”おさひめさん”めぐり 前編:八雲ニ散ル花 番外

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石見銀山の佐毘売山神社は、全国一の規模の山神社という位置付けであったようです。佐毘売山神社が現在の形になる前は、かつては須勢理毘売命に寄せた信仰があった様です。穀物神であり、水神であり、三瓶山の多根にシャーマンの伝承が残っているそうです。(郷戸家の事なのか?)

昭和期には須勢理毘売命の神籬地も残っていたらしいですが、現在は水田と道になっている様です。(所在の分からない姫社の事か?)

古代佐比賣山の山麓では8ヶ所の湧水地に佐比賣山神社があったそうで、878年にお大師様信仰が流行り、8社同時に「八面神社」と改名。(江戸末まで)

明治にはいり佐比賣山神社に戻る社や以前の八面のまま、八幡社に合祀された2社があり、他は佐比賣山神社(三瓶町多根)、高田八幡宮(三瓶町池田)、八面神社(三瓶町志学、八面神社(三瓶町上村)などになっているようです。

千本杉の地にあった佐比賣山神社本宮は明治期に陸軍演習地になり消滅。悲惨な運命をたどった様ですね。

~ 2025年10月25日 narisawa110

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ってなことをnari氏が言うものですから、とりあえず”おさひめさん”めぐりをしてきましたよ、っと。

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最初に訪れたのは、島根県大田市鳥井町に鎮座の「佐比賣山神社」(さひめやまじんじゃ)です。

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鳥井町は日本海に面しており、かつて物部神社の一の鳥居が当地にあったことが地名の由来とされています。
さらに当社と物部神社は静間川で繋がっており、さらに遡ると佐比賣山(さひめやま/三瓶山)の麓に行き着きます。

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当社は延喜式(えんぎしき)の式内社「佐比責山神社」の論社ともなっているのですが、創建は不詳で、由緒によれば寛平3年(891年)に、美濃國不破郡不破の関地内の神社より、鳥井町市杵島山(明神山)に勧請せりと伝えられているとのことです。

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延喜式は、延喜5年(905年に醍醐天皇の命により編纂が始められ、延長5年(927年)に完成しましたので、年代的にはアリですが、nari氏に”難解書物”と言わしめる石見国の地理書『石見八重葎』(いわみやえむぐら)に、”佐比責山神社の所在地は鳥井村である”と記されていることが主張の根拠のようです。

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さらに由緒は、当社は参拝が不便で社殿が狭かったため、明治44年4月15日に八幡原に鎮座の八幡宮へ合併し社号を佐比賣山神社と称す、とあり、現社地へ遷された、ともあります。
なんのこっちゃ???

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というのも、僕の調べた限り、八幡原の八幡宮といえば、直線距離で20kmほど離れた出雲市佐田町にある八幡宮になるんですよね。
そこまで遷されて戻ってくるって意味がわからない。
ただ、どっち向いてんの?って感じの当・佐比責山神社社殿ですが、こうしてみるとなるほど、参拝者が佐田町の八幡宮を拝する形で拝殿が建っているいることになります。

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また、現在の平地を海で塗りつぶしてみると、沖に浮かんで見える双子の島が、最初の鎮座地であった市杵島山と呼ぶに相応しい場所のようにも思えます。

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当社の現在の祭神は「金山彦命」と「金山姫命」。
他に「八束穂宇美津奴命」「市杵嶋姫命」「田心姫神」「誉田別尊」「息長足姫命」「武内宿禰」「事代主命」「稻倉魂命」を配祀します。

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勧請元である、”不破の関”地内の神社とはどこになるのでしょうか?南宮大社かな?
どちらにせよ、佐比賣山との当社の関連は薄そうな気がするのですが。

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朝早いこともあって、神社の奥の杜から、怪しげな気配が漂ってきます。

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とても怖いのですが、好奇心が勝り、歩みを進めました。

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じ、神社があったよ。
境外社に「龍宮神社」(大綿積神)、「琴平神社」(大物主神)、「道祖神社」(道開神)、「豊山神社」(大山祇神・豊受姫神)があるそうですが、それとは違うのでしょうか?
それにしても、怖い。

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大田市三瓶町小屋原の「三瓶山神社」(みかめやまじんじゃ)は、2021年に訪ねていました。
てか、さんべさんじんじゃ、じゃなかったのね。

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由緒によれば、72代白河天皇の御宇、承暦永保の頃、源頼義の家臣である平吉助なる人物が、逃走してこの地に来たといいます。
彼は勇猛の士にして、里人の嘆声を隣み、農民の使用する鎌を以て野獣を退治しました。
その鎌を神体として熊野三社を勧請鎮祭したのが創建であるとしています。

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また、社頭掲示板には、「往昔、少名彦命、大己貴命、八束水臣津命の國造りの際、伯耆大神山と此の石見國佐比賣ケ嶽を両端の杭として國曳きに因いて國土を拡め給い、正しく治められたので、御神徳を讃え、此の3柱の命を主神として祀り、延喜3年(902年)には、正4位下を授けられる」とあります。
明治4年には別に鎮座していた(延久4年1072年鎮座)「伊邪那美命」他2神を祀る別宮を合併し、明治8年に従来の佐比賣山が三瓶山となったので、三瓶山神社と改称し村社に指定された、とも。

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現在の祭神は「伊邪那美命」「速玉男之命」「事解男之命」となっており、この合祀された神と熊野系の神が主祭神となっています。
先の”熊野三社を勧請鎮祭”した社というのが、別宮のことなのかもしれません。

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本来の祭神であろう「八束水臣津野命」「大國主命」「大己貴命」「少彦名命」「須勢理姫命」「金山比古命」「金山比賣命」らは配祀されていました。

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多根方面へ車を走らせていると、

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対向車線の真ん中あたりで、最近ウワサの”ちいかわ”がのんびり座って僕に手を振っていました。
朝とはいえ車道なので、自分の車を脇に止めて、「あぶないから道脇に避けたほうがいいよ」とアドバイスすると案の定、別の車が走ってきました。

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スタスタと路肩の方へ立ち去った”ちいかわ”でしたが、その後、もう逃げ去っただろう、と思ってガードレールまで寄ってみると、まだそこにいた彼と目が合いました。
「たぬきは朝食はまだなのですが、おやつでもいただけますかな?」
彼は何食わぬ顔で、そう言います。

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「あいにく君にあげられるものは、何もないんだよ」
そう告げると、”ちいかわ”は少し寂しそうな顔をするのでした。

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そうした小さな出会いを経て、僕がたどり着いたのは、大田市三瓶町多根に鎮座する「佐比賣山神社」です。

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こちらが式内社「佐比責山神社」の最有力候補のようです。

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創建は不詳ながらも、社伝によると浄見原(天武帝)の御宇とも寛平3年(891年)とも云われています。

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祭神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)、「少彦名命」(すくなひこなのみこと) 、「須勢理毘売命」(すせりびめのみこと)。
由来としては、大国主が国土経営の時、佐比賣山(三瓶山)山麓に池を穿ち、稲種を蒔いて田畑を開墾して農事を起こし、民に鋤鍬の道を教え授けられたので、その徳を仰ぎて祀ったのが始まりであるとしています。
地名の多根(種)は、その故事によってつけられたということです。

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また当社では、佐比賣山を杭として、国来国来(くにこくにこ)という掛け声と共に新羅の岬を国引きして、国を作った『国引き神話』も語り継ぎます。

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境内には「叶え杭」という、国引き神「八束水臣津野」を祭神とする長浜神社で「願い綱」を求め、ここに掛けて願掛けをするというものがありました。
神社もいろいろ楽しい企画を思いつくものです。

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国引き神話はさておき、nari氏曰く、当地にはシャーマンの伝承があるとのこと。
当社の古来の祭神は須勢理毘売だったのかもしれません。巫女神を祀ったものなのでは。

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麗しき佐比賣山は荒ぶる女神の山でもあり、約10万年前に始まった噴火活動は、その後7回の活動期があり、約4000年前に最後の噴火が起きました。
佐比賣山山麓は火山灰などの土壌により水が地下に流れ、地表を流れる川がありません。
佐比賣山山麓では古くから8ヶ所の湧水があり、そこにそれぞれ集落ができ、それぞれ三瓶山をまつる神社があったと伝えられていました。

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当社がその一つであるのなら、水神を崇めるシャーマンがいたとしても不思議ではありません。
しかし当社他、佐比賣山神社候補地の社の近くに、湧水源があるようには、僕には見えませんでした。
佐比賣山山麓の8ヶ所の湧水源の場所は、今は分かりにくくなっているようで、モモさんとシズさんも探しているようなことをおっしゃっていました。

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火の神を祀る秋葉神社でも、その始まりの場所は水源でした。
こうした川のない場所での湧水地は、人の暮らしに直結する重要な聖地だったのです。

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もうひとつ、こうして佐比賣山神社めぐりをしていて疑問に思うのは、この後に行く神社も含めて、なぜか境内から佐比賣山を望むことができないことです。
水源も見当たらない、御山も遥拝できない、ではこれら佐比賣山神社群はいったい何を信仰していたのでしょうか。
本来の佐比賣山神社の鎮座地は、もっと別の場所にあったのではないか、とさえ思われてきたのでした。

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当地には大田市の無形民俗文化財に指定されている「多根神楽」が伝えられています。
石見神楽はテンポが速い八調子が主流になっていますが、多根神楽は原型にあたる六調子の優美な舞を伝えているとのこと。

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明治時代には、神職による神楽舞が禁止されており、当地では佐比賣山神社の神職から多根の住民に受け継がれ、継承されてきました。
佐比賣山神社の例大祭や、7年ごとに執り行われる農耕神事の大元祭では、この神楽が奉納されるのだそうです。

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