豊鍬入姫命は伊豆加志本宮より遷り、天照大神を3年間奉斎した。
和歌山市西南部の岬の中ほどにある「濱宮」(はまのみや)へとやってきました。
当社は「元伊勢」の1つ、「奈久佐浜宮」(なぐさのはまのみや)であると伝えられる神社です。
奈久佐浜宮は『倭姫命世記』に記載される元伊勢の第四であるとして知られています。
豊鍬入姫命は、大和国の「伊豆加志本宮」から当地へ移り、ここで天照大神を3年間奉斎したと記されています。
それは天照大神の安住の地を探し求める、長い旅の途上のこと。
しかしながら、豊鍬入姫は何故、太陽の女神を日の沈むこの地へ祀ろうと考えたのか。
もっとも、この倭姫命世記の内容は創作である可能性が濃厚です。
というか、個人的には確定的だと思っています。
豊鍬入姫とは「親魏倭王の女王」、いわゆる「邪馬台国の卑弥呼」と称される「宇佐王国」の女王「豊玉姫」、その娘であるからです。
彼女は太陽の女神を奉斎するどころか、大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)を占拠した兄「豊彦」に続いて、祀られた太陽の女神を排し、宇佐の月神をそこに祀りました。
しかし彼女の栄華は長くは続かず、豊家と同盟を結んでいたはずの義理の兄弟「イクメ王」(垂仁天皇)に裏切られ、逃げた先の鈴鹿市「椿大神社」(つばきおおかみやしろ)にて暗殺されてしまいます。
当社の本殿は2殿からなり、
それぞれ祭神は第一殿に主祭神として「天照皇大神」、
第二殿に配祀神として「天懸大神」 (あまかかすおおかみ)と国懸大神 (くにかかすおおかみ)を祀ります。
天懸大神は日前神宮祭神の「日前大神」(ひのくまおおかみ)に相当します。
『紀伊続風土記・(紀伊)国造家旧記』によると、神武天皇の東征に際して、「神鏡」「日矛」の2種の神宝を奉じた天道根命が、両神宝の鎮座地を求めて紀伊国加太浦に来着したと伝えられ、その2種の神宝を奉安したのが当社の創祀とも伝えられます。
第二殿横には、天照大神を当地に祭祀したとする豊鍬入姫を祀る神社が、彼女が腰掛けた石と伝わる「腰掛石」とともに鎮座していますが、先の理由から当社の真の祭神は日前大神・国懸大神の二神であったと思われます。
この神は天照大神の「前霊」(さきのみたま)と云われ、神体をそれぞれ「日像鏡」(ひがたのかがみ)・「日矛鏡」(ひぼこのかがみ)であるとします。
この二つの「鏡」は『日本書紀』の岩戸隠れの段にて、石凝姥が八咫鏡に先立って造った鏡とされ、現在は日前神宮・國懸神宮の御神体と伝わっています。
「八咫鏡」と言えば三種の神器の一つであり、天照大神の御神体として伊勢神宮に祀られている鏡になります。
その八咫鏡に先立って造られた神鏡が2枚もあったとは、あまり知られていないのではないでしょうか。
また天道根が、最終的に二つの神鏡を祀った場所を「琴ノ浦」と言いますが、そこはかつて1丈程(およそ3m)の高さの大岩が並び、この岩に波が触れて琴の音のような響きをたてていたために称されたと伝えられます。
『続風土記』によれば、「日前國懸の神が初めて鎮座した浜であるので汚穢不浄の者を近づけず、もし禁を破れば祟りがあった」と記されていますが、現在は埋め立てられて住友金属の工場と関西電力の発電所が建てられている、という有様のようです。