鞍岡・祇園神社:常世ニ降ル花 天之高原篇 08

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「私の感覚に限定すればですが、祇園神社の雰囲気には惹かれるものがあり、
神殿を背に里を振り返ると、しっとりとした美しさにハッとさせられました」

~ A氏 談

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馬見原から、五ヶ瀬川沿いに走る国道265号線、いわゆる「ひむか神話街道」を南下していると、道脇に「五瀬命の森」という看板を見かけました。
宮崎県LPガス協会青年部が植樹活動を行った記念に設置されたもので、地名の由来に基づいて命名されたのだそうです。
やはり、五ヶ瀬の名の由来は、東征をした「五瀬命」(いつせのみこと)にあるということです。

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しかし不思議なことに、五ヶ瀬、または高千穂では、イツセを祀る社や伝承が、非常に希薄です。
三毛入野伝承や稲飯の痕跡はあるのに、です。
果たして五ヶ瀬のどこかに、イツセはいるのか。

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馬見原から椎葉村に向かう途中に、鞍岡(くらおか)と言う町がありますが、山間の小さな集落という様相で、近くに来ても僕はいつも素通りしていました。
その集落のさらに奥まったところに「祇園神社」(ぎおんじんじゃ)があるのは知っていましたが、よくある村社にすぎないだろうと、たかを括っていたのです。

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由緒は、29代欽明天皇の時代(539年~571年)に疫病が流行したので、厄難消除の祈願によって創始されたとあります。
古いといえば古い歴史を持つ神社ではありますが、よくある祇園社の由緒と被ります。

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ただ、当鎮座地の背後には祇園山があり、そこから4億3千万年前のクサリサンゴの化石が発掘されたことで、九州で最初に海から顔を出し陸地になったことが証明されました。
鞍岡は、日本でも有数の古い地層をもつ「九州島発祥の地」として知られることになったのです。

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出雲族よりも古い採石民族が、この地層を理解し、当地を神聖視していた可能性は高いように思われます。

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参道を歩いていると、2体の仁王像(?)が出迎えてくれました。

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神仏習合の名残を感じさせますが、大分の国東半島や高千穂の向山神社とも似た空気を思わせます。

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鞍岡の集落は、なぜか少し暗く感じるのですが、それは名前の響きが「暗」「闇」をイメージさせるからなのかもしれません。

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「鞍岡」の名の由来にはいくつかの説があるようです。
一般的に言われるところでは、元久2年(1205年)に源平合戦で敗れた「那須大八郎」が当神社に参拝し、椎葉山に入るに乗馬で入ること困難にして乗鞍を置いたことから「鞍置き村」が「鞍岡」になったというものです。
これは五ヶ瀬町の昭和の郷土史家が発表し、通説となったようです。

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しかし実際は、那須大八郎より320年以上前の天慶7年(877年)に高千穂太郎が高千穂に入って三田井氏を嗣いだ際に、「高千穂庄くらおか」の部落名が既に存在していたことが記録に残っているとのこと。
 当、祇園神社の伝承によると、文献を焼失して確認できないものの、鞍岡の地名の由来は「クラオカミノカミ」が鎮座する村として広く知れ渡っていたことから「クラオカミノカミの村」が「くらおか村」の名前になった、とあるのだそうです。

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この日は雨模様だったこともあり、参道はことさら暗い雰囲気でしたが、階段を昇り終えると、急に明るくなりました。

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先の由緒によれば、古代の人々はこの神聖な山(祇園山)を中心に、熊本県旧清和村、蘇陽町、高千穂町の一部を含む「知保郷圏域」の鎮守の神様として、欽明天皇の時代(西暦530年代)に、曽男神、蘇民将来・巨丹将来を合祀して「祇園社」として創始されたとのことでした。
それからおよそ330年後の貞観11年(869年)、当地も含めて全国で疫病が流行った時代に、山城国(京都)八坂神社から疫病・厄難消除の祈願守護神として素戔嗚大神、他を勧請合祀し、「八坂神社」に改称したとあります。

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つまり、当社には古くから「曽男神」(そおのかみ)という聞き慣れぬ神を祀っていた、ということになりますが、この神は牛頭天王と関係があり、当社ではスサノオと同一神であると説明されます。
ところがそうであるなら、貞観11年(869年)の疫病大流行の際には、当地に祀られるスサノオに、さらに八坂神社のスサノオを重ね合祀したという変なことになります。
しかも『続日本後紀』のあとを受けて編修された『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく/879年)によると、55代文徳天皇の天安元年(857年)に「曽男神」に正五位の神階奉授があったとされています。
正五位は非常に高い位ですので、曽男神=スサノオであれば、そこに八坂神を持ってくる必要性を感じません。

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では、「曽男神」がスサノオでないとすれば、一体どのような神だったのか。
“X”のBruchollerie氏は「ソオは、曽於郡、大和国添郡、信濃国諏訪郡、周防、出雲の曾枳能夜社と石硐の曾の宮あたり、などと音が通じます」とした上で、
「ソオ~周防~諏訪の流れから、諏訪神ではないか」と考察されます。

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そこで、他の祭神を見てみると、曽男神としての「素盞鳴大神」(すさのおのおおかみ)と「蘇民将来」(そみんしょうらい)、「巨丹(旦)将来」(こたんしょうらい)のほかに様々な神が合祀されているのですが、

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よく見る面々の中に、明らかに異質な名前があります。
イツセ、いたーっ!

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こちらはBruchollerie氏の情報などを元に、僕が以前作った系図です。
この系図はまた少々書き換えなければなりませんが、イツセには諏訪の血が入っている可能性があります。
諏訪と多氏のハイブリッドが、五瀬命なのではないかと、思うのです。

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鞍岡こそが、「五瀬の里」だったのではないでしょうか。

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佐織さんは非常に勉強熱心な方ですが、彼女が「五ヶ瀬史書」を調べたところ、
「五ヶ瀬は、かなり前は、鞍岡と桑野内しかなかったと書いてありました。後に、三ヶ所の地名ができた」
と教えてくれました。

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橋本家の桑野内と五瀬家の鞍岡が、古代の、神話の時代の高千穂郷の都だったのではないか、そんなイメージが浮かび上がります。
桑野内と鞍岡の間には、まさにその王都の玄関口として、交通の要所「馬見原」があるのです。
そして佐織さんは更に、
「五ヶ瀬史書に書いてある、鞍岡の神楽は、出雲の唄がうたわれてました」
とも教えてくれました。
「桑野内、鞍岡、と椎葉の御神楽が、同じとゆうのがひとつ、ヒントですね」
と。
五ヶ瀬は出雲にも通じているのです。

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境内社に目を向けてみると、興味深い社がひとつありました。

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「古我牟礼神社」(こがむれじんじゃ)です。
社の説明によると、この神社には「闇龗神」(クラオカミノカミ)を「冠八面大明神」としてお祀りしている、とのこと。

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鞍岡には、祇園神社の南西に「冠岳」(かむれだけ)という山があり、ヤマタノオロチが7巻半していたという伝説が残っています。
このヤマタノオロチの魂を鎮めるために祀ったのが「冠八面大明神」(かむれやつおもてだいみょうじん)だということです。

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7巻半というのは、出雲の藁蛇などでも見られますが、この伝承は、冠岳が出雲族にゆかりがあることを表しています。
そして冠八面大明神という聞き慣れない神の名ですが、僕はこれから信州安曇野の「魏石鬼八面大王」(ぎしきはちめんだいおう)を連想しました。
信州ですから、諏訪に近い伝承です。

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八面大王は安曇野に君臨する、朝廷にまつろわぬ盗賊団の首領であり、鬼であったとも伝えられます。
また、この「八面」は「八女」に通じるとして、「八女大王」(やめのおおきみ)、すなわち福岡県八女の古代豪族磐井との繋がりも考えられています。

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さて、”ヤマタノオロチ”、”八面の神”、”八面の鬼”ときて僕が思うのは、高千穂~阿蘇に伝承される強大な鬼の頭領「鬼八」(きはち)のことです。

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佐織さんとお会いして知ったのは、橋本家と密接な姻戚関係を続けてきた家が興梠家と関東の高橋家であるということ。
その興梠家といえば、僕は高千穂の興梠家であろうと思い込んでいたのですが、どうにもこれが腑に落ちなかったのです。
ずっと違和感を感じながらも、そういうものかとやや考えを放棄していたところがありました。
ところが佐織さんは、取り寄せた橋本の戸籍謄本を僕に見せて、次のように言います。
「五ケ瀬、高森、馬見原一帯(鞍岡)、草部一帯、霧島、鹿児島、熊本城近辺、あと福岡の地名がありますが、高千穂の地名は一切ありません」
つまり、橋本家が高千穂の興梠家に嫁を出した事実は、少なくとも書類上はない、ということです。
これはどういうことか。

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そこで僕は、思い切って佐織さんに尋ねてみると、高千穂の興梠家と、橋本家と姻戚関係のある興梠家は、別物だと言うのです。
なるほど、これを聞いて、僕の抱いた違和感が、スッと収まるのを感じました。
鬼八の子孫は、桑野内・鞍岡の興梠家である。
高千穂神社で有名な三毛入野命と鬼八の彫り物、それが桑野内神社と鞍岡の祇園神社にあるのは、鬼八の里、いわゆる真の「あららぎの里」は、桑野内・鞍岡の五ヶ瀬なのだと、後世の人が伝えたかったのではないかと思えるのです。

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『日本文徳天皇実録』によれば、天安元年(857年)の「曽男神」正五位の神階奉授の際、「冠八面大明神」にもそれに準ずる正五位下が奉授されたとあります。
冠八面大明神の正体が鬼八であるとすれば、彼もまた深く信奉された神であったのです。

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鞍岡祇園神楽は、鞍岡の祇園神社に伝承されている神楽で、その古くは延喜式内の古我武礼神社の広庭で舞を舞ったのが始まりとされています。
神楽の調子は、白岩山の秘境に育つクルミの木を胴にして、奥山で獲れる鹿の皮を張り、麻の細綱をもって両端を引き締めた太鼓と、篠竹に穴をあけて作った笛、そして手拍子による都調の優雅なる音と妙なる調べが独特の神楽リズムとなって鞍岡神楽が形成されたと伝えられています。

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鞍岡に伝わる棒術は「大車流」といわれ、神陰流四天王の一人「丸目蔵人」が開いた兵法とされます。
心影大車無雙流とも呼ばれ、文書には江戸前期に鞍岡についての初見があり、以後は馬見原、椎葉村尾前を経て、場末に再び鞍岡の人に伝授されたとのことです。
これは防御の型が原則で、長棒と半棒との打ち合い、棒と太刀との打ち合い等、30数種の型があり、太刀を使用する型を通常「白刃」と称しています。
鞍岡棒術保存会では、祇園神社の夏の例大祭で「白刃」を奉納し、鞍岡中学校の生徒への伝承指導を行っているとのこと。

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A氏がくれたメールがきっかけで足を運んだ、いにしえの里と社。
祇園神社宮司さんのおっしゃるように、ここは「呼ばれないといけない神社」なのかもしれません。

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11件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    ソオの神様が、諏訪のソノウ神に見えなくもない••

    ミナカタ祭祀が後年の上書きと見るのであれば、諏訪と九州との繋がりはワクワクしてきますね

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      わくわくします😌

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  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    五条先生的に、生目神をどう思われますか?

    五ヶ瀬町に行く前に一つだけ素通り出来ない神社がありまして、車を戻して行ったのが菊池神社

    生目稲荷がありました。

    五ヶ瀬の妙見社にもありましたよね。五ヶ瀬町の神社はこの祇園社以外は非常にシンプルで摂社末社が殆どありません。

    政権取ったはいいがパートナーを裏切った上に税金の徴収で直接乗り込んできた割に、大事にされてる感が伝わって来ます。

    不思議。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      そうなんですよね。
      馬見原にも、大切に守られている感じの生目神社がありました。
      五ヶ瀬は特に多いと感じていて、そこが違和感なんです。

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  3. 不明 のアバター mstk より:

    近日の投稿ありがとうございます。とても参考になります。来週末、五ヶ瀬と鞍岡を巡ってみます。今回も延岡の西郷隆盛宿陣跡資料館に立ち寄ります。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      こんにちは。
      来週五ヶ瀬を回られるのですね。

      いいね

      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        ありがとうございます。メール致しました。

        いいね: 1人

        1. 不明 のアバター 匿名 より:

          おかげさまで五ヶ瀬を深く巡ることができました。ありがとうございました。

          いいね: 1人

          1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            それは良かったです。
            天気にも恵まれたことではないでしょうか☀️

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  4. りゅうさく のアバター りゅうさく より:

    毎話、楽しく拝読しております。

    神楽を大切にしている椎葉村のなかで、

    綾野ファームさんのある嶽之枝尾神楽には、他地区にはない演目?舞?があるそうです。

    その内容をよく聞くと蘇民将来の話のままでした。

    すぐに底に行きあたる可能性も否定はできませんが、機会があれば深掘ってみたいと思っています。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      嶽之枝尾神楽が特殊だというのは僕も聞いていましたが、蘇民将来でしたか。興味深いです。
      高千穂の黒口神社では、蘇民将来が天村雲の話として伝わっています。
      夏でも涼しい椎葉村ではありましたが、今度は秋が深まる頃に行ってみたいです。苔が枯れて侘びを増した御池も見てみたいし、綾野ファームさんの五右衛門風呂で、体の芯まであったまりたいので😊

      いいね: 1人

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