日前神宮・國懸神宮:八雲ニ散ル花 木ノ国篇06

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和歌山市秋月、紀ノ川河口付近に、あまり聞きなれない神を祀る、ちょっと変わった神社があります。
「日前神宮・國懸神宮」(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)です。

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当社では、一つの境内に二つの神社が同列に祀られています。
二社を総称して「日前宮」(にちぜんぐう)、あるいは「名草宮」とも呼ばれています。

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両社とも式内社であり、紀伊国一宮を謳っています。
紀伊国の一宮は、これで僕が知る限りでも、「丹生都比売神社」「伊太祁曽神社」に次いで3社目です。
旧社格は官幣大社ですが、現在は神社本庁に属さない単立神社となっています。

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石の橋を渡り鳥居を潜ると、

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杜に覆われた、中央の参道があります。
この参道がすごい。
霊気が降り注いでいるような感じがしました。

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突き当たりまで行くと案内板が。

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左に曲がった突き当たりに「日前神宮」、右に曲がった突き当たりに「國懸神宮」が祀られています。

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両社とも同格で、上下の順列はないとのこと。
どちらを先に参拝しても良いようです。

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先に日前神宮に伺いました。
主祭神は「日前大神」(ひのくまのおおかみ)で、「日像鏡」(ひがたのかがみ)が神体だと伝えられます。
相殿神として「思兼命」(おもいかねのみこと)、「石凝姥命」(いしこりどめのみこと)が祀られます。
これらは「天岩戸神話」で登場する神。

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由緒によると、当社の創祀年代は不詳だが、神武東征にあたり、「天道根命」を紀伊国造とし、名草郡毛見郷に祀られたのが起源であり、崇神天皇51年に名草浜宮へ遷座、垂仁天皇16年に現社地に遷座され今に至ると云います。

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「天道根」(アマノミチネ)は、『先代旧事本紀』によると神皇産霊尊の子神である「天御食持命」の次で、川瀬造(かわせのみやつこ)等の祖としています。
『新撰姓氏録』では「神魂命」の5世の孫で、滋野宿祢、大坂直(おおさかのあたい)、紀直(きのあたい)、大村直田連(おおむらのあたいたのむらじ)、川瀬造等の祖とされています。

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何れも、出雲の祖神「カミムスビ」の血を引く者として記されており、『先代旧事本紀』によれば、高天原から降臨する「饒速日」の護衛として付き従った32神の1柱であると記され、神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられたとされることから、彼は「高倉下」につながる人物であると推察されます。

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ところが『紀伊国造系図』によると事情が変わります。
彼は「天津彦彦火瓊瓊杵尊」の天孫降臨に随従し、後に「神武天皇」から「日像鏡」と「日矛鏡」の2種の神宝を鎮座させるべき地を探すよう託され、東征軍とは別に宮崎の日向を出立、諸国を遍歴して紀伊国賀太浦に到着。
そこより木本郷、毛見郷舟着浦、竃山などへ移りつつ神宝の鎮座地を探し求め、天皇が大和国橿原の地で即位すると祈念の功を賞されて紀伊国国造職に任命されたとしています。
これは天道根が、明らかに物部の血族であることを示しているのです。

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これらを総合すると、天道根は出雲・海部・物部の3族の血を受け継いでいることになり、当社の由来を考察する上で大きな矛盾が生じてしまうのです。

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当社境内には、杜に隠れるように数々の摂社が鎮座しています。
天道根命を祀った「天道根神社」のほか、「松平頼雄命」を祀った「邦安神社」、

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「野槌神」を祀った「深草神社」、

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「蛭子神」を祀った「市戎神社」、

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大山咋神・中津島姫命(市杵島姫命)を祀った「松尾神社」、等々。

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中には半分朽ちかけた名前不明のものや、

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台座だけが残ったものも多数見受けられます。

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その中で天道根神社並みに立派に祀られた摂社があります。
「中言社」です。

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同じ形の社が二棟並んで建つその神社の祭神は、「名草姫命」と「名草彦命」。

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名草姫といえばそう、五瀬に毒矢を射た名草の戸畔の名です。

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祭神、由緒に複雑・不可思議な経緯を持つ当社をどう解釈するか、思い悩んでいると、この謎についても出雲の富王家伝承は明確な解答を示していました。

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「國懸神宮」にやってきました。
主祭神は「國懸大神」(くにかかすのおおかみ)で、「日矛鏡」(ひぼこのかがみ)を神体とします。
相殿神に祀られるのは「玉祖命」(たまのやのみこと)、「明立天御影命」(あけたつあめのみかげのみこと)、「鈿女命」(うづめのみこと)。

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この日前大神・國懸大神の神体である「日像鏡」と「日矛鏡」について、『日本書紀』の天岩戸神話の段に以下の記述があります。

「故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也」

ー 即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あめのはぶき/鹿の革で作ったふいご)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり ー

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石凝姥(いしこりどめ)とは、石の鋳型を用いて鏡を鋳造することに精通(コリ)した特別の女性(戸畔・トベ)という意味です。
天岩戸神話では、岩戸に隠れたアマテラスを再び世に誘い出すため、彼女の御姿を型取った鏡を作り、岩戸の前に立てかけ、それを見たアマテラスが興味を示し身を乗り出したところを取り押さえようと計画がなされます。
その時、石凝姥が作ったのが日像鏡・日矛鏡であったのですが、その鏡は神達の御意に合わず、再度作り直した鏡は「美麗」であり、作戦に使用されたのでした。
つまり後に作り直された鏡こそが三種の神器のひとつ「八咫鏡」(やたのかがみ)と云うことです。

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日像鏡・日矛鏡は八咫鏡の兄弟鏡であり、ほぼ同等の力を持っていると云われています。
天道根はこれを託され、紆余曲折の後、当地に奉斎したということになります。
が、これまでのことを素直に受け取ると、高倉下の子孫か物部の子孫かわからない天道根が、出来損なった2枚の鏡を当地に祀ったという話になってしまいます。
富王家伝承を伝える大元出版の「出雲と大和のあけぼの」および「出雲王国と大和政権」では、五瀬の末裔という橋本氏に伝わる話を以下のように掲載しています。

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五瀬の墓と伝わる竈山神社のもとの社家は、物部・五瀬の子孫の家系で、物部の本家でした。
五瀬は高倉下の子孫「珍彦」、および彼が統治する名草の戸畔「名草姫」らの攻撃で負傷して亡くなり、竈山に葬られました。
物部の分家に当たる五瀬の弟「ウマシマジ」らはそのまま船に乗り込み、体勢を立て直して紀伊半島南の熊野灘から再上陸を試みますが、五瀬の息子たちは当地に残り、その後も墓を守ることにしました。
残った人数が少なかったので、珍彦らは攻撃してこなかったそうです。

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時は過ぎ、高倉下らの子孫は紀伊国の国造・紀伊家となり、日前神宮を創建しました。
そこに祀られた日前大神とは、やはり高倉下だったと思われます。
物部の本家「五瀬家」もそのまま名草地方に住み続けましたので、紀伊家とイツセ家は近くに住む豪族同士として、やがて婚姻関係を結び、密接に付き合うようになったそうです。
そして五瀬家は日前神宮の横に国懸神宮を建て、五瀬命を祀りました。
物部族は航海の過程で祭具を大型の銅矛から銅鏡に変更しています。
そこで国懸大神(五瀬)の神体は「日矛鏡」と呼ばれるようになりました。

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第一次物部東征で大和入りを果たしたのは物部分家のウマシマジ達でした。
彼らは大和入りを果たしたことで本家より勢力が大きくなり、分家という対抗心から、たびたび本家に対し攻撃をしかけたと云います。
本家は長いこと竃山神社の社家でありましたが、あるとき分家の攻撃に嫌気がさし、妻の実家の「橋本」姓に改称して、ただの氏子になったように見せかけたと云うことです。

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国造の制度が作られたのは、第二次物部東征のイクメ政権(11代垂仁天皇)の頃だと推察します。
当社は初めは名草郡の浜宮に祀られていましたが、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられています。
その浜宮はイクメと一緒に東征してきた宇佐の「豊姫」が「豊鍬入姫」として天照の神体である「八咫鏡」を祀ったとも伝えられています。
豊姫は月神信仰でしたので、まだ当時は八咫鏡は存在していなかったと思われます。
イクメ勢の勢力が拡大する中で、日前神宮・國懸神宮の社家らは元宮の浜宮を追われたのでしょう。
そして現・日前神宮・國懸神宮の当地は、元は「伊太祁曽神社」の社地だったそうですが、同じ高倉下の子孫である日前神宮の社家が困っているのを見て、当地を譲ったのではないでしょうか。

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日像鏡は紀伊家、日矛鏡は五瀬家によって作られ、それを託されたという天道根は、紀伊家と五瀬家の両家の血を受け継いで生まれた人物なのかもしれません。
八咫鏡はのちの時代に「出雲の太陽の女神」の神体として、出雲王家の者の手によって作られたものだとしたら、神話の辻褄も合うように思いました。

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遷座後は栄華を極めた当社も、天正13年(1585年)に豊臣秀吉に攻め込まれ、以後荒廃することになります。
江戸時代に紀州藩初代藩主「徳川頼宣」により社殿が再興されましたが、しかし今の日前神宮・國懸神宮は最盛期の5分の1の広さで、往時を忍ぶに及ばないということです。

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