に梵字が彫られています。

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これらの梵字石は、明治期の分離令で破壊されたのでしょうか。

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お堂らしきものは地下施設となっていました。

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上ノ宮まではあと少し。
ここの分岐を南に250mほど進むと、南北朝時代の城跡に行けるようです。

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この高積山は、弓の偉人「和佐大八郎」(わさだいはちろう)の母が、息子のために毎日願掛けのために通ったという話が伝えられています。

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寛文3年(1663年)に和歌山で生まれた大八郎は、14歳にして身長が2mにも達したという大男でした。
彼は紀州藩の弓術師範指導のもとで弓の実力を伸ばし、貞享3年(1686年)京都三十三間堂で行われた一昼夜無制限で射続ける「大矢数」に参加します。
大八郎はそこで総矢数1万3053本を射て、うち8133本を成功させるという大記録を打立てました。

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彼の大偉業の影には、くる日もくる日も険しい山道をいとわず通い続けた母の思いがあり、満願の日には山頂の社の石段に大牛が寝ていたのを恐れもせずに通り、祈願したという逸話も残されています。

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と、その大牛が寝ていたという石段がこれでしょうか。これはすごい!

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境内を取り囲むように、周囲に石積みが築かれています。

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まるで、古代神殿遺跡のような神社。

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こんな神社が人知れず、山中にひっそりと佇んでいるとは。
そしてどうもこちらは、裏参道のようでした。

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改めて、表参道に来ました。

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重圧感がすごい。
この非日常感で白飯3杯はイけます。

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高積山には黄金伝説が古くからあり、何某かの国司が黄金一千枚と朱三石を埋蔵し、村民の飢渇に備えたと言い伝えられていました。
そこである時、掘ってみようということになり、するとこの高積神社上ノ宮付近から、約15000枚の古銭が発掘されたとのことです。

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古銭はすべて中国銭で、この量の多さは県下で初めてということでした。
古銭は県の文化財に指定されましたが、数ある日本の埋蔵金伝説の中で、実際に発見されたのは稀なこととなります。

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高積神社上ノ宮の祭神は下ノ宮と同じく「都麻都比売命」であり、

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左右に「五十猛命」と「大屋都比売命」を祀ります。

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この3神を祀るところから、「高三所明神」とも呼ばれており、また「高の御前」「高の宮」の名で親しまれ、疱瘡(天然痘)流行の節は県内外からの参詣者が絶えなかったといいます。

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また、高積山が「和佐山」と呼ばれていたのは、当地の古い呼び名が「和佐荘」(わさのしょう)であったことから、こちらが本来の山名だったのではないかと思われます。

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和佐荘は紀伊国名草郡の紀ノ川南岸,現・和佐中一帯にあった荘園でした。
荘園(しょうえん)とは、古代・中世(8世紀から16世紀)に存在し、貴族や寺院・神社などが国家から領有支配が認められ収入を得た農地とその周辺の山野を含む私的な土地のことです。
農地は「公領」に対して「私領」と呼ばれ、多くは国家へ納める税の減免が認められ免田となったといいます。

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和佐荘内には、当庄を灌漑する「和佐井」と」日前・国懸神宮領一帯を潤す「宮井」とが通っており,1433年から翌年にかけて用水相論が発生し、合戦にまで及びました。
それだけ和佐荘は水も豊富で、力もあったということでしょう。

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この和佐荘で僕が思い浮かべるのは、出雲において阿波から来た人を意味するという「和奈佐」(わなさ)のことです。
こじつけかもしれませんが、この和佐山の木々を切り開くと、「眺望の絶佳なることは他に比類が無く、西は和歌山市は足下にありて、遠く淡路四国まで一望の中にあり」とのことで、四国の古い民との繋がりを感じさせます。

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紀伊国にやってきた高倉下は父・五十猛と母・大屋媛を当地に祀ったと考えられますが、ツマツ姫は誰が祀ったのだろうか。
『日本書紀』に3人は兄姉妹と書かれてしまったがゆえに、後から加えられたのかもしれませんし、元からツマツ媛に相当する神が、高積神社の元宮たる現・日前神宮・國懸神宮の地に祀られていたのかもしれません。

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そもそも、ツマツ媛とは一体誰なのか。
五十猛には大屋媛ともう1人の后、物部の穂屋媛がいましたが、ツマツ媛はそこに加わる第三の后・越智の媛なのかも知れません。

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あまりクローズアップされることのない媛神ではありますが、彼女の聖域を訪ねると、どこも素晴らしい景観に満ちており、そしてあたたかで優しい神氣に満ちているのでした。

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